08.運動神経切れてる人にとって体育祭なんて女子の生足見るくらいしか楽しみねーんだよ。

「はぁはぁ、はぁ、はぁ」
 その男、鈴木サトシにとってその日は幸福に包まれた日になるはずだった。中学校時代から体育は五段階評価の二つ目。球が来れば空振り、球が転がれば空振り、球が飛んでくればぶつかる。走れば学年最弱。体格からすればトップだろうと思われたパワーの分野もスコップで砂袋飛ばし大会では第三位とぱっとしなかった。ようはぱっとしない男である。
 しかし、今まで灰色の人生を送ってきた彼の唯一の楽しみが、目の前にあった。誰もいない教室。燦々と輝く日光がかすかに入ってくるという具合に、ほどよく薄暗い教室。締め切った窓により熱せられた空気が逃げていかず、蒸し暑い。汗にまみれたサトシだったが、それでも笑顔を絶やさずに目的の場所へと突き進んだ。
(俺には、これしか楽しみが無いんだ!)
 サトシは教室に入ると窓際に隠れるように待機して、自分の鞄から望遠レンズ付きのカメラを取り出した。常人ならばまず持たないような、人の頭を殴れば殺せそうなゴツい形状。それを、窓の外に向ける。
 そこにはいまだ激闘を繰り広げている生徒達。青春時代を象徴するかのような汗を流しながら。
 秋に開かれる体育祭。この学校のメインイベントの一つだ。
 サトシの体からも汗が流れている。誰かに見つかるかもしれないという不安や、教室内の気温や、様々な負の感情を含んだものが。
(俺には、これしか、楽しみが、ないんだ!)
 そう考えてサトシは服を脱いで靴下のみの姿となってから、カメラのシャッターを押す。レンズが向く先は走っていたり、座って休んでいる女子生徒。その足。ブルマが廃止されてサトシの学校はハーフパンツになっているが、それでもサトシはよかった。ブルマが何故廃止されたのか、くだらない! と論議をしている他の男子生徒とは一線を引いてサトシは立っている。
 そこには明確な目的があった。
(そう。女子の足、太ももは隠されなければならない)
 そしてその隠された部分は想像で補わねばならない。
 だからこそ、写真に収める。切り取った世界に存在している女子はサトシだけの女子だ。ハーフパンツで大部分が隠れているが、サトシにはその下に生えている足が容易に想像できた。付け根の部分については想像をいくらしようとしても無理だったが。女性器など簡単に確認できるものではない。漫画やアニメで得た映像を重ね合わせれば十分だ。きっとリアルは醜悪な形をしているに違いないのだ。リアルなんて不要。二次元万歳だ。
「お前、何してるんだ?」
 思考の海に飛び込んで泳いでいたサトシは後ろから声をかけられた瞬間、体中の毛穴から冷たい汗が噴出した。シャッターを切るたびに内から迸っていた熱も一瞬で消え去った。残るのは妙に冷えた体と深く絶望へと沈んでいく精神。
 カメラだけならまだしも、今の自分は全裸に近かった。靴下を申し訳程度に履いている程度。
 昨日ニュースで、深夜のオフィスで警備員と残業で残っていた社員が靴下だけの姿で徘徊していて逮捕されたという報道があった。それから、どうしても試したかったこと。でも、ここはそんなオフィスよりも誰かに見られる可能性がある昼の学校。やはり冒険はすべきではなかった。リアルなんて駄目だ。
 だからこそ、やることは一つしかなかった。
 聞こえてきたのは女声だったのだから。
 叫んで、振り向いて、殴り倒す。
 一瞬でその動作を終えて教室を飛び出せば相手も誰かは確認できないだろう。不審人物として候補には上がるだろうが、その時はその時。今はこの場を脱出するしかない。
「うらぁあああああああ!」
 叫んで。
 裏拳の要領で振り切られた右手。そこにはごついカメラ。人ひとりならば殴り殺せそうな。
 振り向きざまに、殴る。
 振り向いて。
 殴り倒す。
「物騒なもの振り回さないで?」
 だが、最後だけが上手く行かなかった。
 全力で、それこそ相手が怪我を負ってしまってもいいと思うくらいに力を込めて振り回したはずだった。
 それでもその手は相手の右手に止められていた。
 自分よりも一回りは小さい、女の子の手に。
「あ、ああ、あ」
「なんで私にそうしてくるか知らないけど」
「ああの、そのの」
「牙を剥くならば、こちらから喰らうまで。この世は弱肉強食なんじゃうしゃしゃしゃしゃ」
「悪ふざけはそこまでにしておけよ、アル」
 第三の声が響き、サトシの手を掴んでいた女の子の頭に手が置かれる。女の子は「お父様」とだけ呟いてサトシの手を外した。逃げるチャンスだったが顔を三人目に見られた以上、もう無駄だとサトシは観念した。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 ただ謝るだけ。顔はよく見ていないが女の子と「お父様」と呼ばれる男の組み合わせは一組しか思いつかない。
 白川アルセルバリエルと杜若薫。
 一説には白川アルセルバリエルは、学年のマドンナ白川琴音と薫の娘だという。むろん、誰も信じていないが超人的な戦闘力を持つことでも有名で、それを手懐けている以上、サトシには選択肢は無い。
「まあ、謝るなって。いきなり驚かせたアルも悪いんだから」
「でもお父様。目には目を。歯には歯をって言うよ」
「お前が歯を出したら相手の歯を破壊するから止めなさい。そうだ。こと……白川が呼んでたぞ」
 そして薫はアルを教室から追い出した。琴音が呼んでいるという言葉に反応してぱたぱたと駆けていく。その姿だけ見れば人畜無害な子供なのだ。
「俺を、どうする気ですか?」
 サトシは改めて薫に問いかける。だが、薫は黙ってサトシのカメラを手に取るとおもむろに窓際に立ち、シャッターを押し始めた。
「あの、えーと」
 一通りシャッターを押し終えると、薫はサトシにカメラを渡し、教室から去ろうとする。
「あ、あの、えと」
「現像、頼んだぞ」
 それだけ言って薫は教室から消えた。残ったのは脱力感に包まれたサトシと、女子の体操服姿が収められたカメラだけだった。
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