お子様はダイナマイト・プロローグ

「付き合って……くれないか?」
 杜若薫(かきつばたかおる)は脈動を続ける心臓を鷲掴みするように、胸部の中心に右手を当てた。胸板に遮られていても、自らの生命を保つポンプが、逆に生命維持を脅かすほどに動き続けていることが分かる。
 血の流れが速くなり、細胞が活性化。脳の眠っている部分が目を覚まし、薫には時の流れが緩やかに思えた。ああ、凍れる時の中。目の前にいる女性――最愛の女の子、白川琴音の口元の動きがはっきりくっきりぽっきり見える。
「うぅ〜そぉ〜つぅ〜かぁ〜なぁ〜いぃ〜でぇ〜」
「何で嘘!?」
 スローモーな光景が一瞬にして現実速度へと戻る。現実と剥離していた感覚が再び重なりあい、薫は琴音の不機嫌な顔に先ほどとは違う意味で鼓動を早めた。
 明らかに怒っている琴音の顔。そのフランス人形のように白い肌にうっすらと赤みが差し、弁護士の両親から受け継いだ利発さが存分に現れている切れ長の瞳が更に細められて、薫を品定めするように見ている。薫の言葉の真意を探るように、下から上から右から左から視線は薫を舐めまわした。
「な、何で嘘?」
「だって」
 琴音は小さ目のショルダーバッグから一冊の本を取り出して肩をぽんぽんと叩く。背表紙には『コンパクト六法』とあり、角が欠けている。
 それを欠けさせた原因である自分の頭を擦りながら、薫は一歩後ろに下がっていた。
 中学一年の頃から受け続けてきた六法の角。三年という年月は屈強な辞書の角という存在を否定するほどまでに長く、険しい。
 たった一歩。
 反復横飛び日本記録を持つ琴音の身体能力ならば、一歩の距離など一瞬にして詰められることを薫は理解している。だが、彼にしてみれば勇気を持って告白したのにこの仕打ちはどうだと頭を抱えたくもなるだろう。
 中学三年間、友達からスタートして何度も六法の角が頭部へとめり込み、アッシー兼メッシーとなりながらも、徐々にではあるが信頼関係を気づいてきた。友達の友達を挟み、友達を挟み、遂にはタイマンで話せるまで。
 だからこそ、高校に入る直前のこの日に呼び出しに応じてくれたのだと思っていた。
 その信頼は、自分だけのものだったのかと薫は青ざめる。
 だが、琴音はぱらぱらと六法をめくるだけ。
 それは琴音が次に発する言葉を模索している時の癖だった。主に「言っていいものかどうなのか」という類の発言をする際に、彼女はそうして気を落ち着かせるらしい。
 つまりは、自分の告白をどう断ろうと考えているのか! と、薫は身体まで震えだした。きっと死刑を待つ人間はこんな気持ちなのだろうと勝手な想像をしていたところで、琴音の口が開いた。
「今日って四月一日じゃない」
「……は?」
 全く想定外の言葉。前に注意を向けていたら後ろから冷たくて生臭い手が現れたというくらい、意図していなかった方向からの一撃。
 薫は何故か辺りを見回し、空を見上げる。綺麗な蒼に染まっていて、ジャンプすれば一気に成層圏まで届きそうな世界に心がうきうきする。舞い上がる気持ちを抑えるために薫は逆立ちをして、草原を視界に広げた。
 これから通うことになる高校の敷地内にある芝生。下見に行こうと誘い、やってきたこの場所で告白をするのが薫の作戦だった。全く別の視界が現れたことで、思考もまた別方向からの刺激へと対処する。
 琴音の靴を見ながら、薫は叫んでいた。
「エイプリルフールの嘘じゃないよ!」
 逆立ちの状態から腕の力だけで飛び上がり、両足で着地しようとして後ろに腹ばいで叩きつけられる。衝撃に咽ながら転がりつつも何とか体勢を立て直して立ち上がった。
「俺は本当に白川が好きなんだ! 付き合ってくれ!」
 両手を開き、前に突き出す。戯曲の主人公のように心の底から恋人を求める様を身体を惜しげなく使って表した。それを見るのは冷ややかな瞳。黒目のはずなのに、薫には海よりも深いブルーに思えた。深蒼の鏡に映る自分の顔。
(――顔?)
 そこで初めて、琴音がすぐ傍までやってきていることに薫は気づいた。
「いいわよ」
 シンプルな言葉。琴音のすらっとしたスタイルのよい体型と同じように無駄が一切ない言葉はに曲がることなく一直線に薫の心へと届いた。
「琴音!?」
「呼び捨て御免!」
 最小限の動きで薫へと踏み出し、琴音は六法を薫の顔へとめり込ませた。
 草の匂いを鼻腔の奥まで含ませつつ、薫はコロコロと転がっていく。実際にはそんな可愛い音ではなかったが、何故か琴音に六法で叩かれると効果音は可愛くなるのだ。薫の中では。
「付き合っていきなり呼び捨てなんて百年早いわよ」
「米寿以降じゃないと呼び捨て駄目ですか?」
 一見ボロボロだが特に停滞なく立ち上がり、尋ねる薫。それに対して琴音が口を開いたその時。
「おめでとう! 若人たちよ!」
 琴音の開かれた口から聞こえてきたのは、野太いバリトンボイスだった。しかも口の動きと声が合っていない。薫も驚いたが発した本人も驚いているようで、顔が引きつっている。
「お前達は世界で……ぁ”ん人目のカッポーだ!」
 なにやら肝心な部分をぼかしつつ紡がれる言葉。
 琴音の口を開き、中から出てきたのは小人サイズの老人だった。虎柄の布をまとう姿は、すでに昔に置き去りにされたような原始人ルック。教育テレビを見ても存在を確認できないはずだ。薫がそのルックを理解出来たのは、小学校の図書館にあった歴史漫画にまだ載っていたからだが。
 とまれ。そんな冷静な思考を展開していると、琴音は小人を指でつまむと適当に放り出した。中空を舞った小人は「ばいーん」と自分で効果音を発声し、一気に人間大になると薫と琴音の間に立つ。
 髭が口元を覆い、目は綺麗な円を描いていて、黒目には星が瞬いている。親の部屋にあった少女漫画にあるような瞳に違和感を覚えて、薫は冷や汗を流しつつ後ろへと下がる。しかし、薫の内心に気づくこともなく原始人は薫へと近づき、指を額へと突き刺した。
「ご褒美に! お前達の心の底から望むことを叶えてやろう! まずお前!」
「…………」
 薫の中にはいきなり現れて変なことを口走る原始人への不快感もあったが、その言葉には心に響く何かがあった。第一印象によって離れた心が、急激に引き寄せられていく。あたかもダイエット中に甘いものを食べたくなったり、試験勉強の合間に部屋掃除をしたくなったりするほどの求心力だった。
(なんだ、この全然分からないのに何故か信じてしまいそうな言葉の力は……)
 心の底から望む物。
 ぼんやりとしていた映像が、徐々にピントが合わさり、心の中に実像が生まれる。原始人の言葉に、薫の奥底から望みが浮かび上がった。
 あとはそれを外へと映し出すだけ。
 右手をピンっと天高く掲げ、原始人へと申告した。
「子供が欲しいです!」
 満足げに頷く薫。その横面を瞬間移動と同時に張り倒す琴音。そんなやり取りを尻目に原始人は両手を高く掲げて瞼を閉じた。腰を左右にくねらせ、その速度を徐々に上げていく。その振りが光速に達し、ダメージから回復して立ち上がった薫の目に映らなくなった時にそれは起こった。
「出でよ! 杜若薫と白川琴音の子供!」
 原始人から光の柱が立ち昇る。音はしないが衝撃が薫と琴音の髪を揺らしていく光は天を貫き、瞬きをする間に消えていった。しばらくその軌跡を眺めていた薫は、右手を引っ張る小さな手を感じて視線を向ける。

 赤いワンピースを着た女の子が、そこにいた。

 年齢は十歳ほど。肩口まである黒い髪の毛はシャンプーのCMで見るようなさらさらの質感を持ち、瞳はどこか琴音に似ている。穢れを知らない瞳が薫をじっと見つめている。
「これが……俺達の子供?」
 薫は恐る恐る膝を下ろし、子供の目線と自分それを合わせる。しっかりと見つめてくる、理知的な瞳。それはどこか琴音を薫に思い出させる。ミニチュア琴音。それは薫の胸に愛しさと切なさを同時に与え、腕を伸ばさせた。
「大好きだー! ぼぐぁああ!?」
 抱きしめようと子供の背中へと手を伸ばした瞬間、薫の胸部に伸びたのは子供の拳だった。両手をしっかりと組んで、突進してきた薫へと交差法になるよう打ち込む。その威力は凄まじく、薫はコロコロと転がっていった。
「おかあさーん」
 戦士の瞳で薫へと打撃を加えた子供が、琴音を見ると爽やかでかわいらしい笑顔を作り、仔猫が親猫を求める時のような声を発した。そのまま駆けていき、胸の中に収まる。
「可愛い……やっぱり私の子かしら」
「こと……い、いや、白川」
 赤ん坊がハイハイするように、薫はダメージによって力が抜ける身体を何とか二人の傍へと戻す。しかし、子供は琴音に夢中であり、琴音もまた子供をまんざら悪く思っていないようで薫に視線を戻さない。頭を撫でながら歌うように言葉を紡ぐ。
「貴方の名前は白川アルセルバリエルよ、これから」
「はい! お母様!」
 琴音はあっさりと得体の知れない名前を発し、それに対して何の問題もないように呼応する娘。十歳児を抱き上げて頬擦りする琴音の姿は、大きめのぬいぐるみを抱きしめる少女のようで、見るものの心をくすぐる。

 今ここに、白川アルセルバリエルという名の少女が誕生した――

「何そのネーミングセンスは!? そして俺達の子供だから杜若が苗字じゃないの!」
 身体の痛みも何のその。薫は腕立て伏せの状態から飛び上がるようにして立つ。自分の言っていることは正論だと思っていた薫だが、琴音はアルセルバリエルを下ろすとコンパクト六法を開いて言った。
「夫婦の苗字は別に夫のものじゃなくてもいいのよ」
「そ、そうなの?」
 動揺する薫の眼前に六法を突きつける琴音。広げられたページの一部分には確かにそんなことが書かれている。結婚する場合はどちらかの性を名乗ればいいらしい。だが知らなかった事実を覚えたことよりも、六法に書かれた文字をほとんど網羅している蛍光ペンの色に薫は驚いていた。
 その軌跡は、琴音がどれだけ真剣に法律の勉強をしてきたのかを如実に物語っていた。けして、親の期待に応えるためにその道を選んだのではないという証だった。
(ぬぅ。ここまで見せ付けられると文句言えない……)
 例え名前がアルセルバリエルだとしても、六法を突きつけている琴音の、雄雄しき姿は太陽の光を浴びて輝いていた。
「分かったよ……でも、アルセルバリエルって長いからアルじゃ駄目?」
「アル? いいわよ」
 不自然なくらいあっさりと了承した琴音に、薫は逆に不安になる。しかし、琴音は薫から黙って立っていた原始人へと視線を向けて、口を開く。
「私の願いを聞いてもらっていい?」
「待っていたぞ若人」
 原始人は再び腰を振る体勢を作る。作るに飽き足らず、すでに振り出していた。琴音は腰ではなく顔から目をそらさずに言った。
「高校の間、エキサイトした生活を送らせて」
「……分かった」
 原始人は腰を振りながら、今度は光と共に空へと昇っていった。その間にエコーがかかっており、空気を震わせているというよりも二人の鼓膜を直接刺激しているようだった。
『これから三年間。おぬしらの前途に幸あれ――』
 光の柱が一際輝き、爆発する。またしても起こる無音の衝撃と溢れる光に瞼を通して目が焼ける。だが、消えるのも一瞬であり、すぐに視界は回復する。
 どこにも原始人はいない。だが、アルは琴音の傍に存在している。一体何者なのか結局分からなかったが、薫はこれからの学校生活が全く違う物になる予感がしていた。
「本当、なんなんだろうな」
 自然と疑問が口から出るが、琴音は特に不思議がる様子もなく、アルの手を引いて歩き出す。
「さあ。でも……楽しくなりそうじゃない?」
 そう言って髪をかきあげる琴音の姿が、薫には今まで以上に可愛らしく見えた。

 これから始まる学園生活が薫と琴音、そしてアルの中に何を残すのかは、神のみぞ知る。
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