ふと、目が覚めた。
 ベッドから起きて時計を見ると午前二時。
 俗に言う丑三つ時。
 普通なら気味が悪い時間帯ではあるが、俺にとっては神聖な時間帯だった。
 別に自分が異常な奴だから、というわけではない。
 夜の闇自体にはなんの力も無い事を知っているから。
 夜の闇は真の闇じゃない。
 夜の闇に、俺は心を落ち着かせる事が出来る。
 ベランダに出ると微かに風が吹いている。
 少々肌寒さを感じて俺は体を振るわせた。
 空には満月。
 雲が周りに一つもなく、ただぽっかりと浮かんでいる。
 ガラスのように透き通って見える月は、その明かりを惜しげもなく発散して、俺はその眩しさに目を細めた。
「やっぱり、月はいつまでも綺麗だな……」
 あの頃。
 まだ、皆が一緒だったあの頃。
 今と何も変わらずに、月はただ、そこに、あった。


 『月に願う』


 夜の校舎というのは静まり返っていて、不気味と言えば不気味だ。
 しかしこの学校には特に心霊スポットとしての噂も無いし、墓の上に立てられたわけでもない。
 恐れる要因がなければ、闇に包まれていても恐れる事は無い。
「瀬良。来たぞ〜」
 後ろからかけられた声に瀬良稔(みのり)は振りむいた。自分と同い年の男。
 少し眠そうに欠伸をして、口に手を当てている。
「重永さ、ゲームのやりすぎだぜ。受験勉強の時なら起きているの当たり前な時間じゃん」
 時刻は午前一時。
 少なくとも、風呂に入ってくつろいでいる時間ではある。
「終わった事に未練は無いのだ! もうすぐ大学生だし、残された余暇を満喫しなければな」
 重永茂は思い切り背伸びをして唸る。
 相変わらずの友人に稔は笑って歩き出した。
「おい、どこに行くんだよ。学校に用があるんじゃないのか?」
「違うよ。ちょっと付き合ってほしかっただけだ」
 そう言って歩き出す背中を茂はやれやれ、と言った感じで首を振り、ついていった。
「昔っからそうだよなー、お前。時々なんでこんな行動するの? とか思える事するし」
(そしてそれにいつもついてきてくれるお前も、変わらないよ)
 稔は声に出さずに、そう思う。幼稚園からの付き合いとはいえ、まだまだ茂の事は分からなかったが、自分の無茶についてきてくれるのはこの男だけだった。
 二人が歩いているのは通学路だった。
 こんな夜にはもちろん誰も歩いてはいない。
 自分達が歩いて高校へと通った、道。
 つい最近まで、歩いていた道はもうすでに使ってはいない。
「こんな坂道よく三年間も通ったよなぁ。上りは辛くて自転車押さなきゃいけないし、下りは下りで、危ないから自転車から下りて行け! とか言って先生達が坂にはりこんでいるし」
「そうだな」
 苦笑。
 それを不思議に思ったのか茂は横に並んで訊ねた。
「なんだよ。俺の周りで不満言ってなかったのお前だけだったのに、お前もやっぱ嫌だったのか」
「当たり前だろ? めんどくさいし、いちいち降りるの」
 稔の言葉に茂は大笑いした。坂の中腹から中空に声が吸い込まれる。
 市街からは少し離れた場所にあるからいいものの、普通ならば怒鳴られてもおかしくない。
 笑いが落ち着いてから、茂はあらためて訊ねる。
「でも、どうして俺達は夜の通学路を歩いてんだ?」
「……」
 稔は無言。
 そして、同じ無言でも、この雰囲気はこれから何かを話し始める前触れだと言う事を、茂は理解している。
 二人はしばしそのままで坂を下っていった。やがて坂の下に着く。
「俺達の付き合いってどれだけになる?」
「幼稚園の時を入れると、なんと十五年だな」
 大した感慨深さも無い口調で茂は言った。
 稔は再び歩き出し、茂は後を同じように歩く。
「それにしても随分と長い付き合いだな。まあ、同じクラスだったことは結局、一回も無かったが。それはそれで凄いか」
 夜の道に茂一人の声が伝わっていく。風は少々冷たい。
 春先の気温はどうしてもまだ、初冬に近い。
 体を振るわせた稔を気遣って茂は言った。
「お前、寒いならもう帰った方がいいんじゃないか?」
「ん? 別に、大丈夫だ」
 と言いつつ稔はコートの前をぎゅっ、と握る。
「おいおい。お前、明後日にはこの街出て行くんだろ。風邪なんてひいたらあっちで大変だぞ」
「……そうだよな。俺達、出て行くんだよな」
 稔は立ち止まった。その気配があまりに希薄で、茂は少し遅れて立ち止まる。
「忘れていたかったけど、そうなんだよなぁ。俺達、もうこの通学路を使う事はない」
 空を見上げると、丸い月。
 青い、蒼い、ガラスのような月。
 光が、目に痛い。
「やっぱり、寂しいか」
「当たり前だろ」
 今度は自嘲気味な笑い。それが悲しくて、茂は顔をしかめて上を見上げた。
 月明かりが眩しいくらいに二人を照らしている。
 影がはっきりと見えるほどに明るい。
「俺達が大学生になる頃には、校舎も取り壊されているだろうし。仕方が無いさ、この街も若い奴等が少ない」
「……ずいぶんと、淡白なんだな」
 その口調は怒りを内包してはいない。
 茂ならば、そういう風に答えるだろうと予め分かっていたように。
「過去の思い出を大事にするのは当然だが、縛られるのは御免だからな」
 茂は真正面で稔を見、口を開く。その目にはなんの迷いも無い。
 緊張も、不安も、何もかも。
「お前……前向きだな」
「お前が後ろ向きなんだよ。お前さぁ、昔から無茶ばっかりするけど、そのくせその後に極度に心配するんだよなぁ。心配するならするな。するなら後悔すんなよ」
「キツイ事をずけずけと……だからお前、友達少ないんだぞ」
「いいじゃん。俺の手は二つしかないんだ。両手に溢れるほど多い友達なんて重いだけ。俺は、俺と一緒にこの通学路を通ったお前達数人がいればいい」
 その言葉が嬉しくて、稔は口を抑えた。嗚咽が出てきそうだったから。
「……そうやって生きていける奴って少ない」
「だから少数派なんだろが」
 なんの澱みも無い受け答え。
 やはりこの男は最高だ。
 素直に稔は思う。
 この男と友達になれた事は……。
「きっと一生の思い出だな」
「何か言ったか?」
 その問には答えずに稔は言った。
「結局さ、俺、不安なんだよ」
 だからこそ素直に言うことにした。
「住み慣れた街がだんだん過疎化していってさ、俺は都会の大学に入る。生活費も自分で稼がなきゃいけないからさ、多分、ほとんど帰って来れない」
「そんなん、俺だって同じだ。俺達の学校で大学行く奴等って少ないだろ。皆、金無いんだよ」
「だからさ。卒業してもさ、里帰りしたら会えるって卒業式で言ったけど多分、会う機会なんてないさ」
 稔は傍目から見てもかなり落ち込んでいた。しかしその場に響いたのは茂の笑い声。
「何が可笑しいんだよ」
「可笑しいだろ。別に友達に会わなくても死にはしない」
「……お前にとって友達ってその程度なのか?」
「どの程度だよ? 俺も友達は大事だぜ」
「……え?」
 思わず間の抜けた声を出してしまう。今の会話の流れからしてそんな言葉が茂から出てくるとは思ってもみなかった。
「俺の考えではさ、友達の考え方って二種類あると思うんだな」
 茂は顎に右手を当てていわゆる、考える時のポーズをして言葉を続ける。
「そいつに何か、協力したとする。すると自分が協力してやった相手に、自分にもそれ相応の見返りを望む奴だ。それは別に変な意味じゃない。一番身近な例をみれば、ジュースをおごってもらって、別の時にその相手におごるとか、誕生日にプレゼントを貰って、今度はそいつの誕生日にプレゼントをあげる、って感じの、ギブアンドテイクな関係」
 茂は一度言葉を切って、稔の頭に浸透するのを待つかのよう。稔はその意志を察したのか頷く。
「これは別にしなくてもいいよな。借りをかりっぱなしってのを良しとするかしないかは個人の感情だからなんとも言えないが、普通は借りを返すべきだと考える。どうしてか? そいつが友達だからさ。友達だから借りをかりっぱなしってのは良くない。
 そんな大層な事を無意識に考えるわけだ」
 稔は自分を顧みて、確かにその通りかと思う。
「もう一人は、見返りを求めない奴さ。ギブアンドテイクな関係じゃなくてもいい。でも別に友達友達と言って、毎回自分といる必要はないって奴」
「それがお前か」
 稔の問に茂は頷く。
「俺はさ、友達ってのは空気と同じって言葉は確かだと思う。ただいるだけでいい。別に身近に存在してくれなくても、毎日連絡取り合わなくても別に構わない」
「それは、寂しくないか?」
「寂しくないさ。俺は大学で新しい友達を作る。でも昔の友達を無価値な物にする事じゃない」
「……」
「釈然としないって顔だな」
 稔は素直に頷いた。どうも、茂の考えを共感できない。
「別に共感する必要なんてないんだぜ。俺はこう思っている。お前は別の考えがある。それでいいじゃないか」
「でも、お前の話を聞いていると友達ってやっぱりその程度なのかって思うよ」
 溜息。
 稔は初めて見た。茂の、寂しそうな顔を。
「いいか? 友達は結局他人だ。いつかは連絡も取れなくなるだろう。そしたらお前、寂しくて何も出来なくなるってのか?」
「そんな事は無いが……」
「なら、いいじゃないか。自分の中で友達の価値って言う物を持っていれば、別に友達が自分の近くにいなくても」
 茂は稔に背を向けて歩き出す。それを稔が追うという、さっきとは逆の構図。
「お前の友達の価値って?」
 横に並んで訊ねる。茂は先ほどとは変わって笑みを見せた。
「『思い出』だよ」
 そのあまりにも単純な答えに稔は唖然となる。
「お前は友達をまだ、リアルタイムで感じてる。でも俺はもう『思い出』としてる。そしてこの『思い出』はいつでも引出しから引き出せるだろ?」
 いつもの憎らしい笑み。
 いつもの茂。
 その顔が今は、やけに遠い存在のように稔には思えた。
「別に一緒にいてくれなくてもいい。ただ、たまに馬鹿な話を電話ででも聞いてくれればいい。……俺より先に死ななければそれでいい」
(そっか……。やっと分かった気がする)
 稔は長い間、茂に抱いていた形をなさない疑問が解けた気がした。
 自分よりもよほど、茂の方が友達を大事に思っていた事を理解した。
 自分は少数派だと茂は言った。少数派だからこそ、得た友達を誰よりも大事にしたいと思っている。
「存在さえしてくれれば、遠く離れていてもまた会う可能性はいくらでもあるだろ? 自分がそう望むならさ」
 茂は歩みを止めた。不思議に思って稔が前を向くと、ちょうど茂と別れる道まで来ていた。
「じゃ、今日はこれで終わりだな」
「そうだな」
 少しの間、二人の間に静寂が満ちる。一際、強い風が吹いた。
「お前が悩んでいる事は、きっと誰でも悩んでる事なんだろうぜ」
「……お前もか?」
「さあな」
 最後まで、茂はよどみなかった。
 別れの挨拶を交わして別々の道を歩く。
 稔は振り返り、歩いて行く茂の後姿を見送った。
「ありがとな。茂」
 本人に言うのは照れくさかった。でも自然とその言葉が出たのはやはり、茂に不安を話せたからだと思う。
 この通学路を通った奴等は他にもいたけど、あいつだけを呼んで一緒に歩いた事はやはり良かった。
 少なくとも、不安は薄らいでくれた。
「本当に大事なら、いくらでも会いにいける、か」
 結局はそういう事なのだった。その結論を導き出すのに回り道をしていただけ。
 胸のつかえが取れた。
 そんな感じだった。
「帰って寝るか」
 その稔の足取りは軽やかだった。


 月は雲一つ無い夜空にぽつんと浮かんでいた。
 一人寂しい月。
 でも、そんな寂しい月も、あんなにも綺麗だ。
(ずっと、こんな月が出てればいいのになぁ)
 茂は思う。
 変わらない物は存在しない。
 稔も変わっていくだろう。きっと、今は悩んでいてもしばらくすれば気にする事はなくなる。
 人間や景色は変わっていくが、せめて自分が生きている間だけは、あの月は変わらないでほしい。
 茂は心から思った。
 覚悟を決めていても、やはり揺らぎそうになる心を支えてほしいと願った。
 月に、願った。
 月は答えるかのように家に帰るまで茂の姿を照らし続けていた。


 終



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 紅月赤哉でっさ〜(笑)
 はいはい、友情物『月に願う』でした。
 ていうか『月』を使った物を書いてみたかったので、というそんな理由から生まれました当作品。
 ちょうど卒業シーズンなんでいいかな、と納得させてみたり。
 それにしてもいつも以上に会話文が多くて疲れました。
 これを我が友人、霞野道輝夜さんへ掲示板3000ヒット記念に奉げます。
 というか掲示板ヒットはこれで止めます。だって二つは疲れますもの(汗)
 ではでは〜。




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