「そんなに危なそうには見えないけどなぁ……」 ルシータは開口一番そんな事を言った。隣ではマイスが反応もせず目線を前に向けてい る。二人がいるのはスーラニティ近郊にある森の入り口だった。ルシータはマイスを連れ てミスカルデに挨拶した後、すぐさまここに来ていた。時刻はちょうど正午になるところか。 「先に昼食をすませればよかったね」 マイスが自分の腹を押さえながら気の抜けそうな声で言う。ルシータはその言葉に反応 して自分の腹が鳴り出すのを懸命にこらえつつ空腹感を忘れようと声を張り上げた。 「別にこの仕事を早く済ませばいいでしょ!! 男なら文句言わない!!」 ルシータはそれだけ言って一人で森の中に進みだした。慌ててマイスもその後を追う。 森の中は思ったよりも日の光を通していて、木々の狭間から地面へと降りてくる光の通り 道を視認する事ができる。道は少し歩きにくいが人の手が入っているせいで幾分ましであ る。しかしルシータ達がミスカルデから聞いた話によると、フェナが住んでいる小屋に行く にはこの道をいずれ外れなければならない。ルシータは横を見る。道のようなところは少 しもなく、ただ木々が続いている。同じような木々の中で方向感覚を見失わないという自 信はルシータにはなかった。 「でも、その娘も凄いね。この森の中で完全自給自足なんて」 マイスが代わり映えのしない景色に退屈して適当な話題をルシータに振る。しかしルシ ータの反応はマイスの思っていたような軽い反応ではなかった。 「……フェナは誰にも頼れないのよ。髪の毛が緑色で、少し特殊な能力があるってだけで。 それが皆に迷惑をかけたわけでもないのに……」 ルシータの顔は真剣そのものだった。自分に張られているレッテルのせいで苦しんでき たのはルシータも同じだった。表面だけしか見られず、その中にある本当の自分の姿を見 てくれたのは自分を生んでくれた母と姉達だけだった。ルシータはふと自分が姉達と似て も似つかないような性格になったのは、そのレッテルを破りたかったからだと思い至った。 そして自分にはヴァイがいてくれたがフェナには今、誰もいない……。 「フェナは絶対ミスカルデさんの所に連れて行くんだから……」 マイスはルシータの表情を見て黙り込んだまま後ろをついていった。その内、ミスカル デに指定された地点につく。ここから道をそれればフェナの住む小屋まではあまり時間は かからないはずだ。 「行こう」 ルシータがまず横の森の中に入っていく。次に続こうとしたマイスがその動きを止める。 「……?」 マイスはふと不思議な感覚が自分の体を支配するのを感じて辺りを見渡した。そこには ただ木々達が広がっているばかりで特別不審なものは存在しない。 「マイスー! 行くわよ!!」 「う、うん!」 そのままマイスはルシータの元に駆け寄っていった。そのために二人の姿が見えなくな った後、二人がいた場所の近くの木の上から何かが音を立てて降りてきた事には気づかなかった。 何かが私のところにやってくる。そんな感覚が私の体を支配する。 人間なんて誰も同じ。私の力を利用する事しか考えていない……。そう、思っていた。 でも、今までとは何か違う。何かが違う。欲望に心を汚した汚らしい感覚のようなもの は感じない。それどころかとても綺麗な感覚……。 フェナ=ノーストラインは閉じていた眼をゆっくりと開いた。彼女は『盟約』によりこ の森の守護者となった見返りとして様々な能力を授かった。この森にいるときだけ使える 能力だがどれも人間が使える魔術とは明らかに違うものだ。 まず、この森に入ってきた人間を離れていても知覚できる。一定範囲内に近づくとその 姿までが頭の中に映像化して出てくる。他にも彼女が思うだけで森の地形を変える事がで きたり、『森の守護者』達に命令をする事もできた。 フェナはこの近づいてくる二つの反応に興味を持った。感じたところ、二つの反応には 自分を何かに利用する、という気持ちは少しも含んでいない。ただ会うだけで何をしよう というのか? またはただの迷い人か……? フェナは自分に会おうとしていると直感的に察すると少し悩んだ。個人的には会ってみ たいが『盟約』を結んだ身には人と会うことは許されない。そうして少し時間がすぎたと き、フェナの足に何かがぶつかってきた。フェナには見なくてもわかる。フェナはそれを 両手で拾い上げて自分の膝の上に乗せた。 「キューイ」 フェナの膝の上に乗っていたのは動物だった。ただそれは何の種類なのか全くわからな い。人類の知っている種類のどれにも属していないそれは、全身緑色で額には真紅の宝石 が納まっている。一番近いのは犬だが上記の点で犬とは違う。指先は爪は無く、しかし窪 みがあることから出し入れ可能なのだろう。頭は歪んだ扇形に広がっていて体の大きさと は少々アンバランスな感じを受けた。その生物は一声鳴くとその瞳をフェナの眼に向けて くる。その刹那、フェナの頭には情報の波が押し寄せた。 「ああああああああぁう!!!!???」 フェナは押し寄せてくる情報の容量に耐え切れず、その生物を膝から落として自分も倒れ てしまった。息を何とか落ち着かせようと何度も深呼吸をする。その内鼓動が収まるとフ ェナはゆっくりと立ち上がって意識下で『森の守護者』達に命令を下した。 (侵入者は丁重にお引取り願おう) 立ち上がったフェナは先ほどまでとは感じが変わってしまっていた。 「!? なんだろう、この感じは……?」 マイスはふと胸騒ぎを感じて歩みを止めた。ルシータはマイスの胸中などお構いなしに 非難してくる。 「ちょっと! こんなところでちんたらやってたら日が暮れちゃうじゃない!!」 「静かにして……」 マイスはルシータの言葉を静かに、威圧感を含んだ口調で遮る。ルシータはマイスの雰 囲気が変わったのを感じた。 「何か……、いるの?」 ルシータはマイスの豹変振りが危険が近づいているときに起こる事をわかっていた。マ イスは曲がりなりにも元、治安警察隊の一員だったのだ。やるときはやる。ルシータは木 刀を抜き、マイスはいつでも魔術を解き放てるように身構える。そうして数分たった時、 木の上から音をたてて何かが落下してきた。 「!? 『赤』光!!」 マイスは反射的に真上に魔術の炎を放つ。炎の線は落ちてきた何かにぶつかると爆発を 起こし、次の瞬間には炎で燃えさかる何かが地面に叩きつけられていた。 「……何よ、これ」 ルシータが漂ってきた肉が焼ける匂いに耐え切れず口元を手で覆う。地面に転がってい たのは何かの獣のようだった。全身が炎に包まれていてよく分からないが、どうやら体は 毛で覆われており猿のような生物のようだ。その生物はしばらく地面で狂ったように暴れ まわってからその活動を停止した。その時点で炎は消えていてプスプスと生物の体から煙 が上がっていた。 「どうやら、これがミスカルデって人が言った凶暴な獣って奴だね」 マイスは恐る恐る獣の体に触れ、構造を調べる。ルシータはその作業には眼を向けない で空を見上げた。そしてそこに広がっていた光景を見て絶句する。 「……マ、マイス……」 ルシータの只ならぬ様子にマイスは作業の手を止めてルシータの方を見やった。その時、 視界に飛び込んできたものにマイスも驚きを隠せなかった。 「嘘……だろ!?」 ルシータとマイスの眼に飛び込んできたのは木々の上にいつのまにか姿を表した数十匹 に上る獣の姿だった。獣たちは叫び声は上げなかったがその代わりに無言の声を上げるよ うに口を動かしていた。無音の絶叫。それは他の獣達にも伝わり、危険な気配を二人は肌 にひしひしと感じる事ができた。 「とりあえず、ここから逃げるしか、ないか……」 マイスが腰を浮かして逃げる体勢を作る。しかしルシータはそんなマイスに大声を張り上げた。 「ここで逃げたら道に迷ってあたし達は遭難しちゃうわ!! うまく逃げれたとしてもフェナ を連れてこなきゃ依頼料は出ないわよ!!」 ルシータは木刀を抜き放つとその場にしっかりと両足をつける。その動きに呼応して獣 たちも体を動かす。おそらく戦闘態勢をとっているのだろう。マイスは思わずルシータか ら木刀を取り上げようとするがルシータはそれを避け、木の上の獣に向かって木刀を突きつけた。 「さあ、相手になるわよ! 早く片付けないと日が暮れちゃうわ!!!」 「ルシータ!!」 マイスの絶望的な絶叫が響き渡る中、獣たちが一斉に木の上から飛び降りてきた。ルシ ータは身近に降りてきた獣の胴体を渾身の力で打ち付けて一匹を昏倒させる。そしてすぐ さま遠心力を伴った一撃を後ろから接近してきた獣にお見舞いする。こめかみを痛打され た獣は向かってきていた獣を巻き込んで地面に吹っ飛ばされる。 「くそ! もうやけだ!!」 マイスはそう叫ぶと自分にも向かってくる獣に体ごとぶつかった。鳩尾に両掌を押し当 てて魔術を解き放つ。 「『緑』風!」 マイスの両手から起こった風は手を押し当てていた獣を吹き飛ばし、同時に何体かを巻 き添えに空中へと体を投げ出させた。そこに間髪いれずにマイスは魔術を放った。 「『白』光!!」 マイスの手から放たれた光熱波は獣数体を巻き込んで蒸発させる。それを確認しないま まマイスはその場から離れる。すぐにそこに他の獣たちが飛び掛っていった。そこをさら に魔術で何体かを一度に消し去る。しかしまだまだ数が多い。 (僕達の体力が尽きるのが先か、お前達が全部行動不能になるのが先か……) ルシータはマイスのように二体以上を一度に動けなくした後に木刀で一体づつ減らして いる。しかしそれでは獣たちの数が尽きるまでに体力が尽きるだろう。 分かっていても今はルシータを助ける余裕はない。 「……くそぉ!! 『白』光!」 マイスは内心のもどかしさを吹き飛ばすようにまた獣を吹き飛ばした。 「……何か聞こえた……か?」 ヴァイは耳にかすかに飛び込んできた爆音のようなものに顔を空へと向けた。ヴァイの 後ろには十人ほどの人、遺跡調査団の人々とスーラニティの『何でも屋』がいる。ヴァイ 達がいるのはスーラニティ近郊にある森──ルシータ達が入った森とは同じである。 ヴァイ達はルシータ達が入った入り口とはかなりの距離離れている所からこの森に入った。 なにしろこの森はこの西側の大陸で最大級の森である。数キロ四方に広がった森には古 代幻獣の遺跡がいくつか点在しているとまで言われているのだ。ルシータ達がいる位置か らはヴァイ達のいるところまで少なくとも数キロあるはずである。 「どこかで腐った木でも倒れたんじゃないかぁ?」 そうヴァイに言ってきたのはスーラニティの『何でも屋』であるレティワズ=ワーズで ある。ぼさぼさの頭でもう何日も風呂に入っていないような臭気が漂ってくる。しかし服 はしっかりと洗濯されていてそれが真っ白いTシャツと黒いジーンズという体臭からは考 えられないものだった。 「……なら、いいんだけどな」 ヴァイはとりあえずその事は頭の隅に置いて先に進んだ。 隊列はまずヴァイが先頭でその後ろに調査団の人々、最後尾がレティワズである。 調査団の先頭にいるのはヴァイに声をかけてきた男。名をボスキンスと言った。ファミ リーネームは名乗らなかったが別に関係はない。それよりヴァイはこの森に入って一時間 ほど経つが一向に現れない凶暴な獣のほうが心配の種だった。 ヴァイがボスキンスに聞かされた内容は次の事だった。 王都がつい最近スーラニティで見つけた遺跡の調査を始めた。しかし送るたびに音信不 通の状態になり、誰も戻ってきてはいないのだ。そのために《リヴォルケイン》の警備を 強化してまた遺跡探索をしようとしたときに突然の《リヴォルケイン》活動停止があり、 現地警察に護衛を頼もうとしたが起こっている殺人事件に手一杯だというので途方にくれ ていたという。 (結局、《リヴォルケイン》の活動停止の理由も聞けないし……レイが知っていたとした ら俺に言うだろうしな……) ヴァイは関わり合いになりたくないと口で入っても殺人事件への関心は強かった。何か 自分の第六感が働いて殺人事件に関われと警告している。しかしそんな思いも、森の奥に 入っていくにしたがって草を踏む事で染み出てくる草汁の匂いや、草を掻き分ける音、虫 の音といった現実に外界から入ってくる情報の前には霧散していった。 (とりあえず、感覚を研ぎ澄ませ……。周りと感覚を同調させろ……) ヴァイは感覚を鋭くする事で周りの空間と一つになるような錯覚に陥る事があった。そ してそれは武器になる。そのような感じになった時、ヴァイはいつもよりも早く外敵の気 配を感じる事ができるのだ。そうして歩きつづける事また数刻、それは現れた。 「……何だ? あれは……」 最初に気づいたのは以外にも一人の調査団員だった。彼の言葉に皆が立ち止まり彼の指 差すほうを見ている。その先には―一本の木の上には猿がいた。どこにでもいるような猿。 「おい、ただの猿じゃないか」 「びっくりさせんなよ……」 違う調査団員が安堵のため息をつくと同時に指差していた男を軽く叩く。異変はその時 起こった。 「おい、どうし……」 叩いた男が次の瞬間絶叫を上げる。叩かれた男の表情は無かった。文字通り、無かった のだ。足がある。胴がある。腕がある。頭がある……。ただ表情だけが消えている。 まるで職人が大根の皮を反対側が見えるほど透明に近く切るように顔の表面だけが切れて いた。それと共に眼球や鼻、口も一緒に切り取られてしまっていた。 そして、恐怖の叫びが辺りを支配する。ヴァイもまた呆気に取られていたうちの一人だ ったが誰よりも平静を取り戻すと猿のような獣のいる木に視線を向けて魔術を瞬時にとき放つ。 「『灰色』の使者!」 ヴァイが両手を振りかぶって叫ぶと木の上にいた猿(のような獣)が急に強い力で押さ えつけられたかのように乗っていた木の枝をへし折りながら地面に落下してきた。そして 地面に重力に任せたまま激突する。それを見ただけでヴァイはその獣が絶命しているのを 悟った。地面に落ちた獣は首を不自然な方向に曲げていた。 「何なんだい、ありゃあ?」 レティワズがまだ気味が悪いのか青ざめた顔でヴァイへと問い掛けてくる。一人仲間を 失った調査団の面々もいつのまにか騒ぎを終えてヴァイに期待の視線を投げかけている。 このような人間の理解を超えた生物はむしろ調査団の範疇なのだが今の彼らは正常な思考 ができるほど回復してはいない。ヴァイは問題を先送りしない事にして、調査団の混乱は 分かっていたが気づいた事を言った。 「あの生物が何かはわからないが……今の問題はこの場から早く離れるんだ」 「どうしてだ?」 レティワズが不思議そうに言う。即座に獣を倒したヴァイの腕を見たレティワズや調査 団の面々はヴァイが余裕を失いかけている事におかしさを感じていた。ヴァイは遂に声を 張り上げた。 「囲まれているんだよ! さっきの獣に!!」 ヴァイの叫びに反応したかのごとく、木の葉を掻き分けるようにして上から先の獣と同 じ、猿の姿をした獣が大量に姿を表した。その数は数十匹にも及ぶ。 (さっき、調査員を殺した方法も分からないし……形勢は完全に不利だ!) ヴァイはそう判断すると今取りうる最善の策を実行に移した。 すなわち、やられる前にやる。状況が不利ならば、相手の先の先を躊躇無く取る。それ がヴァイが一番最初に父に教えられた事だった。 「『灰色』の使者!!」 今度は魔術を個体に特定せずに広範囲にわたって発動させた。先ほど獣を木の上から落 とした力――すなわち、指定した空間の重力を通常の何倍にも増加させて押しつぶす力 ――今度は広範囲に発動された結果、一度に数体の獣が体を押しつぶされる。口から血を 吐き出してそのまま動かなくなる。 「キキィ!!」 仲間を殺されたと認識したらしい、残っている獣達は叫び声を上げながらヴァイ達に飛 び掛ってきた。獣はヴァイに数体一度に覆い被さるように襲い掛かる。しかしヴァイは一 瞬眼を閉じて、そこから魔術を放つ。 「『白』き咆哮!」 ヴァイの掌から光熱波が放たれ一度に数体が塵になって消える。少し離れた場所ではレ ティワズが一振りの剣で獣たちに応戦している。しかし獣はヴァイ達のいる場所から反対 方向からも来ている。 「レティワズ! 調査隊の背後を頼む!!」 「オッケィ!!」 レティワズはすぐさまヴァイとは反対方向に回り、近づいてきていた獣を斬り裂いた。 そのままその場に留まり防衛する。 (このまま先に進みながら撃退するか……この場に留まって迎撃するか……) ヴァイは魔術で獣を屠りながらも考えに意識を回す。どちらも確実性よりも不安が多い。 ヴァイは小さく舌打ちすると地にしっかりと足をつけた。 「体力消費が少ないほうに賭けるしかない!!」 ヴァイはそう叫ぶと突進してきた獣を拳一撃で吹き飛ばすとすぐさま魔術をとき放つ。 そんなことを繰り返してもまだ数は減らない。 「意地でも調査団は守ってやる!!!」 ヴァイの叫びは獣たちの鳴き声にかき消されていった。