03.進路調査表に至って真面目に書いたら職員室に呼び出された。

「ねえ、お父様」
 杜若薫は自分を呼ぶ声に机から顔を上げた。先ほど終わった古典の授業は『眠りの高田』と呼ばれる教師によって大半の生徒が眠りへと誘われていた。薫もその一人で、授業が終わった後も眠気が納まらず寝ていたのだった。
 ぼうっとする頭の中。ぼやける視界。その中で声だけはしっかりと耳から入って脳を揺さぶり、薫の意識を覚醒させた。
「アル……どした?」
「お母様が用事があるって」
 顔を動かすと、ちょうどアルを使いに出した主の姿が見える。高校に入学してから六月が訪れ、徐々に暑くなって来る気候にあわせてか背中に伸びていた艶やかな黒髪はポニーテールになっていた。
 綺麗なうなじが見えたことで更にファンが増し、全てを切り捨てていく。すでに殺された(フラれた)のは十二名にのぼり『キリステ様』と呼ばれるまでになっている。どうやら数年前に初代キリステ様が生誕してから、毎年どこかの学年に生まれているらしい。
 今年は自分の彼女が生まれ変わりのようだった。
「薫」
「何、こと――白川」
 咄嗟に辞書が飛んでくるという未来が見え、薫は顔を覆う。
 辞書は薫の予想を裏切るように脳天を唐竹割りしてから琴音の机の中に引っ込んだ。出来たたんこぶを摩りながら薫は用件を尋ねる。
「で、本当になに?」
「さっき先生に薫を呼んで来てくれって言われたのよ」
 琴音は薫の前に腕を組んで立つ。そのすらりとした肢体はそこにあるだけで薫の心臓を高鳴らせる。けして女性の肉体について考えたわけでもないのに。存在だけで人を惹きつける者。正にカリスマだ。
「ほら、昨日進路について第三希望まで書けってあったじゃない。それのことらしいけど……なんで薫のことに私まで呼ばれるの?」
「白川まで呼ばれてるのか?」
 自分の進路について琴音が呼ばれる理由。薫は一つ思いあたる節があった。それを言えばおそらく辞書が形を無くすまで殴られるだろうが。一緒に行けばバレることだとしても、後に回せば何か解決策が見つかるかもしれない。そんな甘い幻想を抱いて薫は「さあ」と白を切った。
「ま、とにかく昼休み行きましょう。先生の用事が終わるまでご飯抜き」
「……ってすでにアルが俺の弁当箱の中身あさってるんだけれど」
 琴音との会話を尻目に、アルは薫の鞄から弁当箱を取り出しておかずに手をつけていた。たまご焼きにウィンナー。ミートボール。次々と昼食があるの胃袋へと納まる様を見ながら、薫は諦めて琴音に視線を戻す。
「私のご飯分けてあげるからアルは許してあげて」
「え、マジ」
「疑う意味分からないけど。じゃあ、後でね」
 立ち去る琴音の背中に向けてではないが、心の中で薫は呟いた。
(分けてくれるってそりゃ驚くだろ。今までの言動からして)
 彼氏彼女らしさなど何もなく、ただどつかれるだけの日々。何か脱出する鍵となるのかと、薫はアルへと視線を戻した。そこには綺麗に中身が消えたお弁当箱があった。


 ◆ ◇ ◆


「この馬鹿男」
 隣から声が聞こえたような気がしたが、薫の気のせいだったろう。目の前には担任の荒木。琴音は優等生。容姿端麗言動美麗といろんな意味で隙がない存在と教師達は分かっている。クラスの面々も琴音の薫への豹変は見ていない。本当に薫の前だけで、あるいはクラスメートの視線をかいくぐって薫を攻撃している。少なくとも、この場は安心だと静かに息を吐く薫。本当の地獄を前に少しでも自体を好転する材料を得ておきたいと、荒木に向き合う。
「で、もう一度説明してくれるか?」
「説明と言われても……書いた通りなのですが」
 職員室の一角。二組のソファに挟まれた机。その上に乗るのは一枚の紙。
 進路調査表と紙上部中央に描かれたその紙の下には第一希望から第三希望までの進路が書かれていた。
『第一希望:主夫』
『第二希望:琴音のお婿さん』
『第三希望:発明家』
「これの通りと言われてもな……」
 荒木は頭のアフロをぽりぽりとかいて、一部をむしり取る。黒い塊を口元に持っていってそのまま食べだした。目を丸くしている薫と琴音を全く気にせずに塊を食し終え、荒木は薫の目を見た。
「すまん。小腹が空いたんでな」
「そのアフロ食用だったんですが」
「また生えるんでな」
 言葉につられてむしられた箇所を見ると、既にもこりと膨れていてむしられた痕など見えなかった。再生能力よりもアフロを食べることに戦慄を覚えた薫だが、荒木の話が再開される。
「つまり杜若は白川の婿として主夫となり発明をしたいというのか」
「間違ってませんが。一番願いは主夫です」
 主夫。それは家事のエキスパート。外に働きに出る妻に代わり家の全てを引き受ける。掃除洗濯料理犬の散歩近所づきあい授業参観などなど。
「幼い時から主夫を目指して腕を磨いてきましたから」
「例えば?」
「今、家の料理は全て俺が作っています」
「じゃああのお弁当も!?」
 三人以外の声が薫の頭上から聞こえる。見上げると天井に足の裏をつけて逆さまになったアルがいた。吸盤でも靴裏に付いているかのごとく安定して立っている。
「あれは母さんが作ったんだよ」
「自分で作れるのにどうして……」
「人の料理のほうが美味しいだろ?」
 その言葉だけでアルを納得させて、今度は荒木にも伝える。
「掃除洗濯は小学校一年からやってきました。現在進行中です。ワイシャツとかのアイロンもかけられるし、うちの床は舐められますよ。一週間に一回舐めて確かめてます。未来に向けてちゃくちゃくとスキルを磨いているわけです」
 顔を引きつらせながら薫の言葉を聞き終え、荒木は琴音へと視線を向けた。荒木を困惑させた回答は琴音がいたから生まれたもの。琴音がその気ならまだ就職先はあるわけだが、脈がなければ進路についてよく指導しなければいけないということだ。
「白川は、杜若の考えをどう思う?」
「別にいいかと思います」
 その瞬間、時が止まっていた。尋ねた割に琴音の脳裏には薫を振る琴音の姿があった。人間、自分の予想と全く違う結果が出た時には動きが止まる。今回も例に漏れず、荒木は時を止めた。
「何故だ? 杜若はつまり白川の――」
「分かってます。別に今のままなら、結婚してもいいと思ってますから」
 荒木は全く話の展開が分からず、考える気力も出ないようだった。薫に「とりあえず白川が病気などで働けない時にも働けるよう進路も考えてみてくれ」と額を押さえながら言っただけで二人を解放する。頭を抱えて唸る荒木を背に、職員室を出る二人。そのまま廊下を歩き出しても薫は何も言えない。かなり唐突に飛び出た琴音の発言。単純に聞けば薫へのプロポーズということになる。二人の間にアルが入り、互いの顔を見上げてくるのにも気づいているが、薫には答える余裕はない。
「なぁ、なんで。あんなこと」
「この馬鹿男」
 腹部に叩き込まれるコンパクト六法。ただ、廊下という公共空間だからか歩行に支障をきたすほどの威力はなかった。それでもじわじわと痛みが体中に広がってしばらく鈍痛が続く。
「ああでも言っておかないと開放されないでしょう? さっさとご飯食べましょ」
 痛みで速度が鈍る薫を置いて琴音は歩みを進めていく。ついていこうとするもその差は広がっていく。
「鈍いね、お父様」
 隣を歩くアルが呟く。薫は切り返そうとしたがやはり腹の痛みで断念。しかし一点疑問を口にする。
「今日は白川の傍にいなくていいのか?」
「今、傍に行ったら私も叩かれそうだもん」
 言葉とは裏腹にとても嬉しそうに微笑んで、アルは薫の隣を歩く。結局現状を把握できないままに薫は教室へと戻っていった。



(おまけ)

「はい、お昼ご飯」
「……ご飯一口だけ?」
「私とアルの分なくなるでしょ?」
「……はい」

 薫の学生生活は第四話にも続く。
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