07.台風が依然強い勢力を保っているのは全国の学生の強い思いによるものなんですよ。

 雨がほぼ真横に流れていく。街路樹はその幹をしならせてどうにかして風を避けようとするものの、耐え切れずに亀裂が走った。夏休みが明けてすぐ、北海道に台風が押し寄せていた。普段ほとんど来ず、来ても威力はもうないことが利点であるはずの北の大地だが、今は立って歩くことも辛いほどの風が吹いていた。しかも、既に二日間滞留し続けている。
「風よ吹け。雨よ降れ! 雷よ世界を染め上げろ!」
 暴風に負けぬ声を空高く張り上げる男が、民家の屋根に立っていた。見た目だけで百三十キロはありそうな巨体を大きく広げ、まるでその身からこの雨風を起こしているかのような錯覚を見るものに思わせる。
「この熱海夏生の名の下に!」
「うるせぇ!」
 男が立つ傍の窓が開かれ、中から縄が投げ込まれた。縄は男の手を拘束して、一気に家の中へと引き込まれていく。
「あーがー」
 特に緊張感のない断末魔は誰の耳に入ることもなく雨に溶けた。
「なにやってんだよ」
 縄を持って夏生を引き込んだ張本人――杜若薫は嘆息と共に腕をぶらぶらと振ってほぐす。夏生の体格に見合った力を引き出した結果だ。絨毯の色を滴り落ちる水滴によって変えていく夏生。何故かほんわかとした湯気が出ているのを見てそれが雨ではなくて汗だと理解した。
「ところで、なんでここに集ってる?」
 夏生から視線を移す。先には、まず白川琴音。その腕の中で琴音の胸を揉んでいるアルセルバリエル。薫の本棚から勝手に漫画の単行本を持ち出して読んでいる黄金崎舞。外も歩けないほどの雨風の中、何故か結集していた。
 しかし、薫の問いかけに対して誰も返答はしない。正確には何か言葉を躊躇しているような、そんな印象を薫は受ける。
(誰に尋ねよう)
 迂闊に続きを問いかければ、口を閉ざされそうな空気。しかし、薫はあえて空気を読まなかった。正にAKYだ。
「アル。なんで皆集ってるんだ?」
「なぜ私に尋ねるのですかお父様」
「胸の前で掌を合わせて光を集めてればそりゃ怪しいよという。あとそのあからさまな丁寧口調」
 アルは薫の言うとおり、胸辺りに光を集めていた。誰が見ても怪しいが、それだけに怪しくないかもしれないという可能性――は全く考えられず、今回の台風となんらかの関係があるに違いなかった。
「で、なにをやってる?」
「これには海よりも深いわけが」
 アルは光を集めるのを止めないまま答える。心なしか顔が紅潮し、息も荒い。
「何か病気か?」
「きっと胸の前で光を集めないと恋しちゃう病ね」
(意味わからんし)
 舞の言葉を無視して薫はアルに近づくと、額に手を当てた。発せられる熱は薫の掌を徐々に温め、やがて触れないほどになっていく。
「おい、大丈夫か!?」
 さすがに心配になった薫は部屋から出ていった。冷蔵庫から氷を取り、水枕を用意するために。


 * * *


「どうやらみんなの願いを集めてオーバーヒートしたみたいね」
 薫のベッドに横になり、氷枕に頭を埋めながらアルは寝息を立てていた。用意する間に琴音が真相を聞きだしたらしく、準備を終えた頃にはもう語り始めている。
「ねっがっいってっ?」
 神様がくれたんだから病気になどかかるはずがないと高をくくっていただけに、薫の動揺は激しかった。何故かトランクス一枚になって腕立て伏せをしている。背中に夏生を乗せて。舞は単行本十巻目に入った。現在五十巻まで出ている大長編バドミントン漫画だ。バドミントンというマイナーな題材で長編を書こうという気になった作者も作者だが、ずっと載せている雑誌も雑誌だ。主人公が弱いところから強くなっていくところがいい。現在は中学校二年生の二月くらいの話だ。作者によると中学三年のインターミドルまで話をやるらしい。何巻まで行くのか。
 それはさておき、薫は琴音の言葉に耳を傾ける。
「夏休みが終わって学校に行きたくないって気持ち」
「……は?」
「だから。全国の学生が一斉に『学校行くのが嫌だ』って思ったらしいの。そうしたらそのエネルギーがアルに集って、そのエネルギーの余波が台風として具現化している……そうよ」
 言葉を紡ぐほど琴音の口調は大人しくなった。最後には薫から顔を背けてアルの額に濡れタオルを乗せる。アルから聞いた説明とはいえ、にわかに信じられないのだろう。
「なんでアルがそんなエネルギーを吸収してるんだよ。何か理由でも?」
「それが良く分からないみたい。アルは風邪みたいなものって言ってたけど」
「ネガティブウイルスかぁ」
 舞が単行本から顔を上げないまま呟く。言いえて妙だったが、だからといってどうすればいいか分かるわけではない。どうにかする手段があるとすれば。
「神様出てこないかな。あいつならアルを治せるんじゃないか?」
「んー、別にそんなに心配はいらないんじゃないかな」
 薫の背中の上で、夏生が言った。腕立て四十回目に入ったところで薫は潰れ、物を言えなくなる。だから尋ねるのは琴音の役目だった。
「心配いらない根拠は?」
「だって、いつまでも学校いかないなんてつまらないだろうに」
 至極全うな意見だった。
「そ、れ、は。一理、あるけれど、な」
「おっとごめん」
 夏生を押しのけて立ち上がる薫。肩や腰を何度も叩いてほぐすと、深く息を吐いてアルに顔を近づける。
「やはり良いのは王子様のキスだろう」
「え、なに、を?」
 琴音も薫の行動の意味するところが分からなかったのだろう。普段の聡明さが影を潜めていたのはやはりアルの体調に不安を募らせていたからあろうし、何かしら突っ込む舞も単行本に夢中になり、夏生は元から止める男ではない。
 結果、アルの唇に薫の唇が重なった。
「……あ」
「あ」
「あは」
 うっすらと目を明けて、眼前に見える薫の顔と、唇への感触に声を漏らすアル。
 ようやく薫が何をしたのか理解して、ほうけた顔で呟いた琴音。
 唇に広がる感触に思わず笑ってしまった薫。
 三者三様の「あ」が終わった時、アルの顔が真っ赤に染まる。
 時が止まった空間で、薫が一言。
「柔らかかった」
「きゃぁああああああああああああ!?」
 薫の部屋は光に包まれていた。薫は体が全方向から叩かれているかのようにぼこぼこにされて、ピンボールのように弾かれる。ぐるぐる回る視界の中で何故か琴音や舞、夏生は唖然とした顔のまま薫を見ていた。
 アルはアルで叫んでいるだけ。
 いや、叫びの中で怒号と共に必殺技名が出ていた。
「爆裂! 熱血! 往復ビンタッ!」
 悲鳴の中に混じる裂ぱくの気合い。それに従って薫の体が飛ばされる。
 だが胸元の光が爆発的に輝いて、一瞬にして消えたところで薫を持ち上げていた暴風も消えてしまい、床に叩きつけられた。
「ぐへ」
「あ、外の風がやんでる」
 薫の鈍い音に耳を貸さず、琴音と夏生は外を見る。先ほどまで台風の影響から雨風が強かったにも拘らず、今は太陽しか見えない。雲は完全に消え去っていた。
「一体どういうこと?」
 琴音は布団を被って顔を隠しているアルに向けて尋ねた。アルはしかし、動こうとしない。いつもなら聞き分けよく返事もすぐしてくれるはずなのにと、琴音は不思議に思う。
 それを解決したのは薫だった。車に轢かれた蛙のように床にべたりとひっついたままで言葉を紡ぐ。
「アルは寂しかっただけだろうさ」
 大げさにベッドの中のアルが体を震えさせる。それだけで図星と知れたが、更に薫の言葉は続く。
「みんなの思いが、とかなんて嘘だよ。アル自身がもっと夏休みを楽しみたかったんだよ。多分、俺らともっと遊びたかった、とかさ。でも素直に言ったら恥ずかしいから大仰な理由を考えたんだろ」
「……ごめんなさぁい」
 アルは涙目で琴音に謝罪する。そこにあるのはただの悲しみではなく、おそらく恐怖だと薫やその他に感じさせるほど。だが琴音はアルの頭の上に手を置いて撫でていた。
「アルも子供だもの。仕方が無いわよね」
 そう呟いている間もあまたの上を動く手の速度は徐々に上がってきていた。
「でもしつけはちゃんとしないとね」
「あ……あああ」
 アルの涙は服従から恐怖へと変わり始めている。摺れている頭からは煙が立ち始め、薫達はそそくさと部屋から出て行く。薫は夏男に足を引きずられてだが。
「ごめんなさぁああああああい!」
 アルの絶叫は扉一枚に阻まれて消えていった。
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