あたしは走っていた。何故なら目の前に明人の背中があるから。

 なんでこうやって走っているのか分からなかったけど、ただ、走らなくちゃいけない気

がしてた。足を止めたら何かとてつもなく嫌なことが起こる気がしたから。

「立川〜待ってくれよ〜」

 呼ぶ声に走りながら後ろを振り向くと大勢の男の人が見えた。言ったのは一人だけらし

い。なんだなんだ? あたしは何かしたのか?

 そりゃあ確かに思い当たるふしはあるけどさ、七時から見たいドラマがあるから早めに

宿題終わらせようと掃除当番代わってもらったからってそんなに怒らないでよ。

 と、思ってる間にあたしは転んでいた。ほんの一瞬、気を抜いただけだったのに見えな

い地面に顔がぶつかる。起き上がろうとしたけれど、両手足に力がかかって動けない。

「掃除当番〜掃除当番〜」

「宿題見せろ〜」

 言ってることはしょうもないのに、両手足を拘束する力は尋常じゃない。そしてあたし

が着ていた服――どうやら制服らしい――が引っ張られて破ける音がする。

 初めて、あたしは恐怖を感じた。

「いやぁあ!」

 引き千切られるシャツに脱がされるスカート。露わになるあたしの体――

 怖い、助けて、明人ぉお!

「あべしっ!?」

 急にあたしを拘束する力が無くなって、あたしはすぐに起き上がって周りを見た。目の

前には見覚えのある背中。そして周囲には顔面を血に染めてクラスメイトが沈んでいた。

 そこから徐々に皆が暗闇に消えていく。残ったのはあたしと明人の二人だけだった。

「あきと……」

「よかった、美緒」

 明人の顔はあたしが覚えているものよりも数十倍かっこよかった。全身から美形オーラ

が滲み出ていて、暗闇の中で光ってる。思わず顔を赤くして下を向いたら、自分の姿が裸

同然な事に気付いて、今度は横を向く。

「君を守る騎士だからね、僕は」

 明人はあたしの顎を軽く持って自分の唇に近づけた。そのままあたしの唇と接触する。

 とたんに侵入してくる明人の舌はあたしの全てを蹂躙するかのようにかき乱していく。

あたしは脳まで溶けたようにぼうっとしてきて、何も考えられなくなって……ただ、気持

ちよさに体が反応する。

「君が、欲しい」

「……あたしも……ほしい」

 離されたお互いの唇を一本の透明な橋が繋いでる。凄く恥ずかしいけど……気持ちよさ

のほうが優先してて、もっと欲しいと思う。

「明人」

「美緒」

 また明人の顔が近づいてきて、あたしは目を閉じた――



* * * * *
「という夢を見たわけなのよ」 「美緒。死を覚悟したことはある?」  沙織の右手があたしの頭を掴んでいるのを見て、背筋が寒くなった。いくら空手の黒帯 だからって、人の頭を握りつぶせるほどの握力は無いと思うけど……どこかからかミシミ シと何かが軋む音が聞こえてくる。 「ふふふ。人間の頭を割ったらとてもグロいんですってよ〜。とてもこんな公共の場で言 えるような言語では言い表せない物が出てくるそうよ〜。でもあたしは全人類を代表して 罪を犯そうと思うのよ。天魔を退治するために」  おいおい、あたしは天魔かよ。ていうか天魔って何よ? 悪魔よりも悪そうじゃない。 あたしは悪の元凶か? 魔王か? 納得いかん! 「だ、だいたい沙織が変な夢見たって言ったら聞いてくれるって言ったんじゃないの! そ、それで公害を撒き散らすなんて横暴よ!」 「知ってる? 鉄の棒で叩いて曲がるのは威力が足りないからなの。威力充分だと曲がる でも折れるでもなくて、砕け散るのよ」  いつの間にか頭から手が外れていると思ったら後ろの掃除道具ロッカーからモップ持ち 出してるし。ていうか、モップの柄は鉄じゃないし。 「とまあ、こんな冗談は置いておいて」  沙織はそのままロッカーにモップを戻した。あたしが安堵すると同時に周りにも安堵の 空気が満ちるのを感じる。周りを見るとまだ昼食を食べていたクラスメイトが息をついて 視線を逸らすのが見えた。そりゃあいきなり殺人宣言なんてするんだもん。驚くに決まっ てる。 「つまりはね、美緒。物には限度があるわけよ」 「沙織が言うととても説得力があるよね」 「ありがと」  全く自覚無く言ってくる沙織が実は好きだ。小学校からこんな感じで面白い。あたしを 死ぬほど驚かしても最後の一線は絶対越えないし……って当たり前だけど。 「確かに、あたしはあんたが少し青い顔してるからあの日かと思って聞いて、変な夢見た からだと言うことで心配して、言って楽になるなら言ってと言ったわよ」 「今、言ってって三回くらい言ったね」 「……でだ。あなたは話してくれたね。それで、あなたに何が残った?」  あたしはふと外を見た。窓側で教室の一番後ろって言うのは昼休みに密談するにはもっ てこいで、眺めもいい感じ。校庭で制服のままサッカーをしている男子を見ながら、考え ていたことを発表した。 「うん。気持ちよかった」 「つまりあなたは結局のろけたかったわけね?」 「いやちがうちがうよぜんぜんちがうよ!」  再び手が――今度は両手が頭に迫るのを見てあたしは必死に否定する。片手であれだけ のプレッシャーなのに、両手だったらどうなるのか……やばい、トイレ行きたくなってき たよ……さっき、あんなに怖がらせられたから! 「ま、いいわ。つまりは欲求不満なんじゃない?」 「……欲求不満?」  どうやら沙織は落ち着いてくれたようで、両手を組んで椅子に深く座った。これでいつ でも逃げられそう。 「そ。夢の中で襲われて、それを永沢君に助けられて、そしてそのまま十八禁行為に及ぶ というわけで……」 「そう言う言い方って面白いよね――いたっ!?」  目にも止まらぬ速さであたしの顔の前に現れた右手。そして放たれるデコピン。完全に 不意打ちだったから脳震盪になったかのようい頭がくらくらする……。 「もう三ヶ月だっけ? 四月に美緒が告白して。平均期間がどれくらいか分からないけど もうそろそろキス以上に進んでもいいんじゃない? キスはしてるんでしょ?」 「うん。つい先日に済ませました。しかもいきなりピンを」 「ピンってことはディープ? 永沢君も大胆だね」 「いつもは二枚目で、一緒にいるときは犬なんだけどね……」  明人はクラスの級長をやっててしっかり者で、空手の試合でも凄くかっこよくて好きに なったんだけど、一緒にいるときは犬みたいに可愛い。口癖の「もへぇ」なんて、最初聞 いた時はしばらくソファから立ち上がれなかったもんだ。  もちろん、そんなことを話しているのは沙織だけ。他の人に話したら明人が可哀想だし ねぇ。 「本当、想像できないけどね、永沢君。黙ってても行動してもかっこいくてファンクラブ あるんだよ? どうやら本当にファンという視点で見てるらしいから美緒にも嫌がらせは こないでしょう?」 「うん。でもこの前は靴に針が無い画鋲が入ってたよ。めちゃ中途半端」  沙織は苦笑いをしただけで何も言ってこなかった。少し会話が途切れたところであたし は思い出したことを口にする。 「そう言えばこの前、明人と一緒に寝た時さぁ」 「こんな所にハエがいたわ」  過ぎ去った風が髪を撫でていく。あ、またトイレ行きたくなったじゃない。いくらなん でもそんな漫画でやってるようなことしないでよ。  行きたいって言っても信じてもらえなさそうだから、早めに話を切り上げようとあたし は話し出した。右手をあたしの顔の横から戻している沙織に向かって言う。 「一緒に寝ると言っても本当、添い寝くらいだよ。明人、自分から全然こないんだもん。 ていうか大きい赤ちゃんみたいでさ、寝てるときにうにゅうにゅ言いながら胸に顔を埋め てくるの。可愛いよ〜」 「ほうほうそれで」  事情を知ってるだけに沙織は何も聞いてこない。まあ、あたしの親が仕事の関係でいな くて、家に一人で住んでるもんだからしようと思えばいくらでも恋人なことは出来る機会 はあるわけで。  沙織の額に浮かぶ怒りマークの数を数えながら、あたしは襲ってくる尿意と沙織からの 圧迫感に耐えつつ言葉を続ける。  ここまで来たら、面白がらせるしかない! 「そ、それで……この前、夜中に何か変な声がするから目を開けたら、明人が泣いてるん だ。泣きながら寝てるの。凄く可愛くてさ、思わず涙を口で吸っちゃった」 「ほうほうほうほうそれからそれから?」  何か、沙織の顔が近づいてきた気がするけど、気にしないようにして更に続ける! 「それで明人起きちゃってさ、とても嫌な夢を見たって言うからさ、どうしたの? って 聞いてあげたの。そしたらね――」 「それでそれで?」 「……明人言ったの。『肉まんの中に肉とアンが両方入ってた』って……」 「――」 「――」  会話が途切れる。そして、あたしは空間が途切れたようなよく分からない感覚に襲われ た。まるで、あたしがいる場所だけ何か切り離されてしまったかのような、変な感覚。  いつの間にか沙織は立ち上がっていて、あたしは遅れて立ち上がる。  恐る恐る、聞いてみた。 「面白かったでしょ? 変なことで泣くよね、あき、と……」  沙織の光る瞳に射竦められて、あたしは動けなかった。これは正しくは得物を狙う猟師 の目だ。あたしは何だろう? 白鳥だったらいいけどなぁ……。 「つまりあなたは結局のろけたかったわけね?」 「いやちがうちがうよぜんぜんちがうよ! 話せば分かる!!」 「問答無用! 民主政治は敗れ去ったのよ!!」  目から殺意の波動を迸らせて追ってくる沙織から逃げるあたしの姿を皆が怪訝そうに見 てるのが分かった。  あー、分かってるなら助けてよ!!  これが夢だったらいいのに〜! 何が悪かったんだろうな〜。 「待てー!」  待てと言われて待つ奴はいない! ということで追いかけっこは昼休みが終わるまで続 いたのでした……。 『01・了』


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