レイへと凄まじい殺気が押し寄せる。雨が上がったばかりのために屋上にもまだ雨の名

残――水溜りが点在していたが、それらがまるで風に押されたように波ができた。ハーテ

スは腰に刺した片刃の剣を引き抜くと同時に左手をレイへとかざした。

「『白』狼牙!!」

 ハーテスの左掌から輝く光の本流が迸る。レイは光熱波を横っ飛びで躱すと屋上の床を

力強く踏みしめて瞬時にハーテスを自分の間合いに収める。

「もらった!!」

 レイは手にした剣を絶妙なタイミングで振り切った。魔術を放った後でハーテスの動き

は止まっているためにこの一撃を避けるのは不可能なはずだ。分かれた刀身は次の瞬間に

ハーテスの胴を凪いでいたはずだった。しかし、次にレイが見せた表情は会心の笑みでは

なく驚愕に満ちた物だった。

「なんだと……!?」

 レイの剣がハーテスを捉えようとしたまさにその時、ハーテスの姿をレイは見失ったの

だ。剣は空振りし、レイは驚きから体勢を崩す。そこに死角から圧倒的な圧力が来る。

(やばい!!)

 レイはほとんど条件反射といったレベルで体を前方に投げ出した。レイが飛び込んだす

ぐ上を何かが風を切って通り過ぎる。レイは前方に投げ出した体を前転した後に反転させ

てハーテスの姿を捉えようとした。

 目の前にハーテスはいた。手には片刃の剣。どうやら頭上を抜けたのはその剣のようだ。

 しかし、レイの視線はハーテスの手に持っている剣ではなく体に釘付けになっていた。

 ハーテスが着ている服の下――貴族が着るような紳士服を改造したような服の下に着て

いる白い、全身を覆うように着ているタイツが淡い光を放っているのだ。すぐにその光は

消えたがレイにはピンとくる物があった。

「なるほどな、『古代幻獣の遺産』って訳だ」

 レイの言葉に初めてハーテスの表情が崩れた。その表情は信じられないものを見たよう

なものに変わっている。

「きさま、何者だ! どうしてそのことを知っている!?」

 ハーテスは右手に持つ剣をレイへと突き出し怒気をはらんだ口調で言った。レイはいつ

もの物憂げな口調で答える。

「別に、俺はそんじょそこいらの傭兵とは格が違うんでね」

 レイは気の無い返事をしながらそのくせ、次の攻撃にすぐさま移れるように筋肉を撓め

た。しかしそれをハーテスは見破っていたようである。

「ふん、只者じゃない事はもう割れているんだ! とにかく貴様等邪魔なんだよ!」

 ハーテスの言葉が終わらないうちにレイは第二撃を打ち込んでいた。そして今度ははっ

きりと見た。ハーテスの体がレイの視界から掻き消えるのを、そしてその次には既に真横

に殺気が生まれている事を理解した。

「そっちだ!」

 レイは突き出した剣を横薙ぎに変換し、踏み込みの足をずらして遠心力を加えた一撃を

放つ。しかしそれさえも空を切りレイの後ろにハーテスが出現した。

「死ねぇ!!」

 ハーテスの凶刃がレイへと振り下ろされる。しかしその刃がレイへ届く事は無かった。

「ぐはっ!?」

 次の瞬間にはハーテスは吹っ飛んでいた。その後を追ってレイの刃が迫るがまたしても

ハーテスは姿を消して刃をやり過ごした。レイが立っている位置で身構えると少し離れた

場所にハーテスの姿が現れる。

「き、きさまぁ」

 ハーテスの顔の中央は青黒く染まっていた。鼻の骨が陥没しているのだろう。レイはハ

ーテスが姿を現した瞬間に交差法で足を突き出したのだ。それがハーテスの顔面にヒット

したのである。

「ほう、少しは見れる顔になったじゃねえか。もっと見れるよう協力してやろうか?」

 レイはハーテスの理性を失わせるためにあえて挑発しようとした。ハーテスの着ている

全身を覆う服はおそらく肉体強化系の『古代幻獣の遺産』であろうとレイは見ていた。ま

ともにいっては勝ち目は無い。

 もちろん臆病風に吹かれたわけではない。

 自分なりに冷静に判断した結果、ハーテスにはレイは勝つのは難しいと判断したのだ。

 よくて相討ちだろう。無論、レイにはハーテスと刺し違える気はない。

 しかしハーテスはその挑発を見破ったのか、乱れた息を整えると血が滴り落ちてくる折

れた鼻頭に手を当てた。

「『紫』風」

 ハーテスの手から光が洩れ、一瞬後には鼻頭は元通りになっている。自分の鼻が治った

事を確認してからハーテスはレイに向かって言った。

「流石だな。ラーレスが雇うわけだよ。あの野郎も結局自分が最高責任者になりたいんだ」

 ラーレス、という単語にレイは反応して体の緊張を高めた。いつでも最大威力で攻撃を

喰らわせられるように力を貯める。そのままレイは問いかけた。

「ラーレスを知っているのか? お前も他の執行部員に雇われたのか?」

 ハーテスは一瞬何を言われたのか分からないと言った表情でレイを見つめていたが、やが

て理解したのか高笑いを上げた。

「はっははははは! そうか! 貴様は知らないんだったな! なら教えてやるよ!!」

 そしてハーテスの猛攻が始まった。





 ルシータはレイが出て行ってから胸の内に何か蟠りができていた。理由は分かっている。

 今まで自分達の前で見せた事の無かった表情をレイが見せたという事が何か違和感があ

るのだ。自分の知っているレイではないような感覚がルシータを苛んでいた。

 それだけではない。今まで見せた事の無い表情は本当に鬼気迫るような物だったのだ。

今、レイが遭遇しているであろう事態は彼のルシータ達には隠されていた一面を見せざる

をえないほど危険なものなのだ。

「ただいま」

 ルシータの耳にラーレスとヴァイの声が届いた。ルシータはソファに腰掛けていたマイ

スが立ち上がるより先に居間のドアを開けてヴァイ達に事情を説明した。

「レイが……」

 ヴァイは何故か直感的に、レイが追って行った人物は最初の日に自分を襲った暗殺者達

に止めを刺した奴だと思った。都合のいいこじつけだったかもしれない。しかし今はその

ような事は気にして入られなかった。

「ラーレス、ルシータとマイスを頼む」

「ああ」

 ヴァイはラーレスの返事を聞くとすぐに門から出て行った。しかしどこに行ったのかは

全く分からない。

(どうすれば、どこかに手がかりでも……)

 ヴァイが早くも途方に暮れそうになった時、道路に人の靴の足跡を見つけた。

 真新しい足跡。ヴァイはこの靴跡はレイのではないかと考えた。その確証は全く無い。

 しかし、この靴跡以外手がかりが無いのも事実だ。

「こうなったら、賭けるしかないか」

 ヴァイはそう言いつつ額には汗が浮かんでいた。ルシータが感じている不安をヴァイも

感じていたのだ。一対何がここまで不安にさせるのかは分からない。そんな不安を振り払

うようにヴァイは声に出して言った。

「あいつなら大丈夫だ……」

 走り出しながら口からこぼれた言葉はあまりにも弱々しかった。





 もう何度目かになる斬撃をレイは紙一重で躱した。レイの体はすでに自分が流した汗で

濡れている。しかし切れる事の無い集中力でハーテスからの攻撃を全て躱していた。

「この『古代幻獣の遺産』は奴等に貰ったんだ! あの《蒼き狼》どもが何をたくらんで

いるかは知らないが、お母様が最高責任者に手伝いをしてやるって言ってきたんだ!!」

 ハーテスは落ち着いたように見えたが、どうやら器がもともと小さいのか自分が有利に

なるとすぐに理性を無くしてしまうようだった。そのことから今、ハーテスは自分が何を

言っているか分かってはいないという結論にレイは達した。この男は腕は立つが、唯それ

だけのようだと悟ると、できるだけ情報を得ようと今まで躱し続けてきたのである。

 これまでの経過で分かった事はこの男、ハーテス=ローフィールドとその母親であるデ

イジー=ローフィールドは《蒼き狼》の力を借りて《クラリス》を掌握しようとしている。

それには最大の邪魔者であるラーレスを殺す必要がある、ということだった。

「大体分かった……」

 レイはいよいよ反撃の時が来たと悟った。剣を持つ手に力が入り、激しい斬撃の中に突

破口を見出そうとする。そして、レイは一瞬の隙を見つけた。

「これで終わりだ!!」

 ハーテスの斬撃を躱して懐に飛び込んだレイが言葉と共に剣を一閃させる。突き出され

た剣はそのままハーテスの胸部に……。

「がっ!?」

 レイは軽い衝撃と共に何かが自分に刺さる感触を覚えた。突き出した剣の先には誰もい

ない。狙ったはずのハーテスの姿がレイの視界には捉えられていなかった。

 前を向いていた視線を自分の胸に戻す。ちょうど右胸の部分から煌く銀色の刃が生えて

いた。一滴の血もつかず、唯それだけを見れば何かのマジックかもしれない。しかし実際

そこにあるのはレイの体を後ろから貫いて突き抜けている刃だけだった。

「……がはっ!」

 レイの口から鮮血が吐き出される。内臓をやられたことで急速に体から血液が流れ出し、

それと共に力さえも抜けていく。体は力を失いつつあるために崩れ落ちようとする。

 それは何故か立ったままの状態で止まっていた。

「どうして、俺が次々と秘密をばらしていったと思う?」

 レイの体に密着するように背中にいるのはハーテスだった。両手にはレイに突き刺さっ

ている刀身への基盤となる柄が握られており、その表情には凄絶な笑みを浮かべていた。

「全ては計算づくだったんだ。きさまは俺を完全におかしい奴だと思ったはずだ。次々と

秘密をばらしていく俺をな! そうして油断させた後にこうやって隙を突いて一突きにす

るんだ」

 ハーテスは僅かに刀身を動かした。

「があぁ!!!」

 レイは動かされるたびに走る激痛によって戦闘能力を完全に失っていた。血がかなりの

勢いで流れ、手にしていた剣は屋上の床に落ち、体に力も入らない。今や、レイの生と死

はハーテスが握っていたのだ。

「さて、冥土の土産には十分だったろう」

 ハーテスが突き刺していた剣を抜く。それによって更に滝のようにレイの体から血液が

抜けていく。レイは自分の傷口から出た血液の海に倒れこみ体を痙攣させる。ハーテスは

逆手に剣を持つとレイの背中目掛けて突きおろした。

「死ねぇ!!」

 しかし、刀身は次の瞬間真っ二つに折れ、ハーテスはその場から飛びのいていた。

 ハーテスのいた位置を炎の球が急襲する。炎はしばらく燃え上がった後に消失した。

「来たか」

 ハーテスがそう言葉を発するのを聞いてレイの意識は完全に途切れた。





 血の池に沈んでいるレイと、少し離れた位置に顔を険しくして立っているハーテスを見

ているのはヴァイだった。ヴァイは魔術を放った事で前に突き出していた手を下ろすと次

の瞬間、その姿をレイの傍に現していた。

(早い……)

 ハーテスは顔には出さなかったが背筋が凍るほどの悪寒を覚えていた。魔術による空間

転移を使ったわけではないのにヴァイの動きを見る事ができなかったのだ。そのヴァイは

レイに回復魔術をかけている。今のうちに襲えば殺せるかも知れない。そうは思っていて

もハーテスは手出しできなかった。ヴァイの体から放たれる気配がハーテスの足をその場

に縫い付けてしまったかのようにハーテスは立ちすくむだけだった。

「さ、さすがだなぁ! ヴァイ=ラースティン!!」

 ハーテスは自分の自身を鼓舞するように大声を上げた。ヴァイはハーテスの言葉には反

応せずにただただ回復魔術をかけ続けている。ハーテスはヴァイの反応など見ずに言葉を

連ねていく。

「やはり『マジック・マスター』を言われるだけの技量はあるようだな! その男の回復

速度が並みのものじゃない事が分かる! しかし俺も魔術なら負けないぞ!! 俺と勝負しろ!!」

「うるさい」

 ハーテスの言葉に始めてヴァイが反応した。その冷淡な言葉に含まれているのは怒りしかない。

 ヴァイは魔術をかけるのを止めるとレイを自分の背中に背負った。

 ヴァイの一言に射竦められたハーテスは、それまでの間反応する事すら出来なかったが

ようやく言葉を口から絞りだす。

「に、逃げる気かよ……。お、俺と……」

「お前の相手なんていつでもしてやる。ただ、これだけは覚えておけ」

 ハーテスの言葉を遮ってヴァイは鋭く、ハーテスの心に素早く入り込む一撃を加えた。

「お前達は必ず止める……俺達がな」

 静かに、冷ややかに、そして完全なる憎悪の塊を込めた言葉がハーテスを打った。ハー

テスは今まで感じた事の無い恐怖にかられている自分を押さえつけるのに精一杯でヴァイ

が空間転移の魔術でその場から消え去る事を止める事ができなかった。


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