01.入学式に遅刻したら、誰もいないはずの教室になんか不思議な人たちが残ってた……。

 朝というのは、どこから始まるのだろう。
 太陽が空に昇り、大地を暖め始めた瞬間? 目覚ましが鳴り、暗黒の海をたゆたう自分を認識して、意識を覚醒させる時?
 否。
 断じて、否。
 朝はこの時やってくる。
 自らが目覚めた時だ。
「ぐぁあああああ!」
 少年は渾身の力でマウンテンバイクのペダルをこぎながら、男が道路の真ん中を駆け抜けていく。深い黒制服に身を包み、頭部から汗を噴出しながら空気の壁を突き破る。
 その形相は地獄の鬼さえも驚いて手に持つ棍棒を引っ込めるだろう。
「なんで目覚ましが止まってるんだぁあああああああ!」
 叫び声が尾を引いて流れていく。速度を上げるほど立ちふさがる大気の壁の厚さは増していくが、男――杜若薫の前進を妨げることはない。彼には着かねばならぬ理由があったから。
「入学式から遅刻なんてありえねー!」
 誰が聞いているわけでもない。そもそも言葉というものは誰かに伝えるためのものだ。しかし、薫は内からこみ上げる衝動を発散するために、虚空へ叫ぶという不自然な行為をせざるを得なかったのだ。
 それほどまでに、薫は追い詰められていた。
 始業式の日。それは高校生活の第一歩であり、彼にとっては恋人との新生活が始まる日でもあった。
 それまでずっと意中の人であった白川琴音に告白して成功し、思わぬおまけまでついてきた。
 得体の知れない人物――自らを神と呼んだ原始人ルックの男から与えられた『子供』白川アルセルバリエル、通称アルと名づけられた娘は、琴音が預かるといって連れ去っていった。
 これからは共に学校生活を送るのだということだったのだが、薫が思い描いていた生活など初めからなかった。
 彼女が自分の家の前で待っていて、一緒にゆっくりと歩いていく……家が逆のためそれは無理。
 弁当を作ってきてもらう……琴音のコンパクト六法が飛んできた。
 アルと共に住む……アルの薫への目線は野良犬を見る眼だった。
 望みが全て幻と終わり、薫は心で泣いて顔で怒って学校に向っているのだった。
「だが負けんぞ! 俺は負けんぞ! これはばら色の高校生活を得るための試練なのだ!」
 カーブで見事なドリフト。後輪が磨り減ることなどお構いなく、学校への道を突き進む。
 音速の壁を超えようかと勝手に思ったところで、校門へと滑り込んだ。
「うおー!」
 自転車置き場にマウンテンバイクを投げ出し、疲労に震える足を前に進ませる。バランスを崩しながら走ることを止めずに校舎内に入ると、体育館に人の気配が集っているのが分かった。明らかに式は始まっている。
 自分の靴入れなど分からない薫は下駄箱の上にあったスペースに置くと、持ってきた上履きを装着してクラスが張り出されている紙の前に立った。
(まずは鞄置かないと)
 一年D組に自分の名前と琴音の名前を確認し、移動と同時にガッツポーズ。腕を振り上げたまま四階まで階段を制覇して、教室へとたどり着いた。
「おっし――」
 しかし、扉を開けたところで待っていたのは競泳用ブリーフ型パンツを穿いた四人の男達だった。視覚的に厳しい姿身に薫は扉を開けた体勢のまま固まる。
 四人はと言えば。
 彫像と見間違えるほど、整っている肉体。それが赤色と青と白と桃色に塗られている。扇形に広がった陣形を全く崩さずに、腹や二の腕や太ももがたまにピクピクと動く。プシュっと湯気でも出てくるように思えるほどだった。
 そして顔には穿いているのと同じ競泳用パンツを被っていた。勿論、色は四種類。
「秘湯戦隊! ユカゲンドウジャー!!」
 四人は叫んでから薫を囲むと回転しだす。
「熱さの後にはサラサラ美肌! 秘投戦士ほんのりピンク!」
 後ろか前か。どこかから聞こえてきた台詞と共に顔面に投げつけられる何か。固体識別できなかった代わりにその満面な熱さを受け取って薫は悶絶しながら後ろに倒れようとする。そこは廊下。ワックスが綺麗にかけられた場所に後頭部から落下しようとする。
「うくおおおお!?」
「うーらららららららららららららららららららららららららららぁあ!」
 だが、倒れそうになった体は背後から打ち抜かれる衝撃に前に飛ぶ。そして今度は前のめりの体を前からの衝撃が起こす。前後左右から間断なく放たれる一撃に薫は気持ちよくなって意識が遠のく。
 教室内にいたはず四人は既に陣形を崩し、その内の一人は瞬時に廊下側へと回って薫を室内へと押し戻した。
「叩いて叩いてストレスほぐせ! 秘闘戦士! ゆったりホワイト!」
 散々四方八方から叩かれたことで自分から回転する薫。ようやく意識が戻りかけた時、目の前で長大な刀を振り上げている赤いブリーフが見えた。
「我が刀に宿る火は、脂肪を燃やす灼熱の刃! 秘刀戦士、熱湯レッド!」
 本当に刀が燃えていることに、ほぐれた顔面の筋肉が硬直する。悲鳴を上げて逃げ出す前に、その刀が勢い良く振り下ろされた。
(斬られた!?)
 実際に、薫は縦一直線で斬られていた。炎の奇跡が中空を、そして薫の肌に刻まれて――
「きもち、いいぃん」
 涎をたらしながら薫はその場に膝をついた。顔を上げて涎をたらし、上半身は立ったまま。絶妙なバランスなのか、崩れ落ちずに膝立ちで四人を見上げている。
 四つの高い山。人間という小さな存在では勝つことなど不可能な壁。ああ、この気持ちよさは無限――
「あれ」
 そこで薫はようやく気づいた。赤。白。桃色。あと一つ、青が足りないことに。
「ええっと、ゆたった体をひやっと冷やせ! 新人秘湯戦士、ぷるぷるブルー」
 びしゃぁ、と効果音を出しながら降り注ぐ水。
 瞬間。薫の幸せは吹き飛んでいた。
「いぎゃぁあああああああああ! 冷たいぞぉおおおおおおお!?」
 ほぐれた体は鋼鉄のごとく固まる。そのまま四人の輪から抜け出すと、教室の中をぐるんぐるんと駆け巡る。
「何するんだ!」
「だって、サウナとか入った後は水風呂でヒヤッとするんでしょ? 私には分からない快感だけど」
 男にしか見えない体をしているブルーだったが、声も言葉の使い方も女性のものだった。しかも、まだまだ子供の。そこで薫はぴんと来ていた。あまりにも不可思議な状況になり、それ専用の回路が開いて湯水のように解答が沸きあがってきた。
「お前、アルだな!」
 その瞬間、ぽん、とシャンパンのコルクが抜かれた音がしたかと思うと薫の目の前にいたぷるぷるブルーは子供の姿に戻っていた。今日の服装は最後に見た時の赤いワンピース、ではない。紺色のベストの下はワイシャツ。下はチェックのスカート。靴下は清潔な白と、お子様の格好。
「良く気づいたね、お父様」
 アルは笑顔でえらいえらいと薫の頭をなでる。そこでまた癒されたのか、薫は余分な一言を放ってしまった。
「孫にも衣装だっけか」
「失礼、千万!」
 言葉と張り手が飛ぶのは同時だった。薫の腰までしかないアルはしかし、自分を飛び越えるほどの跳躍を見せて薫の眼前まで飛ぶと体のねじり力を直接右手に結集し、頬を思い切り張っていた。
「びゅげりょ!?」
「爆裂!」
 空中にいる状態のまま、何もない場所を蹴って飛ばされた薫に近づくと、今度は逆の頬を張る。
「ふべろ!?」
「熱血!」
 更に空中ジャンプで薫の進行方向に回りこむと、今までと違って一瞬だけ溜める。
「往復ビンタッ!」
「ばふーん!」
 右頬への二度目の衝撃で薫の体は教室の床に沈んでいた。
 都合三発。強烈なビンタを喰らっても、薫は体が動かなくなるだけ。思ったよりもダメージがないことに首をかしげながら、薫は立ち上がっていた。
「あれ、なんで」
「お父様を本気で叩くわけないでしょ。もー。そして、馬子にも衣装だよ」
 腰に手を当てて「どうしょうもないクズ男ね」と目線を送っているアルを見ながら、薫は肩や腰を確かめる。
(……確かになんともない。アルの手加減なのか、それとも)
 薫がちらりとユカゲンドウジャーと名乗った三人組を見ると、それぞれの温泉技(?)で体を解しあっていた。パンツに隠れていても顔は緩んでおり、涙腺も決壊しているのか涙が頬を伝わり床を濡らしている。ここまで来てようやく薫は最もな謎についてアルに聞いた。
「こいつら、なんなの?」
「ん、良く分からないけど上級生って言ってたよ」
 そこから五分ほどアルの話が続く。
 琴音について学校に来たまでは良かったが入学式にはさすがにアルは出席できないため、教室で待っているように琴音に言われて座っていた。
 そこにいきなり扉を開けてやってきたのがこの三人組。レッドが三年生で他が二年生らしい。
「つまりあんたら、入学式終わったこのクラスの生徒を驚かせようとしたのか?」
 倒れたままで尋ねると、ほんのりピンクが答えた。
「そうよ。後継者を探すためにね」
 そう言ってピンクは倒れたままの薫の上に乗った。そして一つずつワイシャツのボタンを取っていく。
「あ、えとえと」
「優しくして、あ、げ――」
 その瞬間、薫の背筋に悪寒が走った。あまりにも慣れ親しんだ感覚。決まってその感覚の後には頭部に辞書の固い角が叩きつけられるのだ。
「るぇ!?」
 だが、今回辞書がぶつかったのは、薫の後頭部ではなくほんのりピンクのものだった。まるで爆弾が爆発したかのような音を響かせながら、ピンクは薫の胸板に顔をうずめる。跨っていたのだから当たり前ではあるが、薫はほっとしつつも女性の匂いに顔を赤らめていた。
(こ。これってあれですか)
 視線に映ったのは床に落ちている辞書。数多く薫を打ちのめしてきたことで、丸くなっても逆に硬度が上がっていたのだ。
「入学式にも出ないで、こんなところで何やってるのかしら」
「お母様ん」
 みゃーん、と語尾に付きそうな柔らかい声音でアルが声の主――琴音にしがみつく。
「さみしかったぁよぉぅ」
 アルは蜂蜜がたっぷり塗りたくられた熊を食べるように、琴音にむしゃぶりついた。あまりに濃厚な声で甘えるもので、薫は照れくささに思考が麻痺しかける。
 残った理性で現状を分析すると、入学式を終えたクラスメイト達が戻ってきたようだ。しかしたった一人で床に倒れ伏している薫を見ながらひそひそと話しだす。聞こえてくる言葉から、薫は不信人物とされているようだ。確かに入学式前も最中もその姿を見ていないのだから疑うだろう。
 事情を話す余地はないように薫には感じられる。
(な、なんだ。てか、あのユカゲンドウジャーはどこいった。説明はしないとな)
 動揺しながらもとりあえず説明せねばと立ち上がる薫。しかし口を開きかけて教室の様子に動きが止まった。

 どこにもユカゲンドウジャーなどいなかった。
 しかし、何故か四枚の競泳用パンツが落ちていた。

 ほかほかと湯気を立てながら。女子数名はそのほかほかパンツと薫を見比べていた。薫の脳裏に危険な繋がりが想像される。
(いや、俺が被っていたわけじゃないからね!)
 思ったことを語ろうとした瞬間、野太い声に遮られてタイミングを失う。けして偶然ではなく故意にあわせられたと薫は直感で悟った。
「杜若、薫だな」
 自分を取り囲む生徒達の奥に、その男はいた。教卓に手をついて、その見事な球体状になっているアフロを薫へと突きつけるように向けていた。顔は見えない。着ているのは青いジャージ。高校指定のものだとは気づいたが、何故着ているのかは予測出来ない。
「これから担任になる荒木だ。これから始まる三年間は、君達の人生で最も輝く時となるだろう。その中で少しでも手助けが出来ればいいと俺は思う」
(良いこと言う先生だな)
 薫は素直に感動した。状況が違えば泣いていたかもしれないほど、荒木の言葉は彼の身に染みる。泣けなかったのは女子の視線と男子の笑い顔に曝されていたからだが。
「しかし、その前にこの脱ぎたてらしきパンツはどういうことだか説明してもらおう」
「……ユカゲンドウジャーとか言う人等がさっきまでいまして。確か、上級生だと」
 薫は素直に事の起こりから終わりまで説明する。入学式に遅れたこと。教室に入ったら怪しげなユカゲンドウジャーと名乗る人々が自分をほぐしていったこと。アルが自分をふんずけたり蹴ったり叩いたりしたこと。そして馬乗りにされて貞操の危機となったこと。
「ほぼこの通りです」
 薫は全てを話し終えて爽快感を宿していた。言った、言ったぞ。俺は話しきった。ブラボー。今日はトンカツで明日はホームランだと。
 それでも、クラスの視線の質は変わらなかった。
「春とはいえ、なかなかの夢だな」
 荒木はそこから何も言わずに皆を席に促す。これからホームルームを始めるらしいと気づいた薫は何故突っ込まれなかったのか不思議がりながら自分の席を探す。
 一番後ろで窓際の席に、全ての下着が机の上に置かれていた。直感的に自分の席を悟る薫。クラスメイトが座わっていく中で立ったままでもいられず、その席に座る。
 窓の外で大きな木に咲いている桜が、薫の目にはとても綺麗に映った。
「さて、これから始まる三年間。君達の中に新たな思い出が――」
 荒木の声が遠ざかる。薫はこれから始まる三年間の初めの日に「変態」のレッテルが貼られること確信していた。
(なんでこんな事に)
 がくっと顔を下げた衝撃が薫に答えを導いたのか。アルを授かった時に琴音が神様に向けて言った言葉を思い出す。
『エキセントリックな日常を』
 微妙に、というよりも結構な割合で違ったが、すでに薫には問題ではない。
「これが、エキセントリック、なのか」
 額に汗をにじませながら、薫は今後辿るだろう学校生活に思いを馳せる。アルに虐待され琴音にはこき使われ、クラスでは『変態』と呼ばれる一年生。果たして二年生ではどうなるのか。
「はぁ」
「ため息吐くと幸せ逃げるアルヨ」
 いつの間にか隣にこそこそとやってきていたアルが、エセ中国語を交えながら薫に語る。その顔は満面の笑み。これから始まる生活が楽しくて仕方が無いという想いが滲み出してくるようだ。
「そうだな」
 薫は外を見る。先ほども見た桜。
 その木の枝上に乗っている三人の裸体へと、窓を開けて下着を投げつけた。

「では、明日から授業だから、忘れ物せずに来いよ。じゃ、解散!」

 こうして薫の高校生活が始まった。
 退屈しない日常が、アルを中心に繰り広げられていくのは、正に神のみぞ知る。
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