「ごめんなさい」
 その一言が言えなかった。
 一言、そう言うだけであの娘は許してくれたに違いないのに。
 わたしが余計な意地を張って謝らなかったから、こうやって後悔してる。
 今なら言えるのに。
 言いたいのに。
 言わずにはいられないのに。
 言わなくてはいけない相手は、もういない。
 どこにも、いない――――――
 悲しかった。


 『残雪』



 駅から一歩出た時、わたしはまるで夢を見ているような気分だった。
 5年前と全く変わらない街並。
 降りしきる雪は何も覆い隠してはいない。
 少なくとも、過去の残影は雪程度では消えはしないのだ。
 だから、わたしはこの街へは来なかった。
 辛い現実から逃げるために。
 まだ子供だったわたしには、この街の思い出は辛すぎた。
「雪、積もってるぞ。藍那(あいな)」
「……京ちゃん」
 かけられた声に振り返らずに反応する。
 見なくても分かる。
「5年ぶり……か。ここに来るの」
「うん……」
 しばらくわたし達は黙って立っていた。
 言葉が見つからなかった。
 ふと視線を移すと、肩に雪が積もっていた。
 きっと頭もだろう。
 一瞬、このまま雪の中に融けていってしまいそうな気になる。
 そうなればどれだけいいだろうか。
 少なくとも『あの娘の眠る場所』へ、少しでも近づく事は出来るだろう……。
「行こう」
「うん」
 わたし達は歩き出した。
 目指す場所はただ一つ……。


 そこは一度も訪れた事はない場所だったが、いつまでも変わる事はないのだろう。
 並ぶ墓石群。
 雪が積もった簡素な道を歩いていくとその場所があった。
 周りの墓石と比べるとかなりの大きさになるその石に刻まれている名前を、わたしは目で追っていく。
 そしてある名前のところでわたしの目は止まった。

 津村瑞希

 5年前、彼女は死んだ。
 家族旅行のために乗った飛行機が墜落したのだ。
 乗客は全員死亡。
 ここ数年で、最大の惨事だったとテレビで放映された。
 彼女の叔父が資産家だったようで、このような豪華な墓石が墓所に立てられる事になった。
 そんな事、何も意味が無いのに。
「相変わらず、見事なもんだ」
 京ちゃんはしみじみとそう言う。毎年この場所を訪れているのだろう。
 従兄弟の京ちゃんと休みを利用して遊びにきていたわたしと瑞希。
 昔から三人でよく遊んでいた。
 多分、京ちゃんと瑞希は付き合っていたんだと思う。
 結局聞けなかったけど……。
「どうして、今頃来た?」
 その口調の変化に気付いた時、わたしは背中に悪寒が走った。
 京ちゃんは怒っているのだ。今まで何の音沙汰も無かったわたしに。
 最もいなくてはならない瞬間にいなかったわたしに。
 無理も無い。わたしは……。
「今まで何も連絡しないで。どうして今頃来た? どうして葬式にも出てやらなかった!」
「……わたしは……」
 京ちゃんがわたしの肩を掴んでくる。
 イタイ。
 とても痛かった。
 でも、京ちゃんはもっと痛かったはずだ。
 そして、今も痛み続けている。
 彼の心は―――――――
 京ちゃんの中の苦しみ。それは根深く心の底に沈む、春先の残雪。
 そして暖かい光が雪を溶かす事は、今のままでは多分無い……。
「わたし、ね」
 わたしが言おうとしている事が大事な事だと察して、京ちゃんは肩から手を離した。
 わたしは続ける。
「わたし、逃げてたんだ。あの娘から」
 わたしは今まで心の奥底に残っていた後悔を。
 わたしの中の残雪を、ゆっくりと話し始めた――――


『瑞希ったら、ひどい!』
 5年前のあの日。
 わたしは瑞希と喧嘩した。
 いや、喧嘩とはいえなかった。
 何故ならわたしだけが一方的に瑞希を責めていたからだ。
 最初は些細な事からだったはずだ。それがなんなのかはもう覚えてはいない。
 一体何がひどいのか?
 何が悪かったのか?
 それさえももう曖昧で、今、覚えているのは――今、心に残っているのは一つだけ。
『瑞希なんて死んじゃえ!』
 それは劣等感だった。
 瑞希は本当に何でもできた。
 運動はもちろん料理も。
 京ちゃんと三人で遠出をした時も、瑞希のお弁当は格別においしかった。
 わたしが、京ちゃんが笑う。
 それを見て瑞希も微笑む。
 わたしは三人の輪の中でその光景を見て、少しだけ嫉妬した。
 瑞希は京ちゃんの笑顔を見ていた。
 京ちゃんも瑞希の笑顔を見ていた。
 従兄弟として始めて京ちゃんに出会ってからずっと好きだった。
 最初はわたしだけの笑顔だったのに。
 京ちゃんは瑞希に取られてしまう……。
 5年前のあの日、瑞希の指に指輪がはめられていた。
『京ちゃんなの? 相手……』
『……』
 わたしの口調から全てを理解したんだろう。
 瑞希は何も言わなかった。それがわたしを突き動かした。


 わたしがいくら言っても瑞希は言い返さなかった。
 きっとわたしの思いを知っていたんだ。
 だから、何か言ってもわたしをより傷つけるだけだと思って何も言わなかったんだ。
 でもそれを理解できるほどあの時のわたしは落ち着いてはいなかった。
 結局、わたしはその後すぐに帰った。
 仲直りをしないまま。
 それが永遠の別れになるとも知らないで……。


 いつのまにかわたしの目から涙が出ていた。
「あの娘が死んで……それは私のせいかもしれないって思った。
 わたしがあの娘に『死んじゃえ』って言ったから死んだんじゃないかって。
 もちろん、そんな事あるわけ無いけど、それでもわたしは怖かった。
 認めたくなかった。来年も遊びに行けば京ちゃんと二人で遊んでくれるって信じたかった。
 でも行ったら、全てが崩れてしまいそうな気がして……」
 力が抜ける。
 わたしは雪道に崩れ落ちた。
 雪に埋まった部分から伝わってくる雪の冷たさ。
 うずくまったわたしの肩に添えられる手。
 とても暖かかった。京ちゃんの、手……?
「え!」
 それは京ちゃんの手の感触ではなかった。実際触れたことは数少なかったがそれでも、何かが違った。
 慌てて顔を上げる。
 ――信じられなかった。
 信じられない光景がわたしの瞳に映っていた。
「わたしこそ、ごめんなさい」
 そこにいたのは瑞希だった。
 正真正銘。見間違えるはずもない。
 あの時の、瑞希だった。
「ど、どうし……」
「藍那はわたしの事でずいぶんと苦しんでいたのね。わたし達と一緒に過ごした日々も同時に苦痛に変わってしまうまでに」
「……」
 わたしは何も言えなかった。どういう事だろうとは何故かもう思わなかった。
 目の前に瑞希がいる。
 それだけが、今ここにある事実なのだと思った。
「瑞希……」
 言葉が詰まる。
 もう一度出会えたなら言いたいと思っていた言葉の羅列。
 それが目の前にして何も言えなくなる。
 わたしは精一杯の思いを込めて、最低限の言葉を発した。
 それしか、できなかった。
「……ごめんなさい」
 言えなかった言葉。
「わたし、あなたに嫉妬してただけなの。本当は、あなたの事全然嫌いじゃないの。大好きなの!」
 言いたかった言葉。
「だから、だから……」
「うん。大丈夫だよ」
 瑞希がわたしの目じりに溜まった涙を拭う。
「気にしてないよ。謝ってくれたし、許してあげる」
 ――言って欲しかった言葉。
 わたしの目からはとめどなく涙が流れ出していた。
 恥も何も無くわたしはその場に泣き崩れた。額を雪に押し付けて。
 泣き声が五月蝿いのにも構わずに。
「ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 構わずに――
 いつのまにか、視界が暗くなる。
 わたしは――


「――な、藍那」
「……?」
 わたしは自分を揺さぶっている手があるのを自覚した。京ちゃんだ。
 何故わたしは揺らされているのか?
 どうしてわたしは地面に額を押し付けているのか?
「……京ちゃん、わたし……?」
「驚いたぞ。いきなり倒れるんだから」
 京ちゃんはそう言ってわたしを立たせてくれた。それから気まずそうにわたしを見る。
「悪かったな。藍那も瑞希の事で苦しんでたんだもんな。俺だけが苦しんだって思っちゃいけないんだよな」
「???」
 京ちゃんの言っている事がいまいち理解できない。
「あの、京ちゃん?」
「お前が気、失ったからさ。俺が追い詰めたんじゃないかって。どうして葬式来なかったんだって」
 やっと思い出した。
 確か京ちゃんに今まで墓参りに来なかった理由を聞かれて、そして……。
(瑞希……)
 確かに記憶にある。わたしは瑞希に会った。
 でもそれは今の京ちゃんの話を聞いているとどうやら夢だったようだ。
 白昼夢と言えるものらしい。
「もういいよ、京ちゃん。さあ、手を合わせて帰ろう」
「あ、ああ」
 京ちゃんの驚きの内容はわかった。
 わたしがさっきまでとは多分、違うからだ。
 目の前の墓を見る。
 あれが夢だろうと現実だろうと、わたしはもう良かった。
 少なくとも、ちゃんと謝る事は出来た。
 それはわたしにとってなによりも喜ぶべき事だった。
 わたしの時間は止まっていた。言いたかった言葉を言えなかったその時に。
 たとえ自分の都合のいい妄想でも、謝る事が出来たおかげでわたしは先に進める。
 そうすればいつか本当に罪滅ぼしが出来るかもしれない……。
「来年も、また来るからね」
 わたしは最後にそう言ってその場から離れていった。
 わたしの中の残雪は徐々にだが溶け出していくだろう。
 たとえ何年かかろうとも。  きっと――――。

『約束よ』

 どこかから、そう聞こえたような気がした。



『残雪』〜end〜



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 あとがき
 どうも、紅月赤哉です。
 冬現代ファンタジー。夏の「Enfance finie」に続いての試みです。
 本当はもっと長くなる予定だったのですが力尽きました(汗)
 感想、くれれば嬉しいです。




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