紅葉が肌寒さを増した秋風に乗って空に舞っていた。
 視界を覆う紅葉の隙間に確かに見える人影。
 俺の、よく知っている人物。
 ゆっくりと近づいてくるその姿を視界に収めている間、俺は息をしていたのか分からない。
 その時の事はほとんどが記憶の受け皿から零れ落ちていった。
 たった一つの言葉を以外は。
「さようなら」
 落ち葉が地面に散りばめられた公園の中。
 彼女は、俺から去っていったのだ。


 『飛べない鳥』


 僕等は束縛されている。
 誰もが生まれながらに持っていた翼は縛られ、飛べなくなってしまった。
 飛ぶ事を知らず、翼を使うことを知らない、飛べない鳥

                『詩集・蒼海より《飛べない鳥》第一部』


「すっかり冬だな」
 天童豊(みのる)は溜息とともにその言葉を吐き出した。
 息は白く、肌を突き刺すような寒さが体に浸透してくる。
 手にした詩集をバッグの中に入れると息を吐きかけ、手袋を急いではめた。
 豊は一人で公園に佇んでいた。
 全てが雪に覆われて、子供達が遊んだのか踏み慣らされた跡がある。
 今は誰もおらず、しんと静まり返っている。
 時刻は二十三時。人通りが多い事のほうが珍しい。
「なんだって里帰りして早々ここにいるんだか……」
 豊の独り言は続く。
 何故か?
 本当は分かっていたのかもしれないが、豊は気に入っている詩集をこの公園で見ていた。
 自嘲するような笑みが顔に張り付く。
(俺はまだ……)
 豊は目の前の景色を意識から消して物思いに更けようとしたが、遮ったのは違う声。
「豊、君……?」
 豊はその声に聞き覚えがあった。
 忘れるはずが無い。
 この一年、ずっと耳に残っていた声だ。忘れるはずが無い。
 豊はゆっくりと振り返った。内心の動揺を悟られないように。
「里奈、久しぶりだな」
 振り返った先には一人の女性。水色のダッフルコートに身を包み、首には同色のマフラー。
 豊が知っていた、一年前と変わらぬ容貌。
「いつ、帰ってきたの?」
 豊の努力の賜物か、目の前の女性――高瀬里奈はおかしな顔をする事なく、久しぶりに会った友人に素直に喜んでいた。
 豊はそんな里奈の様子に少し胸にチクリとくるものがあったが、あえて気にしなかった
「ん? ついさっき空港から電車に乗ってね。まだ家にも帰ってないよ」
「そうなんだ〜。お疲れ様」
「そう言えばお前はどうして今の時間にこんな所にいるんだ?」
 豊がもっともな質問を返す。すると里奈は驚いた表情になった。
「どうした?」
「う、ううん。なんでもない。夜の散歩だよ」
 豊は里奈の様子が気になったが詮索はしなかった。
 もう深く踏み込める関係ではない、と自分に言い聞かせて。
「それはそうと! 新年明けたら高校時代の友達と新年会しない? 私、地元のみんなに声かけてるんだ」
 重い雰囲気になりそうなところを里奈は話題を転換して打ち消した。
(昔からこんな所巧かったな)
「いいぜ。誰々来るの?」
 豊も里奈の誘いに乗って話題に加わった。そうでもしなければまた余計な事を思い出すからだ。
「女の子は地元に残ってる娘みんな来るよ。あと男子は山崎君とか国枝君とか……」
「へえ、信二と匠も来るんだ。なら俺が行かなくちゃな」
「そうだね。私たちのクラスの名物三人組だったんだもんね」
 豊は今、この瞬間は昔の事を忘れて里奈と向かいあっていた。
 過去の傷跡はしかし、心の奥底に残雪のように消えない。
(結局、俺は、引きずってる)
 里奈と話している自分を冷ややかに見つめる自分がいた。


 あの日。
 突然の別れの言葉を受けてから、俺はそれを忘れようと一心不乱に勉強した。
 それまでは記念受験でもしてみようか、といった程しか思っていなかった地元から離れた場所にあるレベルの高い大学。
 まだ考えが幼かった俺は辛い現実から逃げるために、この地から離れた場所に行き着く必要があった。
 そして、俺は昔の仲間と別れてそこに通う事になった。


「そう、逃げたんだ」
 里奈と出会って数日後。今日は大晦日だった。
 ストーブに火が焚かれているとはいえ、夜気は鋭く窓のほうから流れてくる。
 豊は一通り整理を終え、掃除中に見つけた写真に見入っていた。
 何人かの仲間と共に写っている写真。
 隣には、笑顔で豊に抱きついている里奈の姿。
「拒絶されたのが辛くて、もうここには戻ってくるつもりなんて無かった」
 しかし豊は帰ってきた。
 最初、どうしてかは自分でも分からなかった。
 急に故郷が無性に恋しくなったのだ。
 最初はホームシックだろうと豊は納得させたが、すぐに説得力は無いと悟る。
 豊はやがてある考えに至った。
 自分はやはり確かめたいんだと思う。
 何を? 決まっている。
 それはただ一つ心の奥底に残っている疑問。
 自分の中だけではどうしても解決する事のない疑問。
 それは酷く単純な事だった。

『どうして、自分はフラレタのだろうか』

 その普通は分かっているはずの疑問が、豊には与えられなかった。
 突然の別れを告げられたあの日、豊はそのまま里奈の姿を見失った。
 訳を訊くタイミングを完全に失ったのだ。
 そのもやもやとした気持ちと、拒絶された悲しさから豊は里奈から離れた。
 結局別れの日から卒業するまで里奈とは豊は会話をする事がなかった。
 しかし……。
「今なら、訊けそうだな」
 今の自分は一年前とは違う、はずだ。
 そう豊は自分に言い聞かせる。
 たとえ昔の事を引きずっていたとしても、月日は傷跡を少しでも軽くしてくれたはずだ。
 今の自分なら、あの時訊けなかった答えを消化できるはず。
「訊いて、みるか。新年会の後にでも」
 そう言う豊の目は焦点がどこかずれていた。
 結局は、自分を無理やりにでも元気付けようとしていただけだった。
 タイミングよく携帯電話が鳴る。
 空元気が取れた、少し疲労感漂う顔をしながら豊は電話を手にとった。
「はい」
『豊君、私、里奈』
 聞こえてきた声に豊は緊張を高めた。相変わらずのタイミングだ。
 考えていた時に限って電話が来る。
「新年会の日時、決まったのか?」
『うん。1月の4日。6時半から。場所は……』
 豊は聞こえてくる情報を身近にあった紙にメモしていった。
 その速さは大学になってから身につけたものだ。
「分かった。んじゃ、その日に」
『うん! おやすみ〜』
 その言葉が聞こえてきて、豊は電話を切る。
 その後しばらく豊はじっと座ったままだった。
(結局、変わってないのか、な……)


「おおー!! 豊! 久しぶり〜」
「きゃー、豊君。かっこよくなったねぇ」

 その場所にいる人数だけの出迎えの声に迎えられ、豊の店の中に入った。
 所用で集まる時間に少しばかり遅れたために、参加者全員の声を浴びる羽目になったのだ。
「豊君はここの席だよ〜」
 そう言って里奈は自分の隣の席を指し示した。その辺りには仲の良かった、見覚えのある連中がかたまっている。
「クラス名物三人の揃い踏みか」
「なんか変わんないな、お前」
 そう言って豊に話し掛けてきたのはがっしりとした体つきの男と、男の中ではかなりの美形に入る男だった。
「信二、匠。やっぱお前等は一目でわかるな」
 豊は苦笑した。
 学力の天童。スポーツの山崎。エンターティナーの国枝。
 豊のクラスの名物三人組。
 それぞれの分野で学校に知らない人などいないとまで言われていた。
「さて、皆そろったところでこれから同窓会兼新年会を、はじめま〜す」
『おおー!!』
 クラス三十人が幹事である里奈の声にあわせて一斉に声を上げる。既にテンションは高い。
「それでは、かんぱーい」
『かんぱーい』
 なみなみとビールが注がれているビールグラスがカンッ、と音を立てて回りの皆のそれとぶつかりあう。
 その同窓会兼新年会はこうして高いテンションを保ったまま続けられた。


「じゃあ、三次会行く人〜。俺についてこーい」
 国枝匠が二次会を終えた内の何人かを連れて町に繰り出していった。
 豊は二次会が終わった時点で既にもう限界近くまで飲んでいた。
「じゃあ、俺は帰るからな」
「おう、ちゃんと送ってやれよ」
「へ?」
 豊は山崎信二が言った言葉の意味が分からなかった。
 山崎は笑みを浮かべつつ少し離れた国枝の集団へと向かっていく。
 それをしばらく眺めていた豊は後ろにいる里奈にやっと気づいた。
「二次会で帰る人、皆反対方向なんだ……」
「……そっか」
 豊と里奈はしばらくその場に佇んでいたが、豊がやがて歩き出した。
「送ってく。帰ろうぜ」
「うん」
 二人は寒空の中、家への道を歩いている。
 街の灯りから少し離れるまで、二人は何も話さなかった。
 踏みしめる雪の音、二人の吐息の音だけが支配する空間。
 その沈黙が破られたのは、里奈の口からだった。
「……久しぶりだよね。こうやって二人で歩くの」
「……そうだな」
「もう一年以上前なんだ」
「……そうだな」
 豊は簡単な答えしか返せない。
 本当は訊きたかった。
 どうして、俺と、別れたのか。
 しかし、それを言うことはとてつもない労力を必要とする事だった。
 付き合っていたときは言いたい事を言い合える仲だった筈なのに。
 どうしてそれだけの言葉を言うことがこんなにも辛いのだろう。
 やがて二人は一年ぶりに出会った公園へと来ていた。
 そこで里奈が立ち止まる。
 つられて豊も立ち止まった。
 しばらく二人を包む静寂。
「私さ。実は毎日あの時間、この場所に来てたんだ」
 里奈は豊のほうではなく、公園のほうに向かって言葉を紡いでいた。
「やっぱりさ、この場所は、私にとって思い出深い場所だから……」
 里奈は一度言葉を切ると豊へと振り返った。
「ここは、私達が始まって、終わった場所だから」
 豊は鼻の奥がつん、とする感覚に襲われた。涙腺が緩み、危うく涙を見せそうになる。
 しかし衝動に耐えて里奈を見つめた豊の視界に映ったのは涙を流した里奈の姿だった。
「どうして……」
 豊は本当に意識せずに言葉を出していた。
「俺はフラれたんだ?」
 里奈はその言葉にビクッと体を振るわせる。
「俺は、自信過剰だろうけどお前に嫌われるような態度をとった覚えはなかった。
 お互いにずっと信頼しあえると思っていたんだ。それが唐突に俺はさよならと言われた。
 里奈がそう望んだなら仕方がない。でも、理由を聞かせて欲しい」
 豊はもう今までのぎこちなさは取れていた。
 今を逃したら一生自分は理由を聞くことができないだろうと思った。
 里奈は俯いて黙っていたが、やがて口を開いた。
「豊君は……レベルの高い大学に行きたがってたこと、知ってたから。
 豊君、私の事、本当に大事にしてくれてたから、豊君の将来、潰したくなかった……」
 豊は何も言えなかった。
 確かに豊は里奈と同じ大学を目指す気になっていた。本当はより高いレベルの大学を目指したいと、心で思っておきながら。
 自分は友人と、なにより里奈と一緒にいたいと思っていたのだ。
 その事が逆に里奈を苦しめていたというのか?
「豊君が興味津津だったことが、私が入った大学でできない事だって事は分かってた。
 豊君、近い未来のことしかを考えてなくて大学出た後とか考えてなかったでしょう?
 私と居たいって気持ちが凄く伝わってきた。でも……」
 好きだったけど離れなければいけない。
 それに気づかずに里奈を苦しめていたのは他でもない自分だったのだ。
 豊は自分を恥じた。
 幼かった自分は、何よりも大切な人さえも傷つける事しかできなかったのだ。
「里奈……今からでも、やり直せないのか……」
 豊は自分が馬鹿な問いかけをしている事が分かっていた。
 あの時とは全てが違っているのだ。
 あの時、里奈を傷つけてしまった傷跡は、里奈の中に消える事なく残っている。
 豊が持つ傷のように……。
「駄目だよ。もう、あの頃の気持ちには戻れない……。もう、終わったの……」
 二人はそれからしばらく黙って向かい合ったまま佇んでいた。
 冷たい風が二人の間を通り抜けていく。
 それは二人の心に空いた間隙を冷たく満たしていった。


「じゃあ、行くよ」
「うん。体に気をつけてね」
 豊と里奈は駅の待合室でそう言葉を交わした。
 それ以外の言葉はない。
 豊は改札を通って雪が入り込むプラットホームに立った。
 背中に、里奈の視線があるのは分かっている。
 しかし豊は振り向かない。その顔は今までよりも少しだけ、迷いが消えていた。
 電車がプラットホームに入ってくる。
 豊は見られているか定かではないにもかかわらず、後ろに手を上げた。
 すぐに降ろして電車に乗り込み座席に座る。
 横目でちらりと見てみると案の定、里奈が見ていた。
 その顔はやはり、今までよりも綺麗だった。
 電車が発車し、故郷を離れていく。
 豊は感慨深いような表情で後ろに流れていく街並みを眺めている。
 そこに微かな振動が伝わった。
 携帯が震えていたのだ。
 ポケットから取り出して見てみると、メールが届いている。
 豊は躊躇いもなくそれを開いた。

『思い出をありがとう。そして、頑張って!』

 豊は思わず泣きたくなった。
 結局、自分はまだまだ彼女を忘れられそうにない、と感じた。
 しかし豊はこれまでとは違い、自分の気持ちが少しだけだが変わっているような気がした。
 少なくとも、これで少しだけだけども前に進める。
(一年、か。長かったけど……)
 豊はそのメールに返事を書きながら考える。
(どうやら、俺はやっと……)
 メールを送信する。
(前へと進めそうだ)
 豊を乗せた電車が進んでいく。
 豊は窓の外を見つめながら一言呟いていた。
「じゃあ、な。ふられた俺」


 飛べない鳥が羽ばたく。
 今はまだ飛べないけど、自分を縛っているものを少しずつ外していく。
 いつかはあの空へと飛べるだろう。
 あの、蒼い空の中へと……。

   『詩集・蒼海より《飛べない鳥》最終部』



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 あとがき

 はいどーも。紅月赤哉です。
 今回も書きたかった事を書いたのですがあまり自信がありません。
 この作品は短編二作目として恋愛物に手を出してみました。
 テスト期間やらなにやらで前半部分と後半部分の間が空いてしまい、うまく書けたとは言えないです。
 主人公のやりきれなさを一番に書きたかったのですがあまり現れませんでした(汗)

 2002年6月22日改定




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