『彼が来た道、私が行く道』





 死んだ彼の部屋を最初に整理させてほしいと申し出たのは、同棲に近い生活をしていた

ことを彼の両親に分からせてしまっただろう。何度も逢ったこともあるし、食事の席にも

同席させてもらったりしたけれど、週に何日も彼の部屋を生活の基盤とする所まで進展し

ている関係を想像していたかは分からない。

 私と彼が大学四年で、卒業後の仕事も決まっていたから、その行為の先に何があるのか

は二人にも理解出来ただろう。あと半年もすれば、その行為が一生続く物へと変化しても

おかしくなかった。

 それだけに視線を受けるのが辛かった。

 本来なら遺品の整理を真っ先にしたかったはずだ。たとえ彼の死を受け入れるのに時間

がかかっても。

 彼――陽一が両親に沢山の愛情を注いでもらっていたことは、彼と付き合った私にもよ

く伝わってきていたし、お葬式での彼等の泣き崩れ様でも充分理解できた。

 周りがひそひそと哀れみの言葉を呟く中で、私は二人に駆け寄る事が出来なかった。

 私自身、涙を堪える事で精一杯だったから。

 そして、彼の両親に必要な物は哀れみの言葉なんかじゃなかったから、それ以外の物を

与える事が出来ない私は、彼の両親の所に向かう足を持たなかった。

 でも、実際に彼の部屋に来てはみても、するのは自分の物を持ち帰るだけだった。見回

してみると、意外と整理されている。いつもはあまり掃除をしないくせに、家を空ける直

前はちゃんと掃除していた。

『普段は埃に慣れてるからいいんだよ。でも久しぶりに帰ってきて部屋が埃まみれだった

ら嫌だろうが』

 私にはあまり理解出来ない思考だけど、彼の中ではそれが普通だったらしい。

 車に撥ねられて死んだ日からサークルの合宿だったから、帰るまでの三日間を考えて部

屋を整理していったんだ。四年生でほとんど参加する意味はないのに、楽しそうに合宿の

話をしていたのを覚えている。

 部屋は彼の帰りを今か今かと待ち続けていた。

 でも、彼は帰ることは無い。

 私はバッグに入れてきたビニール袋をいくつか取り出して、自分の物を整理し始めた。

 半同棲と言っても週に四日ここに居るくらいだから、そんなに多く自分の物は置いてな

い。よく使う化粧品は少しかさばったけれど、鞄の中に持ち運んでいたから、部屋にある

のはせいぜい歯ブラシ、自分用のコップ、お茶碗、箸、スプーン、私が貸した料理包丁、

そしてお気に入りの枕、パジャマくらい。

 それらは私の分身だった。

 部屋に残していた分身たちを一つ一つを無造作に袋に入れる。

 包丁はちゃんと新聞紙で包んで入れる。

 枕は手に持って帰るしかないだろう。何となく間抜けに見えるかもしれない。

 コップとお茶碗が袋の中でお互いにぶつかり合って音を立てていた。

 荒っぽく扱えば割れてしまうのかもしれないけど、そんなのは気にしない。

 どうせ、もう使うことは無いんだから。

 自分の物を袋に入れ終えて口を縛る。あまり動かなかったのに、何故か疲れた。

 この部屋に居ると体が重い。当たり前だけど、彼の死を気にしているんだろうな……。

 やることはこれで終わった。袋を持って立ち上がり、また部屋を見回す。

 自分の物が無い事を確認すると、初めてこの部屋に自分が居た証拠が意外と少ない事に

気付いた。

 私が彼とこの部屋にいたという証拠は、このビニール袋の中に詰まってる。

「少ないな……」

 理由は簡単だ。

 部屋は彼ではないからだ。

 私の存在は、陽一の中に刻まれていたからだ。

 だから、部屋にはほとんど残っていないんだ。

 陽一が居なくなってしまった今、私が彼と共に居たという眼に見える証拠は、手に下げ

られる袋の中に詰まってしまうほど微々たる物だったんだ。

「――陽一」

 袋が自然に手から離れて、床に落ちた。ガシャンとコップかお茶碗が割れる音が聞こえ

たけど、どうでもよかった。声を上げて泣きたかったけど、泣けなかった。

 陽一の部屋で泣いたら、何か大切な物を失ってしまう気がしたから。

 気を紛らわせるために何かをしないといけない。時間はまだたっぷりあるし、彼の両親

が部屋を整理する前に少しでもやっておこう。

 そう決めても、まだ体は動かない。込み上げる悲しさも残ってる。そこで目に付いたの

は彼のパソコンだった。

 デスクトップは場所を取るからとノートパソコンを使っていた陽一。その前にうっすら

と彼が座っているように見えて、私は吸い寄せられるようにそこへ座り、ノートパソコン

を開いた。

 少しの間、機動音が鳴って、ディスプレイにアイコンが沢山映し出される。特に何も意

識しないでふらふらと見ていたら、一つのアイコンが眼に飛び込んできた。



『奏の部屋』



 アイコンのタイトルはそう書かれている。ピンとくるものがあって、私は手を震わせな

がらクリックしてみる。するとインターネットに繋がった。どうやらまだプロバイダとの

契約は切れていないみたいだ。

 画面に映し出されたのは大きく『奏の部屋』という文字。その下にカウンターがある。

 少し間が空いて、順に自己紹介、日記、小説、掲示板、リンクと書かれている。壁紙は

丸い雪の画像だった。

 私自身もネットサーフィンはするけど、ここまでシンプルなのは初心者が作るホームペ

ージくらいしか見た事が無かった。でもカウンターは既に八万を回っている。

「そう言えば小説書くの好きだったね」

 すぐ傍で陽一が見ているような気がして、呟いた。前に彼が何かの賞に応募しようと印

刷した小説を、少しだけ読ませてもらったことがある。

 その時は恥ずかしがった陽一が小説を取り上げてしまって途中までしか読めなかった。

 ディスプレイに置いてあるってことは、やっぱり彼のサイトなんだろうか。

 自己紹介を見てみると、誕生日から趣味まで詳しく書いてある。やっぱり陽一のサイト

に間違いない。

 ここには私が知らない陽一がいた。

 秋篠奏(あきしのそう)というペンネームのオンライン作家が。

 そう言えば、賞に応募しようという時も、ペンネームは教えてはもらえなかった。

 でも、その理由は今、目の前にある。

(ごめんね、陽一)

 心の中で陽一に謝りながら、本人確認のために日記を読んでみる。陽一はまめに毎日更

新をしていたようで、その日にあった面白い事や悲しい事を書いている。そこには明らか

に私とのデートの事も書かれていた。

「――」

 収まっていた感情が急に噴出してくる。

 分かっていた。

 分かっていたのに、見てしまった。

 陽一と確認するためだなんて口実をつけて、私は結局、彼をまだ生きていると思いたい

だけだったんだ。

 この部屋で泣いたら、彼が死んだ事を受け入れてしまって、もう思い出すことも辛くて

耐え切れないような気がしていたんだ。

 このサイトには彼と私が過ごした過去が残ってる。

 楽しかった事や、悲しかった事。

 大喧嘩して別れそうになったことや、初めて二人で旅行した事まで書かれている。

 文字に即されるように、想い出が広がった。

 しばらく衝動が収まるまで、私は口に手を当てて、嗚咽が洩れないようにしていた。よ

うやく落ち着いて息を吸うと、頬に液体が流れる感触がある。どうやら少しだけ涙が出た

らしい。

 指で軽く拭き取ると感触は消えた。そして、拭い去った物は涙だけじゃなかった。

 床に置いた袋の中から、新聞紙で包んだ包丁を取り出す。丁寧に包装を取って行くと、

そこにある包丁。

『これ、よく切れるんだよ』

 陽一にそう言って渡した包丁。よく切れるなら私も切ってほしい。

 命と、彼への想いを。

 左手に包丁を当ててみるとひんやりとした感触に戸惑った。包丁ってこんなに冷たかっ

たかな? それとも、やっぱり死ぬ事への恐怖なんだろうか。

 私は包丁をマウスパッドの隣に置いて、日記を読む事を再開した。

 もうどうでもよかった。死ぬ事も生きる事も。日記を読み終えて死にたいんだったら死

のう。死にたくなかったら死なない。それでいい。

 生きる屍でいい。

 もう何も考えたくなかった。



* * * * *
 私が彼の告白を受けた時の日記を読み終えて、私は画面から目を離した。いつの間にか 目を思い切り近づけて見ていたから、目が痛い。  彼の過去は私の過去だった。そして全てを見終えた時に感じた物は、脱力感だった。  死ぬ気さえ起きなくなる。  もう彼を現実で感じる事は出来ないんだ。新しい愛が見つかれば、もう少しだけ元気に なるんだろうけど。  陽一と過ごした過去。  陽一が居ない今。  そして、陽一を置いて進まなければいけない未来。  そんなもの、考えられない。 「……陽一……私、もう駄目かも」  日記を読み終えると時間は三時間ほど経っていた。朝十時頃にここに来て、すでに午後 一時過ぎ。眠気が来て頭が揺れる。  そのままパソコンの電源を切ってもよかった。でも、ふと思い立って掲示板のほうを見 てみる。葬式の際には沢山の友達が陽一のために泣いてくれた。ネット上の人々は泣いて くれるだろうか? 彼の死に。  それほどの交流を、陽一はしていたのか気になった。  掲示板を見て、私は驚きを隠せなかった。  一番上の記事は昨日から今日に変わる直前。その前には六件ほど違う人からの書き込み があった。  日記に対する反応や、作品への感想。  そのどれもが、彼への暖かい想いを伝えていた。 『奏さんの作品はとても綺麗で、読んでいて幸せな感じになります』 『感動しました。これからも頑張ってください』  陽一が書いた小説に対する感想。  陽一の書く小説は確かに素人が書くものだけれど、いろんな人達の中に何かを残してい たんだ。  私が感じる想いは、私が勝手にそう想っているだけかもしれない。でも、それでも、掲 示板の文字には心がある。  そう思えた。 「……う……うう……」  自然と涙が零れる。嗚咽が止まらない。  陽一は、ここでもこんなにも愛されていたんだ。  その人が、もうこの世には居ない。 「――あぁあああ!! うぁわあああ!!」  もう抑えることなんて出来ない。悲しさを涙と絶叫に乗せて、私は全てが流されるのを 待った。きっと隣の部屋の住人は不思議に、そしてうるさく思っているに違いない。  でもしょうがないじゃない。  彼が死んでからずっと悲しさを耐えてきたんだから。我慢してほしい。  喉も枯れて、目も涙を流しすぎて腫れて痛くなる。それでもしばらくの間泣いて、よう やく落ち着いてきた。  私はまだしゃくりあげていたけれども、涙を拭いて包丁を持った。  彼が居ない世界で生きていけない。思い切り悲しんだし、もう悔いはない……はず。  その時、ふと画面に目が向いて一つの言葉を見つけた。 『これからもこんな作品を書き続けてくださいね』  その言葉はもう叶えられる事は無いんだ。陽一はもう小説を書くことは無い。このサイ トはどうやら契約してるプロバイダのサーバーみたいだし、契約が切れれば自然と消滅す る。もう公開されないことを、サイトに来ている人達は最後まで気付かないんだ。  もう『秋篠奏』というオンライン作家はいないということに気付かないんだ。  伝えたい。伝えてから、死にたかった。  でも私がここに書き込んでも荒らしとしか思われないだろう。  私に出来る事は、もう無い……。  本当に、無いの?  急に彼の小説を読む事を思いついた。これだけ人を感動させている話とはどんな物なん だろう? 短編のページを開いて、スクロールさせていく。沢山並ぶ作品の中から一つを 選んで読み始めた。  その話は恋人を殺された男が犯人を探して街を彷徨(さまよ)い歩き、いつの間にかそ の恋人との想い出の場所ばかりを辿っていく。そして最後に恋人の幽霊に出会って、未来 に生きてほしいと言われて幕を閉じていた。  男のその後は書かれていない。  でも、何か少しだけ前向きになれたような気がする。  そんな話だった。  なんて奇妙な偶然なんだろう。  この話は今、私がやっていることと同じだ。彼の思い出をネット上の日記を読む事で思 い出して、陽一が書いた小説を読んで彼のしてきたことを確かめてる。  最後に幽霊が出てくれば完璧なのに……。  私は思わず周りを見回した。でも陽一の部屋には視界を遮られるものなんてない。彼の 幽霊はどこにもいない。小説の世界は現実に起こらない。この話も、彼の創作だろう。  あとがきへのリンクがあったので見てみると、そこには陽一がこの話を作る際の苦労話 や、よかった場面とかが書かれてる。そして最後には一文。 『これからももっと人の心に何かを残す小説を書いていきたい』  さっきまでの私と、今の私。  明らかに、心の中には違う物が生まれていた。  私はネットを切断して、陽一の小説ファイルを探した。それはすぐに見つかって、中を 見てみると今まで書いた全ての小説が入っている。プリンターを起動させてファイルを開 き、余っている紙に小説を印刷していく。  私は決めていた。  小説を書いてみようと。  陽一のように、人の中に何かを残せるような小説を書こうと。  このまま彼の意志が途絶えてしまうのは耐えられない。  そうだ。  未来には陽一を置いていかなければいけないって誰が決めた?  未来に陽一も連れて行こう。  彼はもう自分の足で歩く事は出来ないけれど、私が彼の想いを継ぐことで一緒に未来を 歩いていこう。  陽一も、私と一緒に小説を書いていてくれたのだから。  短編を全部印刷し終えて、私はパソコンを消した。立ち上がって背伸びをするとクラッ とくる。いきなり立ち上がったから立ちくらみだろう。首を何度か回してから用意をして 部屋を出ようと歩き出す。  そこでまだ回収していない物を思い出した。どうして忘れていたんだろう。 「忘れるところだった……」  私はそのまま本が詰まった棚に向かった。棚と言っても私の腰より少し高いような小さ な棚だ。そこにある写真立てを取り上げる。  そこには二人で並んで笑っている写真があった。確か初めて二人で旅行した時に、同じ 旅行客に撮ってもらった物だ。裏返してみると、律儀に日付とコメントが書かれてる。 『○○年八月十九日。旅行先で奏(かなで)と』  さっきまでこの存在を忘れていた理由は、よく分からない。  悲しくて、彼の想い出と共に生きる自信がなくて、忘れようとしていたからかもしれな い。忘れたくないと思いつつ、忘れたいとも思っていた、矛盾した自分。  でも、今の私は少しだけ、前向きになれた気がした。  私は小説をプリントアウトした紙が入ってるバッグに写真立てを入れた。  玄関まで歩いて、部屋の中を振り返る。 「陽一。私は決めたよ。まだまだそうは思えないけど、いつか私も違う人と結婚すると思 う。でも、あなたのことは忘れない。あなたの想いは、私が引き継ぐから」  誰もいない部屋。でも、そこに陽一が立って笑っていてくれるような気がした。  だから胸を張って言える様に、頑張って生きていこうと思う。  私はゆっくりと陽一の部屋のドアを閉めた。これが彼の部屋に入る最後となった。 『完』
* * * * *
『初めまして! ネットを流れて辿り着きました、アキトと申します。開設されたばかり のようですね。でもいくつか短編を掲載されていたようなので、その中の一つ【彼が来た 道、私が行く道】を読ませていただきました。  文章としてはまだまだという感がありますが、奏さんの悲しみ、絶望、そして陽一の意 志を受け継いで小説を書くと決心するまでの感情の流れがとてもよく表現されていて、感 動しました。  これからも頑張ってください!』  掲示板に書かれた感想。  サイトを開設して初めての読者の感想は、やっぱり嬉しかった。陽一の小説を読んで書 き方は何とか分かったけど、いざ書こうとした時に何を書けばいいか分からなかった。  しばらく考えて、最初に思いついたのはノンフィクションをフィクションのようにして 書くというもの。  実際に、陽一もいくつか私との事を小説に書いていたし、まだオンライン作家としては 駆け出しの私には、オリジナリティがあって説得力のある話は書けなかった。 「これって私小説って言うのかしらね」  呟いて笑う。  私が感じた事を拙い文章でどこまで表現できるのかをやってみたかった。そして、陽一 がオンライン作家としてネット上に居た事を少しでも長い間、残しておきたかった。  ネットで本名をさらすのは少し抵抗感があったけれど、誰もそうは思わないはず。 「頑張るよ、陽一。天国で見守っててね」  三ヶ月ほどかけて、私はようやくオンライン作家の一歩を踏み出した。  もう少しで大学も卒業して仕事につくけど、忙しい中でも出来るだけ続けていきたいと 思う。陽一のように、人々の心に何かを残せる小説を書くために。  私は掲示板から出て、サイトトップを見た。まだサイトを作るための技術もよく分から なくて、タイトルの下にプロフィールや日記とか文字だけで作ってる。陽一はいつまでも そんな感じだったけれど、私はもう少しデザインもしっかりしたいな。  タイトルも今は仮に書いておく。 『陽菜(はるな)の部屋』  私は感想を貰ったからかとても嬉しい気持ちになりながら、デザインの勉強のためにサ イト探しに取り掛かった。 『彼が来た道、私が行く道・完』


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