辺りに重苦しい空気が流れている。空には雨雲が広がり遠くでは雷がなっている。どう

やら今晩中には雨がまた降るようだ。

 マイスはそんな事をぼんやりと考えながらこの広い空間の中にある椅子に腰掛けていた。

視界の先には硬く閉ざされた扉。そこでは今、手術が行われているはずだった。

 ヴァイが瀕死のレイを病院に連れて行ったと言った時は驚きを隠せなかった。マイスの

中でレイはいつでも何か飄々としていて自分がかなり切羽詰っているときも余裕を見せて

いた。危険な事も結局乗り切ってしまえば「こんなもんだろ」と苦労を感じさせなかった。

しかし今、目の前にある現実は違う。

 危険を乗り切ってきた男は今、生と死の瀬戸際にいる。マイスはその事にとてつもない

不安を持っていた。不意にレイと最後に交わした会話が甦る。

(僕はレイが危険な時でもなんのことはない、って顔をしてるからむきになっていたんだ

ろう。自分の実力が無いからあんなに焦ってしまって、レイには八つ当たりをしていたんだ)

 最後の会話でレイは冷静に自分達以外に屋敷に残っているメイド達の戦闘能力を分析し

ていたのだ。緻密な計算に基づいた上での余裕。

 それに気づかなかった自分はなんて情けないんだ。

 マイスはそんな思いに捕らえられてその場から体を動かせなかった。

「はい」

 マイスは自分の頬に押し当てられる冷たい感触に驚き、はっと顔を上げた。

「驚いた?」

 ルシータがいつのまにか横に立っていた。肩にはレーテを乗せている。

 別にルシータは気配を消してマイスに近寄ったわけではない。マイスはルシータが来る

気配さえ捉えられないほど憔悴しきっていたのだ。マイスは押し当てられた冷たいもの、

コップに入った飲み物を手に取ると一気に飲み干した。そのために激しく咳き込んでしまう。

「マイス、悔やんでも始まらないよ」

 咳き込みからマイスが回復するのを待ってルシータは話し始めた。

「あたしは別にレイがどうなってもいいってわけじゃないわよ。でも、今ここで沈んでて

も何も変わらないわ。あたし達ができる事をするべきよ」

「……僕達ができる事って?」

 ルシータはマイスの眼を覗き込んで、はっきりと言った。

「黒幕に、自分のした事を後悔させてやるのよ」

「キューイ」

 ルシータの言葉に賛同するかのようにレーテが泣き声をあげる。

「……」

 マイスはしばらく何も言えなかった。しかし、後になると何故か笑いがこみ上げてきた。

 何故かは分からないが、何かが笑いの琴線に触れたのだ。

 マイスは大笑いをしないように堪える事に精一杯になった。

「ちょっと! 何でそんなに笑ってんの!?」

 ルシータが分からないといった表情でマイスを見つめる。マイスはしばらくして笑いの

発作がおさまるとルシータに言った。

「いや、まったくそのとおりだって思ってさ。あんまりあたりまえすぎて笑っちゃったんだ」

「何事もシンプルが一番よ」

「キュー」

 膨れっ面になりつつルシータはそっぽを向いた。

 その動作を真似するようにレーテもそっぽを向く。

 マイスはその光景を見て更にこみ上げる笑いを押さえつつ、内心思った。

(でも、こうやってどうにかできると思わせるのはルシータの魅力なんだろうな)

 ヴァイやレイが言う事とは違う。ルシータの言う事は何の確実性も無い事が多い。しか

しそれでも何かできるんじゃないかと思わせる資質がルシータには備わっているようだった。

 マイスはルシータと旅をしてきてその事はこの娘の最大の魅力なんだと気づいた。

(きっと、先生もこんな所に引かれているんだろうな……)

 そう思っている内にこちらに近づいてくる人影が眼に入った。

「先生、ラーレスさん……」

 二人は今まで何かを話していてこの場にはいなかった。マイスはただ、レイの様子を見

ていてくれと言われただけで彼等の会話の内容は知らない。しかし二人の表情がいつも以

上に険しい事を見て取ると何を二人が行おうとしているか予想がついた。

「……ハーテスって人を倒すんですか?」

 二人が一時いなくなる前にヴァイからマイスは今回の事情を聞いた。

 結局、《クラリス》の最高責任者を狙っているのはデイジー=ローフィールドであるという事。

 その手伝いをして息子であるハーテスが他の執行部員を殺している事。

 それを《蒼き狼》がどうやら手伝っているという事。

《蒼き狼》は《クラリス》上層部に入り込んで何をしようとしているのか、マイスにも

ヴァイにも分からなかった。しかし今できる事は分かっている。

 ハーテス達の凶行を止める事だ。

「マイス」

「はい」

 マイスは反射的に返事をしていたがヴァイの言葉の中にある感じを感覚的に受け止めて

いた。その感覚はすぐに現実のものとなってマイスの耳を打った。

「お前はここに残れ」

「……」

 マイスはすがるような目つきでヴァイを見た後、ヴァイの真意を探ろうとした。しかし

結局何も分からずに寂しげに頷くとその場から逃げるように歩いていった。

「ヴァイ……」

「ルシータ、お前は俺達と一緒に行くぞ」

 抗議の声を上げようとしたルシータにヴァイは言葉の間隙を捕らえて自分の言葉を滑り

込ませた。言葉の後には差し出された手。ルシータにはそれがヴァイの感情を隠す手段だ

と理解した。

(そう、ヴァイは言いたくない事があるといつも強引なんだから。まあ、いいか。マイス

なら大丈夫よね)

 ルシータはマイスへの対応の文句も言えないままヴァイ達につれられて病院を出た。

 出て行く様をマイスは離れた場所の窓からじっと見ていたが、やがて呟いた。

「必ず、ハーテスを倒してくださいね」

 マイスは未練を振り切るようにして頭を左右に振るとレイの病室に向けて歩き出した。





 外は完全な闇に包まれた。

 街灯が道路を照らし、民家の窓には明かりが灯っている。しかしその光もほとんど頼り

がいが無く、それ以上に深い闇がゴートウェルを支配しようとしていた。

「……つまり、そのハーテスって奴がラーレスに手紙を送りつけたんでしょ」

「ああ。堂々と『クラリス本部で待つ』だそうだ。いったいどうする気かは分からないが、

今は敵の懐に飛び込むしかないからな」

 ヴァイとルシータは得た情報の確認。ラーレスは何も言わずにただ進行方向を見つめて

いる。ちなみにルシータの肩に乗っているレーテは微妙にバランスを取りながら寝ていた。

 やがて眼前に《クラリス》の建物が姿を現した。

 暗闇に浮かぶようにそびえ立つ姿は何か異様な物をヴァイ達に感じさせる。それを顕著

に受け止めたのはルシータだった。

「どうして、灯りがついていないのかしら?」

 そう、《クラリス》本部の建物から明かりが漏れ出しているところは無かった。まだ今

の時間なら警備員も普通に巡回しているはずであり、残業のために残っているスタッフも

いるはずだ。それが全く人がいるという気配を感じさせないのはどういう事か?

「完全に罠だな」

 ラーレスは呟いた。ヴァイとルシータも重ねて頷く。

 三人の胸中には同じ思いがあったろう。

 ハーテス=ローフィールドは罠を張って、くる奴を待ち構えている。それも、かなり自

信があるようだ。

 呼び出した時点で罠が張ってある事は誰にでも考え付く事である。しかし灯りがついて

いない事でそれは確信に代わり、更に警戒を深めてしまう。それに気づかないほどハーテ

スは馬鹿ではない事をラーレスは知っていた。

 分かっていてわざわざ罠の存在を示す理由は唯一つ。

 絶対に回避不可能な罠が待っているという事だ。

「それでも、行くしかないだろう」

 ヴァイはラーレスの呟きに答えると《クラリス》の入り口に向けて歩き出した。あまり

にも無防備な前進にラーレスとルシータは驚きながら後に続いた。

 正門を通り抜け、中庭を疾走する。

 何も浮かばない暗闇の中を進む三人はそれこそ風のように速かった。

 ルシータの肩に留まっているレーテは急激な速度変化に驚き、起きてしまったようだ。

 すぐに三人はいつもは警備員達が詰めている部屋が隣接されている入り口へとたどり着

いた。気配を押し殺し、中の様子を探る。しかし人がいる気配をまったく読み取れない。

「やっぱり、誰もいないのかしら?」

 ルシータの疑問はすぐに氷解する事になった。

 ヴァイがいきなりルシータを抱え込み、中に飛び込む。ほぼ同時にラーレスも転がるよ

うに《クラリス》内部に飛び込んでいた。ルシータが何か分からずに思わず声を上げそう

になった時、先ほどまでヴァイ達がいた場所に無数のナイフが落ちてきた。

「『白』の残思!」

 ヴァイが魔術の光を中空に解き放つ。光に当てられたのは地面に突き立った無数のナイ

フとすぐ傍に立つ黒ずくめの人影だった。

「殺れ!!」

 先頭にいた暗殺者スタイルの人物が言った。その刹那ナイフを片手にヴァイ達に襲い掛

かってくる暗殺者達。

 崩れた体勢を立て直そうと警備員の詰め所に飛び込み素早く起き上がる。そこに広がる

光景にルシータは驚いた。

「この人達!」

 部屋には人が何人か倒れている。どうやら今、自分達に向かってくる暗殺者達が警備兵

を倒したのだろう。おそらく、命はもう……。

「許せないんだから!」

 ルシータは木刀を引き抜き、空間を滑るように刀身を突き出した。暗殺者の一人は木刀

に鳩尾を強打されてうめき声を挙げて床へと崩れ落ちる。

「ヴァイ……!?」

 ルシータはその場にいるはずのヴァイとラーレスの姿を探した。しかし今、この詰め所

にいるのはルシータと幾人かの暗殺者達だけとなっていたのだ。ルシータは自分の置かれ

た状況が意外と危機である事に少々狼狽したが、すぐに意識を暗殺者達に戻した。

「こうなったら、やれるだけやるわよ!!」

 こうして《クラリス》での決戦が開始された。





「どうした? 金髪のお嬢さんが心配なのかよ?」

 ヴァイは自分の目の前の男が言ってくる事に目の端をピクリと動かした。

「俺の魔術も大したものだろ。お前だけを空間転移させて個々に撃破しようってんだから

頭のほうもさ」

 ハーテス=ローフィールドは下卑た笑みを浮かべた。漆黒の闘衣を身に纏い、裾や袖か

らは白い物が微かにはみだしている。漆黒の闘衣はどうやら《クラリス》正統の戦闘服の

ようだ。今までハーテスが見につけていた改造貴族服はハーテスの趣味であったと言える。

「ヴァイ、君には全力で、ふざけずに戦わないと危ないと分かったんでね。しゃくには触る

が俺が真剣に殺してやる」

 ハーテスは腰の剣を抜き放ち、鞘を床に投げ捨てた。乾いた音が反響して辺りに響く。

 二人がいる部屋は《クラリス》の地下にある戦闘訓練場である。

 殺風景な部屋であり、装飾品は何も無い。灯りも申し訳程度についているだけだ。

 二人の間を隔てるものは空間しか存在しないのだ。二人の間は既に一太刀が届く間合い、

ヴァイの剣は短めのために少々届かないが、とにかくすぐにでも戦闘が開始される間合いだった。

「言っただろう」

 ヴァイは静かに腰の剣を抜き放った。下げた右腕にしっかりと剣を握り、鋭い視線をハ

ーテスに向けた。

 ハーテスは光量の少ない中ではっきりと見ることができた。

 ヴァイの瞳に宿る、鈍く鋭い光が。

「お前達は俺達が必ず止めると」

 ヴァイはハーテスに突進した。





「どうしてこんなことをしたのですか?」

 ラーレスは眼前に座っている人物に無駄だと思いつつ問いかけた。

 ラーレスはそもそも詰め所に飛び込んではいない。暗殺者襲撃のどさくさにまぎれて自

分の足でこの部屋に入ったのだ。そして部屋にいた人物と邂逅している。

 ラーレスの視線の先にいる人物は、自分の執務机に肘を乗せながら体を震わせていた。

 笑っている。

 ラーレスはその声無き笑いにとてつもない悪意を感じて体を振るわせた。思わずさけび

出しそうになるのをどうにか堪える。腹腔に溜まった空気をゆっくりと吐き出してラーレ

スは再度言った。

「どうしてこんなことをしたのですか、デイジー=ローフィールド?」

 自分と同じ地位にある仲間――執行部員、デイジー=ローフィールドはくすんだ金髪を

短く刈り込み、頬には歳相応の皺が寄っている中年の婦人だった。

 魔術師の基本装束である黒を基準にした服ではなく、赤い婦人服を身に纏っている。そ

の眼光は危険なものを漂わせていてじっとラーレスを見据えていた。

 やがてデイジーは執務机から離れると高笑いを発した。

「ラーレス。あなたは何も分かってはいないのです!世の中に必要なのは権力であり、全て

を統合できる力! この場所はその全てを手に入れる事ができる! この西側を統治する

権力! そして《リムルド・ヴィーズ》。これを手に入れるためなら私はどんな手段をも

とってみせる!」

 デイジーは言葉を切った後に素早くナイフを投げつけてきた。ラーレスはその場から飛

びのいて躱すが、そこにデイジーが飛び込む。

 手刀がラーレスの両目を狙って繰り出される。ラーレスは紙一重でそれを躱すと逆にデ

イジーの鳩尾に拳を突き出した。

 しかしデイジーも、手刀がかわされるやいなや移動の軌道をずらして鳩尾に叩きつけら

れる拳を回避した。再び両者の間があく。

 デイジーはスタンスを比較的広めに取り、構えた。

 ラーレスはそれを見て言った。

「デイジー、どうしてもやるというなら容赦はしない」

 その瞬間、空気が、変わった。

 デイジーは背筋から冷や汗が出る事を認めざるを得なかった。今、目の前にいる相手は

自分にとって最大の障害なのだということを理解する。

「《クラリス》一と言われた実力を見せてやる」

 ラーレスは魔術を使うために意識を集中し始めた。





 ヴァイ達が《クラリス》で戦闘を開始する頃、レイの手術が終わりマイスの目の前に姿

を現した。

「レイの容態は?」

 主治医が苦い顔をする。マイスはそれを見て肌寒さを覚えた。嫌な予感が当たる気がした。

「彼次第ですね。やれる事はやりました。彼の回復力を信じましょう」

 その後、マイスは主治医と共にレイの病室まで来た。主治医はマイスにレイが苦しみ出

したらすぐ呼ぶようにとだけ告げて去っていった。

 マイスはレイの手を力強く握り締める。

「このまま死なないで下さいよ。反発したお詫びを言わなくちゃならないんですからね」

 マイスは一心不乱に祈っていた。そんな折、病院の外では意外な事が起こっていたのだ。





 一見何も無いような中庭。そこには幾人もの人が倒れている。

 どれも心臓を一撃の下に貫かれていた。やがて死体は液体となって解ける。

 解けた時点で発生した煙は強くなってきた風に運ばれて流れていった。

 そんな風景の中に一人佇む人影一つ。

 月明かりがその人影を照らすと、その姿がはっきりと浮かび上がった。

 体をしっかりと包む漆黒の闘衣。

 髪の毛は後ろに流れており、月の光を浴びて微妙な輝きを放っている。瞳に映る力強さ

は『だれか』と似ているようだった。

 無表情で佇む女性。

 女性は完全に消滅した暗殺者達を見届けてから呟いた。

「これ以上ここにいる必要はないわね」

 美しい声だったが今は必要以上に感情を抑制しているのか無機的に聞こえる。

 女性は遠くを見やった。その先には《クラリス》本部がある。

 瞳がより剣呑な光を帯びると同時に言った。

「《クラリス》を好きにはさせないわ」

 黒衣の女性は疾走を開始する。

 その姿は常人の目にも止まらぬ速さで《クラリス》への道を進んでいった。


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