クレルマスは『北のルラルタ』と証された大陸西側第二の商業都市である。

 最南端の街から繋がる三つの街道がひとつ前の街、ヴァフリーズ付近で一つになり、そ

のまま一つになった街道を半日歩けばつくこの都市はルラルタと同じく様々な人で溢れて

いる。東側から来る観光客、旅芸人一座、行商人達のキャラバン、旅の傭兵などなど。

 この街はそういった旅をする人々の生命線的な役割もあった。

 特に今の時期、冬の季節はこの地域は既に雪化粧を施していて、十分な蓄えが無いまま

街道を進もうとすると夜には完全に遭難してしまう。毎年、この季節になるとこの辺りで

は一人は死者が出てしまうほどだ。

 最北端のオレディユ山から来る吹雪が原因だが、その雪化粧を見るためにこの危険な時

期に観光に来る人もいるのだから危険と利益は紙一重だと言う事も分かる。

 そんな都市に、ルシータ=アークラットは六年ぶりに帰ってきた。





 馬車をいつものように街の入り口に残して、乗り合い馬車でヴァイ一行は街中へと進ん

でいた。乗っているのはヴァイ達意外は見えない。まだ時間は日が昇ったばかりで人々が

活動する時間帯ではないのだ。

「あたしは街を見てまわってるわ」

 ルシータは木刀を隠すために買っておいた釣竿入れを肩に背負うと強い口調で言った。

 嫌悪感丸出しの言葉尻にヴァイも嘆息する。

「ああ、大体事情は聞いてるから止めはしないが」

「事情ってなんですか?」

 マイスがきょとんとしてヴァイに尋ねる。しかしルシータがなんでもない、の一言でマ

イスを黙らせた。

「……」

 その様子を何も言わずにじっとミリエラは見つめていた。ヴァイは誰に気づかれる事な

くそんなミリエラを見ている。ミリエラはまるで失われた何かをその中に見出そうとする

かの如く真剣な眼差しを向けていた。

(何だろうな、この嫌な予感は)

 ヴァイは表情に出さずに考えた。

 しかし頭に浮かぶものはどれも空論の域を出ない。

「あ、中心街ですよ」

 転々と並んでいた住宅が姿を消してきちんと並べられた建物がヴァイ達の乗っている馬

車を包む。クレルマスの中心街は長方形に道が区切られた特異な形をしている。

 縦と横の中心に大きな通りが十字に敷かれ、それらから等間隔に通路が順に敷かれてい

るといった感じだ。

 理路歴然としたその形は、この街を設立した人物がよほど几帳面な性格だったと疑いも

しないだろう。

 縦と横の大通りが交わる場所で乗り合い馬車を降りたヴァイ等は早速行動を開始した。

 ルシータは久しぶりに踏みしめる自分の生まれた街がやはり嬉しいのか、少し浮かれた

歩調で散策に向かった。ルシータの頭に乗ったレーテも心なしか嬉しそうに尻尾を振っている。

 他の三人はミリエラに使いを頼んだレギンス=アークラット氏を尋ねるべく、彼の家へ

と向かった。

「しかし、ちょっと早すぎるんじゃないのか?」

「大丈夫ですよ。レギンスさんは朝は早くても大丈夫だ、って言ってましたから」

 ヴァイの問いかけにミリエラは何の不安も無く答える。ここはミリエラを信じる他は無

いようだ、とヴァイは腹を据えた。

 しばらくミリエラの後をついて行くと徐々に建物の数が減り始めた。代わりに周りには

草が綺麗に生えそろった草原が広がっている。

「これはみんなアークラット氏の土地なんですよ」

 ミリエラが少し嬉しそうに説明した。ヴァイ達は感嘆の溜息を吐いている。

 自分のものではないが、自分が住んでいる街の凄いところを他人に驚かれると気持ちが

い良いものである。

「あ、見えてきましたよ!」

 ミリエラが声を一段と弾ませた。ヴァイ達の視線の先にはこれまでに見たことも無い大

きさの屋敷が佇んでいる。一体あの屋敷にどれだけの人が住んでいるのか、とヴァイは思った。

 その屋敷はさながら城のようにヴァイとマイスを威圧する。

 視界に屋敷を収めてからまたしばらく歩き、ようやく一行は屋敷の玄関までたどり着く。

 そこでミリエラは玄関に備え付けられている呼び鈴を鳴らした。

 しばらく待つと執事らしき男が顔を出す。

「何か用ですかな?」

 その執事が何かしらの武道の心得があることをヴァイは察知した。そして、やけに余裕

が感じられないと言う事も。マイスは無論、ミリエラも気づかずに自然に言葉を発した。

「あの、レギンス氏の依頼でヴァイ=ラースティンさんを連れてきたんですが……」

 執事はそれを聞いてしばらく黙っていた。その沈黙が何を意味するのかミリエラにも、

ヴァイ達にも分からない。しかしその表情は一言で言えば困惑のものを浮かべていた。

「あ、あの……」

 ミリエラが重ねて何かを言おうとした時、執事の口が開かれた。

「そのような依頼をご主人様は依頼しておりません」

「えっ?」

 ミリエラはきょとんとした顔で、狂言を聞かされたような顔になって執事に疑問の声を

届かせる。しかし執事は立ちの悪い冗談も、意地悪な返答もしているわけではなかった。

「ご主人様はそのような依頼をしてはいません。それ以前に、私はあなたにお会いした事

もありません」

 執事は無感情に、冷淡に言い放った。それは純然たる事実を言ったまでだろうがミリエ

ラにしてはとてつもなく冷酷に映った。

「そ、そんな……、そんなぁ!!」

 ミリエラは突如発狂した。叫び、顔に両手を当てて元来た道を駆け戻っていく。

「ミリエラ!」

 マイスは慌ててミリエラの後を追いかけようとして、その場に佇んでいるヴァイを不信

げに見た。

「先生! 早く行かないとミリエラを見失いますよ」

「お前に任せた。俺はここに用がある」

 ヴァイはマイスと視線を合わせようとせずに玄関に佇む執事を見ている。マイスは軽く

頷いた後にミリエラを追って駆け出した。

 マイスの足音が聞こえなくなり、辺りはしばし静寂に包まれる。

「レギンス=アークラット氏に用があるんだが……通してくれないだろうか?」

 ヴァイは口調穏やかに言う。執事はしばらくヴァイを真っ向から見返していたが静かに言った。

「ヴァイ=ラースティン様、ですね。ご主人がお待ちです」

「……俺を探してはいなかったんじゃないか?」

「探してはいませんでした。あの娘のことを知らないのは事実です。しかし、ご主人様は

あなたに会いたがっていました」

 執事は玄関を開け放ち、ヴァイを中に誘った。

「ルシータお嬢様がお選びになった方が、どんなお人かとご主人様は気にしておいでだっ

たのです」

 ヴァイは執事に誘われるまま屋敷の中に入った。





(何も変わってない)

 ルシータはまだ人々の喧騒が支配し出す前の静かな風景の中、気持ちよさそうに歩いて

いる。商店のほとんどはまだ店をはじめる準備をしているのだろう。どこも軒先が開いて

いるところは無い。

 少々歩くと、たまに朝早くから開いている喫茶店を見かけるが、どこもルシータがまだ

家のお嬢様だった頃に、早朝に家を抜け出して世話になった場所だった。

(ここは本当に何も変わらないのね……)

 ルシータはふと立ち止まり考え込む。

(でも、あたしが気づかないだけで本当はいろいろと変わっているかもしれない。でも、

あたしがそれに気づかずにいるのは結局この街の一番大事なところが変わっていないから

なのかな……)

 ルシータの瞳にふと暗いものがよぎる。

「じゃあ、あたしはどうなのかな……」

 口に出して言ってしまう。

 時代も、街並みも、何もかも普遍の物は無い。

 人も例外ではないのだ。

 しかし大事なものまでを人間は時間によって変えてしまうのだろうか?

 その、『大事なもの』をいう物をルシータは言い表す事はできない。

 しかしルシータにもあるはずなのだ。

 そういった、何にも代えることができない不変の物が。

「もしかして、ルシータちゃんかい?」

 物思いの最中に入ってきた声はルシータの郷愁の念を一気に増大させた。その声は柔ら

かさに満ちていてルシータの心に深く浸透した。

「トラントさん」

 ルシータはよく世話になっていた喫茶店の店長であるトラントに挨拶と共に笑いかけ

た。懐かしさに何故か涙腺が緩むのを感じる。

「ルシータちゃん、いつ帰ってきたんだい? 親父さんともう仲直りしたのか?」

「……いえ」

 トラントは数少ない当時の状況を知っている人の一人だった。

 ルシータの口調の陰鬱さにトラントはしまったとばかりに口を抑える。その大げさな動

作はルシータが知っていたあの頃と全く変わっていなかった。その事にルシータは安堵を覚えた。

「まあ、今までの話とか聞きたいからうちの喫茶店においでよ。サービスするよ」

「ありがとう、トラントさん!」

 ルシータは今の間だけ昔の戻る事にした。楽しかった時間へと再び戻るために。

 その場所から少し歩いたところにあったトラントの喫茶店は、まだ誰もいなかった。

 昔のこの時間はかなりの人が出入りしていたはずだ。

 ルシータはトラントに聞いてみる。

「少し離れた場所に二年程前から新しい喫茶店ができてさ。あっちに客が流れていったん

だ。昔からここを使ってくれている常連さん以外はほとんどあっちだよ」

 トラントがそう言って溜息をつく姿はルシータが知っているトラントのものではなかっ

た。昔はもう少し覇気があったような気がする。年をとってそれも減ってしまったのだろ

うか?

「そういやさ……」

 トラントとルシータは自分達の思い出を語り始めた。

 ルシータはクレルマスを出てからヴァイと共に今、帰ってくるまでを面白おかしく、時

には激情も入ったりしてトラントも一緒に怒りながら、昔を語った。

 トラントはルシータがこの街を出てからの、ここで起こった事を。





 瞬く間に時間は過ぎていく。

 いつのまにか外には雪が降り始め、遠くには雷雲まで出てきていた。

 それは今のルシータの心境に近かったかもしれない。

 ルシータはトラントの話を聞いている内に空虚なものが自分の中に生まれてくるのを感じた。

 自分とトラントの間に空いた空白は、思ったよりもルシータに影を落としていた。

 トラントと共にルシータの父親に対する愚痴を聞いてくれていたハンスは一年前に事故

死していた。ルシータと学校で仲が良かったエミリアは家の対面のために違う都市の富豪

の元に嫁いでいったという。トラントはいつのまにか結婚していた。

 他にもいろいろな人が、ルシータがその中にいた六年前と状況が変わっている。

 六年という歳月は、ここまで間を広げてしまうものなのか。

 ルシータは話しつかれたトラントから離れて外を眺めた。

 唐突に視界がフラッシュする。

 稲光が遠くに落ちているのを見る。

 その荒れた光景は、まるでルシータの胸中を示すかのようだった。





 時間は夕刻。

 雪が稲光を伴って降り注ぎ、辺りには誰もいない。

 都市クレルマスの入り口にある乗り合い馬車の停留所。そこに備え付けられた椅子に、

ミリエラは雪を体に纏わりつかせている事をなんとも思わない様子で座っていた。その瞳

は虚ろで何も捕らえてはいない。

「私は……一体、何なの……?」

 ミリエラは意識しているのかいないのか分からない中で呟いた。

 このごろ睡眠をとるたびに浮かんでくる光景。それは二人の少女が花畑に座り、一人は

花の輪を。一人はカチューシャをお互いに渡している風景だ。そして花の輪を渡している

のは幼いミリエラなのだ。

 その光景にミリエラは何も覚えが無い。しかし、その光景はやけに懐かしいのだ。

 そうした矛盾にミリエラは苦しむ。まるで自分の存在意義が消え去っていくような感覚

が生まれてくる。

「何なの……何なの……何なの……」

 ミリエラの衣服は既に大量の雪が付着している。冷たくなった衣服はミリエラの体温を

奪っていった。

「私、は……」

 ミリエラの意識はそこで途絶えた。





 ヴァイはじっと窓の外を見つめている。

 その部屋はアークラット家が用意したそれなりに高い宿屋の一室である。雲のために辺

りは薄暗く、部屋には電灯が灯っていた。後ろを向くと雪まみれになったマイスが体を拭

いていて、妙に落ち込んでいる様子のルシータがレーテを抱きしめたままベッドに腰掛けていた。

 部屋の空気は重い。

「……ミリエラ、どこでどうしてるんだろう?」

 ルシータが陰鬱な声を小さく発した。

「ごめん。僕が彼女に追いつけなくて……」

 マイスはルシータが落ち込んでいるのは自分のせいだと思い、頭を下げた。ルシータは

そうされた事にも気づかずに虚ろな視線を床へと向けている。

「……ルシータ、話がある」

 ヴァイは唐突に言った。きょとんとするのはマイス。ルシータはゆっくりとヴァイを見

ただけだ。

「悪いマイス、席外してくれ」

 マイスは無言で頷くとドアに立てかけてあった傘を取って外に出て行った。もう一度ミ

リエラを探しにいくのだろう。

 マイスが去って少ししてからヴァイは話を切り出した。

「レギンス=アークラット氏のことだ」

 ルシータの体がぴくんと微かに動いた。ヴァイに向けられた瞳は少し嫌悪の感情を含ん

だものへと変わる。しかし次の瞬間にはそれは砕けた。

「レギンス氏は今、病に冒されている」

「えっ……」

 ルシータの嫌悪の感情はその一言によって霧散した。後に残るのは多くの困惑と多少の

不安。ヴァイはその二つの感情をルシータから察すると安堵した。

「回りくどく言うのも意味が無いからはっきり言おう。レギンス氏は死ぬ」

「……どう、して?」

 ルシータの表情に不安が浮かんだ。


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