冬の空気が大気に混ざり、風に乗って大地を包んでいく。

 季節は秋から冬になり、北の地では本格的に雪が降り始める季節となった。

 寒波は街道を進む一つの馬車にも容赦なく襲い掛かってくる。

「……寒い」

 御者台でそう呟いたのは黒髪黒瞳の男である。

 額には紅いバンダナを巻き、白いジャケットの前をしっかりと閉じ、その上にコートを

羽織っている。下はジーンズ。

 その雰囲気は健康的な男子を予想させる。

 しかし、歯をガチガチと鳴らしている様は少々情けないものもある。

「次の街はまだつかないの、ヴァイ〜」

 馬車の中から同じく寒さに参っているような感じの声が聞こえてきた。女性の声である。

 ヴァイと呼ばれた青年は、馬車の中を振り返り歯が鳴るのを強引に押さえながら言った。

「あと、半日って所だな」

 その声は暗い。自分で言った言葉に対して気持ちが沈んでいるのだ。

「うううぅ〜」

 情けない声を出して馬車の中から顔を出したのは金髪の長い髪を持つ少女だった。

 黙っていれば貴族の令嬢としても通用する容姿。

 実際彼女は貴族とは行かないまでも富豪の娘だった。

 しかし外見と中身は必ずしも一致しないという事を体現しているのが彼女だった。

「これから寒くなるのに北に向かうんだからもっと防寒具買っておけば……」

「だから、誰のせいだと思っている?ルシータ?」」

 ヴァイの声が震えた。それは決して寒さだけが理由ではなかった。

 ルシータと呼ばれた少女はヴァイのこめかみに青筋が立っているのを見て、別の寒さが

背中の下から頭までこみ上げた。

「あ、あたしが悪いって……」

『ああ』

 ヴァイの他に二つの声が全く同時に発せられた。

 ルシータは馬車内を振り返り言う。

「ちょっと! みんなあたしが悪いって言うの!?」

「毎度の事だろ、嬢ちゃん」

 気だるそうな声がルシータに向けられる。その主はライトメイルをつけた傭兵風の格好

をした男だった。歳はまだ若いようだが醸し出される雰囲気は何か年寄り臭い。

「それは聞き捨てならないわねレイ! マイスも何とか言ってよ!」

 ルシータが傭兵風の男にどなった後にもう一人いる少年に訴えかける。

 一緒にいた男は羽織っているマントの前をしっかりと閉めて小さくなっていた。

 その容姿は簡単に言ってしまえばヴァイのできそこない、といったところだ。

 意識してヴァイの格好を真似しているようである。その少年はジト目でルシータを睨ん

でからはき捨てるように言った。

「いつものようにルシータが依頼人を病院送りにしたおかげで依頼料はパア。前みたいに

追い出されることはなかったけど結局後ろめたくて出てきた……。さあ、誰が悪いかな?」

「うッ……」

 ルシータは何か言い返そうとした。しかしできなかった。

 マイスの目は全く笑っていなかったのだ。下手な言葉が通用する状況ではない。

『さあ、誰が悪い?』

 三者三様の声がハモった。ついにルシータは観念する。

「ごめんなさい」

 そう言ってルシータは馬車の中に引っ込んだ。

(寒い思いをするのは俺だけか)

 馬車の中は前の街を出る前に買った毛布で覆っているために寒波が入ってくる率は少な

い。しかし南育ちのマイスには堪えるようだ。

 様々な環境で訓練してきたヴァイにしてもこの寒さは簡単に耐えられるものではない。





 魔術都市ゴートウェルを出て早二ヶ月。

《蒼き狼》の一人、ミスカルデ=エバーグリーンが残した言葉に従い、ヴァイ達は西側と

東側を繋ぐただ一つの場所、侵されざる領域、オレディユ山へと向かっていた。

 オレディユ山はこの世界の最北端に位置する山で、世界を二分する大河の源泉がこの山

にある。

 常に尾根には雪が積もっており、その上には薄暗い雲がかかっている。

 今までにそこに登ったという人は聞かない。

 ヴァイ達はこのまま行けば、初めてオレディユ山に登る人間として歴史に名を残す事に

なるのだ。

(でもそれはないだろうな)

 ヴァイは寒さを紛らわすために思考に意識を埋めていった。

(ミスカルデが俺達を誘った。それはあいつが少なくとも一度はあの山に入っているって

事だ。罠を張るにもそこに一度は行かなければ始まらない……)

 結局、あの女の掌の上にいるのか。

 ヴァイは笑いがこみ上げてくるのを何とか自制した。このまま笑い出せばルシータに奇

異の視線で見られる事は分かっていたからだ。

「さて、もう少しだ。がんばれよ」

 ヴァイは寒風の中、文句一つ言わずに歩を進めている二頭の馬に声をかけた。

 弱々しく馬達は嘶いた。





 ヴァイが言った通り半日ほど経って、手綱を握る手も限界に近づいていたヴァイの視線

に街が飛び込んできた。

「ルシータ。やっとついたぞ」

 ヴァイの呼びかけにルシータは勢いよく幌をあげて外の景色を見た。

「やったぁ! 早く温泉温泉!!」

「寒いから締めろ」

 レイが不機嫌な声でルシータに言うが、ルシータは気が早っているためにその言葉を聞

こうともしない。

「早く早く! リッチー! ベルモンド! 急ぎなさい!!」

 ルシータは勝手につけた馬達の名前を精一杯の声で叫ぶ。馬達もそろそろ限界だったの

かヴァイの意図とは関係なく歩速を早めた。

 視界に街を収めてから数刻もしないうちにヴァイ達は街の外壁までたどり着いた。

 正規の受付を済ませて貴重品を持ち、中に入る。

 その街、カッサスは宿屋にはすべて温泉があるという特殊な街だった。

「温泉入ろう! 寒くてしょうがないわ」

「そうだな。ひとっぷろ浴びて暖かくして寝たいぜ」

「あいかわらずおやじ臭いわね」

「ほっとけ」

 いつものルシータとレイのやり取りを聞きつつ、ヴァイとマイスは宿を探すために少し

先を歩いている。

「先生。ぱっと見で思うんですが、ここには宿屋しかないんですか?」

 マイスが不思議そうに尋ねてくるのをヴァイは分かっていたかのごとくしてやったりと

言った顔をした。

「この街はこの通り寒波が押し寄せる土地にあるからな。農作物を作るには適していない。

だから他の事でしか街を維持できなかった。そこで見つけたのが温泉だったってわけだ」

「へえ……。でもなんだかおかしくありませんか? この街」

 マイスは訝しげな視線を辺りに向けた。確かにヴァイも気づいている。

 まだ、昼半ばだというのに人の姿が見えないのだ。まるで何かを恐れるように家に閉じ

こもっているみたいに思える。

「あったよ! 宿屋!!」

 ルシータがヴァイとマイスの数メートル先で大声を上げて言ってくる。

 とりあえず二人は問題を後回しにする事を決めた。





(どこだろうここ……?)

 少女は街道にぽつんと立ち尽くしていた。手には手提げのバックが一つ。

 着ている服は上下ともに紫色をした普通の服。頭には紅いカチューシャ。

 街道を旅するのにスカートは少し辛いように思えるが少女には関係ないようであった。

 その時には彼女には別の問題があったからだ。

(……とりあえず、街に行かないと)

 眼鏡の奥にある瞳がある一点を見つめる。

 その視線の先にはうっすらとだが街が見えた。

 少女は両側に下ろした三つ編みのお下げを手で軽く弄ぶ。

 その動作は自然なもので少女の癖のようだ。

(この辺りに来てる筈だもん。人に聞けばあの人の行方も分かるに違いないわ)

 少女は当面の目標をとりあえず立てると、以外にしっかりした足並みで歩き出した。

 足の向く先にある街、カッサスへと。





「モンスター退治?」

 ヴァイ達が食事をしている最中にルシータが言ってきた事に全員が呆気に取られた。

「そ。街の一番北側にある温泉の近くにモンスターが住む場所があって、時々出てきて街

の人を襲うんだって。これは助けないわけにはいかないでしょ?」

 ルシータは自信たっぷりにヴァイに向けて言ってくる。

「まあ、それが本当なら助けないわけにはいかないが……」

「でも本当にそんなモンスターって呼べるような奴なの?」

 マイスが疑心に満ちた口調で言うのがルシータには許せないらしく憮然とした顔になっ

て言い返した。

「街の人が嘘をつく理由がないでしょうが! あんた、どうしてそう無償で人を助けよう

って気が起きないの?」

「嬢ちゃんが言える台詞じゃねぇな」

 黙々と食事をしていたレイが口を開いた。静かにその場にいる誰よりも静かに発したそ

の言葉はルシータの心に深く突き刺さった。

「ど……どういうことよ」

 ルシータは顔に浮かんだ動揺を隠す事ができずにしどろもどろになる。

「この中で金に一番うるさいのは嬢ちゃんだぜ」

「あ……あたりまえでしょ! この中でほかに経済能力ある人いるの!?」

「キューイ」

 ルシータの声にあわせて膝の上に座っていた幻獣カーバンクルの幼生、レーテが声を上

げる。

 流石にルシータがいった言葉は真実だったのでみんなは口を閉ざした。

「とりあえずゆっくり食事させろよ。それからでも遅くはないだろ」

 ヴァイの言葉にやっとルシータは満足したらしく、自分も食事に取り掛かった。

(それにしても……)

 ヴァイは食べ物を口に運びながら考える。

(本当に、何かがおかしい)

 何か、というのを正確に言う事はヴァイにはできなかった。それは王立治安騎士団《リ

ヴォルケイン》元隊長だった自分の経験でしか感じる事ができないものだったからだ。

(こんな感じの時は嫌な事が起こる)

 ヴァイはまたしても何かきな臭い事に巻き込まれるような気がした。





 数刻後、ヴァイ達はモンスターが住むと言われているカッサス北部の土地に来ていた。

 そこは以前からカッサス最大の大浴場として街の名物となっていた浴場だった。

 しかし二ヶ月前から突如現れたモンスターに観光客が襲われた事で、ここは皆の注目を

集めていた頃の面影を残したまま放置されていた。

(そう、二ヶ月前だ)

 ヴァイ達が魔術都市ゴートウェルで騒動に巻き込まれたのも二ヶ月前。

 ここでモンスターが現れたのも二ヶ月前。流石に誰でも疑うだろう。

「どうしてこうも都合よく事件が重なるんだ?」

 ヴァイはとうとう口に出して言った。それは囁き程度だったがそれを聞きつけてレイが

近寄ってくる。

「分かっているんだろう? 明らかにお前を中心に事件が起こっている」

「……」

 レイの指摘にヴァイは何も答えられない。レイは前方でモンスターを探そうと散策して

いるルシータとマイスを見ながら囁く。

「あるいは、お前を狙っている誰か。これはもちろん《蒼き狼》だ。今まで『古代幻獣の

遺産』を集める事しかしなかった奴等が今年になって、いろいろ裏工作を展開している。

 やつらの目的の中にお前が巻き込まれているのは間違いないことだ」

「……正確な考え、どうも」

 ヴァイはレイとの討論を展開する余裕はなかった。なぜなら、ルシータ達の悲鳴と猛獣

のような唸り声が辺りに響いたからである。

「出たな!」

 ヴァイとレイはそれぞれ自分の武器を抜き放ち、声のした方向へと走る。

 大浴場はヴァイ達のいた大地から見下ろされるところにあった。そこにある、巨大な影。

「マジかよ!」

 レイは簡単の溜息をついた。ヴァイは無言でそれを見ている。

 眼下に広がる光景は二人の想像を越えるものだった。

 そこには全長がヴァイ達の軽く数十倍はあろうかという巨大な化け物だった。

 その形は蛇に似ている。蛇と違うのは目と呼ばれる器官が無く、胴体と同じくらい巨大

な口の周りにある襞が鈍い光を輝かせていることだ。

 ルシータとマイスは現れた巨大生物に驚いて後退して追い詰められている。

「『黒』鉄!」

 マイスはかざした手を勢いよく振り下ろすと同時に魔術を解き放つ。魔力によって生じ

た真空の刃がモンスターに突き進む。何も無ければそれでモンスターの体はバラバラに切

りきざまれるはずだった。

 しかし何も起こらなかった。

 真空の刃はモンスターの体に命中したが、甲高い音を立てて弾き飛ばされたのだ。

「な!」

 マイスは驚愕を隠せなかった。まさか魔術をかわされるのではなく、弾き飛ばされると

は思ってもみなかったのだ。

「『黄』の裁き!」

 ヴァイの声がマイスの頭上から落ちてきた。ヴァイは飛び降りつつ魔術を発動させて電

気を帯びた球を数十個、モンスターに叩きつけた。

 重力を相殺し、衝撃を緩和してヴァイは地面に降り立つ。それから油断しない瞳でモン

スターを睨みつたる。

「魔術が……効かない?」

 マイスは言葉の内に絶望を潜めた声を出した。


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