その女の意識は薄暗く、深い、自我の海の中にあった。

 もう、永遠に浮かび上がる事のない体は水面下でただ、自分の完全なる崩壊を待つのみだった。

 何も、考える事はない。

 全ての機能は失われた。女は生かされているだけだった。

 どれだけの時間が経ったのか時間の感覚さえも分からない。

 そこに、一筋の光が差したような気がした。

(……やっと、助けに来れたよ)

 声の主をその女は知っていたはずだったが女の心に感動が甦る事はない。

 そもそも、何も感じないのだから。

 そして――女は助け出された。





「一体どうなっている!」

 殺風景だが普通の部屋の二倍はある部屋に、怒気をはらんだ声が反響した。

 魔術都市ゴートウェルを象徴し、統治を行っている機関《クラリス》最高責任者である

ムスタフ=グレイは普段穏やかな笑みが浮かんでいるその顔に怒りを貼りつけていた。

「どうして、デイジー=ローフィールドが消えている!」

 ムスタフの怒りの対象になっているのはゴートウェルにある病院の病院長だった。

 普段見せる事のないムスタフの怒りをうけて完全に縮みあがっている。

「デイジーはもはや廃人同然だった。彼女が一人で動けるはずがない!! 誰かデイジー

を連れ出した奴がいるはずだ……。誰も不信な奴を見ていないのか!」

 病院長はおろおろと目線を動かすだけで何も答える事ができない。

「病院の従業員を責めるのは酷な事ですよ、ムスタフ様」

 新たに第三者の声がムスタフの耳に捕らえられると、ムスタフの怒りがある程度霧散し

ていくのが病院長にも分かった。

 第三者は病院長とムスタフのちょうど中間に立った。

「ラーレス。何か分かったのか?」

「はい。どうやら犯人はかなりの魔術の使い手のようです」

 男――ラーレスはその瞳に確信を込めた光を宿した。それを見てムスタフは考え込むよ

うに腕を組む。

「お前がそこまで言うのなら、相手はお前や……《リヴォルケイン》級の力を持っている

と言う事か」

「ええ。病院全体を幻影系の魔術で覆い、職員の記憶を消していました」

「何ですと!」

 そう声を上げたのはその場に座り込んでいた病院長だった。ラーレスとムスタフは一瞬

そっちを向いた後、また視線を交わす。

「とにかく、デイジーの体をどうする気なのか分かりませんが、何か嫌な予感がします」

「儂もだ。君に動いてもらうぞ」

 二人が会話をしている間、病院長はただその場にうずくまっていただけだった。

 話を聞く限り自分とは関係ない、というか手に負えないものだと知った。

 早くこの場から逃げ出したい。

 そう思っていたところにようやくムスタフから声がかかった。

「もう行きたまえ」

「は……はい」

 病院長はやっとの事で声を出すと部屋から退出した。

 ドアを閉める直前にムスタフの声が聞こえた。

「《リムルド・ヴィーズ》の出番だ」





         ……僕はどうしてここにいるの?

           僕はどうして存在しているの?

           誰か、教えてくれないかな。

           みんな、どこにいるの?どこに行ったの?

           ねぇ、答えてよ。答えてよ。答えてよ。

           ……誰か!





 光さえも照らしきる事のできない深遠なる闇。

 声無き声が木魂する、虚無の空間。

 動くものなど、何もない。

 ただ一つを覗いては……。





         ……また、遊びたいよ。

           また、みんなと、遊び……た……い





 声無き声は少年のような口調で呼びかける。

 自分の声がどこにも届いていない事を分からずに。

 そこに光が差したのは……偶然だったのか?

 声の主は歓喜した。

 やっと出られる!

 外に!

 そして、光は主を照らした。



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