10.思いっきり振った炭酸でロシアンルーレットとか日常にそんなスリルいらない

「さあ、このガラナを曲が終わるまで、みんなで振りながら回していってください。止まった時に持っている人が開けてください」
 蓋を開けたら自分が最も嫌なものが入っていると分かりきっているものを開けなければいけないという絶望感に薫は肩を落とす。
 どうしてこんなことになったのか記憶を辿ってみることにした。
 現在の時刻は夜七時。
 そこから一時間遡る――。



「ガラナ?」
 薫はその不思議な名前に反応して呟いた。口に出すだけで何か口内から薬の匂いがしてくるような言葉だった。
「そうなんだ。口の中に広がる円やかな甘みと炭酸の酸味が極上のとり合わせなのさ!」
 熱海夏男は巨体を揺らしながら喜びをアピールした。飲み物一つで五体を使い、喜びを表現するのは大したものだと思う反面、150キロの巨体がどたばたする様はうざくて仕方がないと薫は内心ため息をついた。それでも掃除中であり、その飛び跳ねがなぜかゴミを減らしていくのを見ていると止める気にはならない。どうやら夏男が動くことで発する汗が、埃を吸着していくらしい。自然と夏男の肌はすすけた色になっていく。
「まあ、美味しい飲み物だということは分かった。で、それが俺と何の関係が?」
「実は日本ガラナ党は月に一度の大会があるんだよ! そこでは皆に特製のガラナが振る舞われるんだけど、抽選だから友達を集めた分、当たる確率があがるのさ!」
 なるほど、数の論理。
 薫は考える。そうしてガラナ党の大会とやらに友達を引き込み、自然と党員にしてしまうのだ。薫もガラナという飲み物は見たことがあった。黒を基調にしたボディに走る鮮やかな赤。プルを開けると独特のシロップ臭がして、口に含めばパチパチと跳ね上がる炭酸。飲み物だが、飲み手にはこびないと主張しているかのようだ。
 一度飲んで苦手だと思っても、気付けばはまっている人も多いという。そんな不思議な飲み物だった。
「俺はガラナ党党員として、やはりたくさんガラナがほしい。俺の分を取ってきてほしい」
「欲望に素直で良いな」
 理由が分かれば納得はいく。あとはそれに付き合うかどうか。どうしようか悩んでみたが、夏男の気合いを見ていると断る空気ではなかった。
 掃除を終えて道具を片づけながら断る理由を考えていると、後ろに誰かやってきた気配を感じる。その誰か、はすぐに分かった。
「お父様。夏男さんはどうしてあんなに暑苦しいの?」
 断りの言葉を考えていた薫の背後から、聞きなれた声がかかる。振り返らずともそれが最愛の人との『娘』であるアルのものだと分かった。アルが一緒ならば当然、もう一人いる。
「いや、夏男がガラナ欲しいから協力してほしいって言ってね。どうせなら白川もどう?」
 当然いると思って振り向いたが、そこには思い描いていた人物――白川琴音はいなかった。視線を下げると、娘である白川アルが不思議なものを見る目で薫を見ている。
「私の声、お母様と似ていました?」
「いや。アルの声はアルだって分かったんだけど、いないって予想外」
「お母様なら舞さんに呼ばれてどこかに行ったよ」
 舞と琴音の二人という取り合わせはめったにないため、違和感が積み重なる。しかしそれで考え込んでいても仕方がない。薫は、とりあえずアルに夏男の目的を詳しく説明して一緒に集会へ参加しようと決めた。
「という訳なんだ。アルにあたる分のガラナも夏男にあげてくれないか」
「わかりました。ところでガラナって何?」
 一から説明してもガラナを理解できなかったアルに不安が残ったが、とにかく夏男に自分ではなく夏男にあげるということは理解したらしい。それだけあれば十分だ、とアルの手を引いて歩き出す。
「夏男。案内してくれよ。ガラナはお前にやるよ」
「ありがとう、薫君!」
 夏男は額にある汗を飛び散らせて薫に感謝する。それを華麗にかわしつつ、薫は後ろをついて行った。
 階段を下り、二年生が使っている階にたどり着く。薫達がいる階は屋上を除けば最上階である四階。一つ下がった三階には書道教室や理科室など、普段の授業でもそこまで利用頻度が高くない場所がある。その一角に視聴覚室が存在していた。いつもはスライド式のドアについている小さな窓から中の様子が見えるが、今は暗幕が張られていて見えない。
「ここが会場さ」
「いかにもだな」
 夏男が引き戸を開けようとしたところで、手を握っているアルの手が薫の手を握り返してきた。少しだけ汗ばんでるようにも感じ、アルのほうを見る。
 そこには顔を青ざめさせたアルがいた。今までそんな顔を見たことはなかったため、薫はどうしたのか尋ねようと口に出そうとするがアルのほうが早かった。
「何か、良くないパワーが溜まってるよ……お父様、大丈夫?」
「? 俺は大丈夫だ……アルのほうこそ大丈夫か?」
「私は普通じゃないもの。でもお父様は――」
「ほら、御開帳〜」
 アルが呟きかけた時、夏男が扉を開く。
 その瞬間、薫はアルが言いかけた心配を理解していた。
 部屋から吹き出すシロップ臭。甘く、どこか苦く思える気体は本来ならあるはずのない質量を持って薫を包み込む。むせ返る香りに口元を抑えつつ、薫は中に入った。そこですぐさま後悔する。
 男も女も交じって、部屋には人が溢れていた。実際にはある程度、距離を開けることができるためにきつくはない。しかし、体感的には狭い部屋に押し込まれているのと変わらない。更に照明がオレンジ色で薄暗くなっているため圧迫感も強くなる。
(なんだこりゃ……)
 まるで小説で読んだことがある魔術結社の集まりみたいだと薫は思った。夏男はその体格から他の生徒の邪魔にならないように壁際に寄る。薫にとっても壁際というのは匂いから多少解放されるため、願ってもない配置だった。
「アル、大丈夫か?」
「お父様……あれを」
 アルの顔は薄暗くてよく見えなかったが、どうやら部屋に入る前よりも憔悴しているようだった。指差す方向を見ると、薫もまた脱力感が増える。
「そこにいたのか」
 視線の先には黄金崎舞と白川琴音がいた。二人ともまだ薫達には気付いてない。舞は絶えずクネクネと体をねじらせながら「あはーん」「うふーん」と叫んでいる。この匂いに催淫効果でもあるのかと心配したが、隣の琴音がまるでゴミ虫を見るような目で舞を眺めているのを確認すると、やはり地なのだと思う。
 暗闇でも琴音のことが分かる自分に少しだけ愉悦が生まれた。
「いや、私がお母様の思いを媒介してるだけですから」
「あ、そうなの」
 愛ゆえの能力ではなかったのかと落胆するも、それよりこの場に二人がいること自体に萎える。
 つまり、二人ともガラナを求めてここにきたに違いないからだった。
「あ、黄金崎もいるんだ」
 夏男も彼女達に気付いたらしい。そして目的も自然と理解したのか、声をかけようとはしなかった。ライバルになる存在とは慣れあいたくないということなのだろう。変なところで律儀な男だった。
(てか、もう鼻がマヒしたのかなんともないし。えらいところにきてしまった)
 時刻は午後七時になろうとしている。この教室に入ったのはいつだったかもう思い出せない。そんなに長い時間は経っていない気もするし、そうではない気もする。こうしていろいろな情報をマヒさせる手法というのはとても怖いものなのではないか。薫の中で後悔が満ちた時、ふいに声が響いた。
「ようこそ、ガラナ党員の諸君!」
 前方の黒板の前に立ったひとりの人物に注目が集まる。そこにたつのは薫にも見覚えがあった。
 入学式で挨拶をしていた、生徒会長その人だった。
「僕が第二十代ガラナ党党首! 小田島平治です!」
 いよ! 生徒会長!とかさっさとはじめろ!とかさまざまな声が生まれる。薫はその雰囲気にのまれないように壁に背中をつけた。その感触が唯一の真実だと思えたからだ。この空間は、全てが曖昧になるような手段が施されている。
「これから、定例企画を行います!」
 そう言った小田島の手には500mlのガラナ缶があった。そしてそれをみんなに見えるように振り始める。何度も何度も上下にシェイクされて、中に圧縮された二酸化炭素が爆発するには十分なパワーがたまっていくのが見えた気が薫にはしていた。薫の感覚で五分ほど振ったところで動きを止めて、小田島は言った。
「さあ、このガラナを曲が終わるまで、みんなで振りながら回していってください。止まった時に持っている人が開けてください!」
 蓋を開けたら自分が最も嫌なものが入っていると分かりきっているものを開けなければいけないという絶望感に薫は肩を落とす。
 どうしてこんなことになったのか記憶を辿ってみることにした。
 現在の時刻は夜七時。
 そこから一時間遡る。
 音楽が流れ始めてから思考の海に沈む薫。ハイテンポで、サックスの音が軽やかに上っていく。暑苦しいリードボーカルに合わせて会場が大合唱。その中で手から手へと伝っていく赤と黒のストライプ。
 その速度も尋常ではなく、手渡された瞬間には次の相手に渡っている。やはり中から爆発する気体と液体を浴びたくないからだろう。その気持ちは痛いほど良く分かった。
 やがて今の場面までも振り返りが終わった薫は一つのことに気付いてため息をついた。
(でもこれじゃあガラナ手に入らないじゃないか……)
 そこまで思い浮かんで、一つの可能性にたどり着く。
 それを言葉にしようとした時には、隣にいたアルの所に缶が回ってきた。
 同時に音楽が終わろうとする。とっさに薫はアルの手からガラナを奪い取った。
 完全に音楽が終わった時には、ガラナは薫の手の中にあった。
 超速で渡されて更に振られたガラナ缶。
 誰もがそれと薫を見比べて、自分達の知り合いかどうかを確認していた。そして、誰も連れでもないことに落胆していく。
 唯一、隣にいる夏男だけが笑顔で薫を見ていた。
(やっぱり。この中に正規の党員? はほとんどいないんだ。いるのは、俺みたいに駆り出された友人)
 自分の息のかかった友人をより多く集めて、その誰かにガラナを取らせれば自分も貰える。
 ガラナで汚れたくもない。しかし特典が欲しい。
 それを満たす良い手段だろう。
「おめでとう、薫君! 特製のガラナは君のもんだ!」
『あーけーろ! あーけーろ! あーけーろ!』
 夏男の言葉とともに湧き上がる大合唱。どうやらプルタブを開けた後で特製ガラナが貰えるらしい。汚れるのは間違いない。薫の脳裏にはプロ野球の優勝後のビールかけが思い浮かんだ。
 あれだけ泡やビールで濡れるのは気持ちいいだろうが、何も着替えを用意していない今、ガラナまみれになった時にはどうなるのか。
 それでも。薫は。
「喰らえ!」
 開けていた。
 勢いよく噴き出したガラナは、見事に夏男の顔面に直撃していた。


 * * *


「いやー、ひどい目にあった」
「結局あのあとは誰にも当たらなかったわね」
「お父様の運って変なところで良いですね」
 ちらほらと降る雪の中、三人は並んで帰る。
 体に染みついたガラナの匂いも徐々に虚空へ消えていく。
 雪が匂いを吸い取ってくれているように薫には思えた。
「もう少しで一年なのよね……高校に入って」
 琴音のしんみりした声を聞きながら薫は後ろを歩いて行った。
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