『世界が終わるということ』





『孝(たかし)へ。父さんと母さんは、先に逝きます』





 テーブルの上に用意されていた鶏のから揚げ。その横に添えられた紙に書かれた文字へ

眼を通してから最初に考えた事は、このから揚げはいつ作られた物だろうということだっ

た。何か引っかかる物を感じたけれど、すぐにその引っかかりは消えてしまった。

 二、三人分はあろうかというから揚げの上に手をかざしてみると、冷めた直後というよ

うな感じだ。

 作られてからまだ二時間も経ってないかなと思う。

 一月の朝の寒さに弱い俺のためにか、暖房がつけられていて部屋は暖かい。

 その部屋の中を見回し終えて、ため息をついた。

 両親は、明日に控える破滅にとうとう耐えられなくなったんだろう。

 俺はテレビのリモコンを取って、テレビをつける。ちょうどニュースの時間で、いつも

しているように破滅へのカウントダウンを放映していた。

『巨大隕石の衝突で地球の自転が止まると発表されたのが一週間前でした。そしてついに

明日の午前零時過ぎ、その隕石が、地球に衝突します。国連は三日前に各国の首相を集め

て開かれた会議で可決された最終――』

 途中まで聞いて、俺もまたいつものようにテレビを消す。

 隕石の衝突によって地球が終わるかもしれない、と報道されてからはずっとこんな調子

で、その手のニュースを聞くと必ず途中で消してしまう。酷く気分が悪くなるから。

 親子三人で笑って最後を迎えようと、面と向かって言われたのが発表から六日前。

 そして――俺ひとりを残して逝ってしまったのが一日前だった。

 なんて無責任な親だろう。

 こんな状況で、俺に朝ご飯を食べて学校に行けとでも言うんだろうか。今頃、自分達の

寝室で首を吊るか睡眠薬を飲むかして死んでいるに違いない。

 でも、腹はやっぱり空くし、特に悲観的な気分にもならなかった。

 腹の虫が鳴ったので俺は欲求に勧められるままご飯をよそい、鶏のから揚げとご飯を口

の中で混ぜ合わせた。意外とから揚げの中身は暖かい。

 そう言えば母さんのから揚げはこんな味だった。

 今更ながら、そう思う。

 ご飯を食べ終えてから、から揚げにラップをかけて冷蔵庫の中に入れる。今日の夜でも

残りを食べよう。

 台所を抜けた所にある洗面所で歯を磨き、顔を洗い、髪を整えると俺は二階へと昇ろう

とした。その時に、一階にある両親の寝室から廊下へと微かに出ている父親の物らしい右

手が見えて、思わず動きを止めてしまった。

「どうしたの?」

 俺がその手に見入っていると、階上から声がかかる。

 ゆっくりと二階から降りてきた幸(さち)が俺に尋ねた。そういえば彼女の分の朝食は

用意されてなかったな思ったけれど、よく考えるとあのから揚げは二人分だったんだろう。

残しておいたから揚げを冷蔵庫から取り出すために食卓のほうへ戻る。その後ろを幸もつ

いてきた。

「……おば様達、死んだのね」

 あっさりと俺の両親の死を受け入れて、幸は後ろをついてくる。大きめの俺のパジャマ

を着ているせいで、多少動きづらそうだ。

 腰まである長い髪の毛は寝起きだからかかなりぼさぼさになっていた。ひねくれた自分

の毛を教育するかのように、何度も手ぐしを入れている。

 同性からは少しきついと呼ばれる細めの目には涙が溜まっていた。それはあくびによる

ものだろうけど。

 幸も両親を一週間前に亡くしてる。それは事故だったけれども、きっと泣いたはずだ。

 今、平然としているように見えるのも人が死ぬと言う痛みが分かっているからこそ、何

も取り乱していない俺を刺激しないようにと言う配慮……なのかもしれない。

 或いは、他に理由があるか……。

「明日、死ぬって言うのにさ。どうして早まったりするんだろう」

「どうせ死ぬなら、自分達でって思ったんじゃない?」

「……なるほどな」

 どうやら他の理由らしい。

 俺ははだけたパジャマの間から覗く幸の胸から視線を外して同意する。昨日、十分見た

はずなのに、服の隙間から見えるというのはどこか気恥ずかしい。

 幸はそんな俺の思いを気にすることなく、俺が冷蔵庫から出したから揚げのラップを取

り、茶碗を勝手に見繕うと自分で食べ始めた。俺は彼女が座るテーブルの反対側に腰を落

ちつける。

「なあ」

「ん?」

 口の中にご飯をつめながら相槌を打つ幸。口の傍に付いた米粒を取ってやりながら俺は

言った。

「なんで、俺とセックスしたの?」

「だって本命にふられたし。明日には世界終わるし。最後に思い出作り」

 幸の即答は俺にとっては容赦ないものだ。

 幸とは小学校からのつきあいだけれど、その時から異性として気になっていた。だから

昨日も申し出を受けた時は二つ返事で同じベッドに入ったわけで。

 そりゃあ二週間前に誰かに告白してフラれたってことも聞いていたし、俺にはおそらく

恋愛感情を抱けないなとも理解していたから、多少なりとも突き放されるのは覚悟してい

た。でも少しも恋愛感情がないっていうのもやっぱり辛いものがある。

「孝も良かったんじゃない? 最後に童貞を捨てられて」

「……まあ良かったかな」

 幸の悪びれない様子に、俺は今までしてきたように、自分の想いを伝えることを止めた。

 今のスタンスだからこそ見せてくれるだろう顔。

 それを最後まで失いたくなかった。

 たとえ世界が明日終わるんだとしても。

「でも、不思議よね」

「何が?」

 幸は食事を終えて食器をまとめながら呟いていた。

「なんでこんなに落ち着いているんだろうね?」

 それは俺も……同じ、疑問を持っていた。

 何で、両親が死んだというのに……世界が終わるというのに、俺はこんなに落ち着いて

いるんだろう?



* * * * *
 教室に入ると六人いた。  先生が一人と生徒が五人。全員が男だ。  そこに俺と幸が加わって七人になる。  学生服が七着そろって、授業が開始された。  二年四組の教室に並ぶ四十個の机それぞれ主は、突然の『世界が終わる』宣告によって まず半数が消え、次の日には更に半分。その次の日は半分とほぼ二分の一ずつ減っていっ た。四日もすれば大体来るクラスメイトも安定して、同じく数が少なくなった先生と共に ほそぼそと授業をしている。  警察も偉いもので、世界は滅亡するだろうと言われて自暴自棄になった人達をちゃんと 取り締まっているみたいだった。ニュースでも、そういう人が暴れるところに警察官が近 づいていってその場を収めるという光景が増えていた。テレビでは報道されなかっただろ うけど、やっぱり警察内部でもやけになる人は出ていたと思う。  最近、なんだかんだと悪い部分を言われていたけれども、俺は少しだけ警察を見直した。  見直すのが少し遅かった気がしないでもないが。  ちゃんと取締りを行えているのかもしれないが、やっぱり大都市は被害が酷くてもう安 全に住めないらしい。地方都市に人が移住しているという報道もされている。俺達が住ん でいる場所は比較的安全だったから、今もこうして授業を受けていられるのかもしれない。 この前ニュースを見ていたら、どこかの学校が火をつけられていたし。 「ここは、テストに出るからな。ちゃんと覚えておきなさい。明日以降生きていたら、必 ず必要になるから」  普通に行けば今年定年を迎えるはずだった物理の田中先生が、そう言って黒板に書いた 文字を赤チョークで囲む。  若い先生達が全員どこかに消えてしまった中で、何人か残った先生の一人。  一週間前からずっと「世界は終わらないよ」と言い続けて来た先生だ。  ほとんど学校としての機能を失ったこの場所で、田中先生は最後までいつも通りであり 続けるんだろうかと、ノートに同じように赤丸をつけながら考えた。  来るはずのないテストのために、赤丸をつける先生。  それを当然のように書き写す俺達。  ……どこか違和感があった。  チャイムと共に一時間目の授業が終わる。  先生は黒板に『二〜六限目、自習』と書いて去っていった。  今日の授業を担当する先生は、他には誰もいない。  俺はノートと数学の問題集を鞄から取り出して問題を解き始めた。 「孝って数学好きよね」  隣に座っている幸が体を寄せてきた。制服越しに伝わる体温が、昨日の夜を思い出させ るのか、自分の顔が赤くなるのが分かる。 「……まあ、理系の大学行きたいし」  照れ隠しのために声を抑えて、当り障りのないことを言ってみる。幸は何か嬉しいよう な悲しいような顔をして、俺を見た。 「――な」  何? と問いかけようとして、それは絶叫に遮られた。  一緒に授業を受けていた男一人が席を蹴倒して立ち上がり、そのまま窓へと突進してい く。勢いを止めないまま飛んだ体は、窓ガラスを簡単に粉砕して赤い液体を撒き散らしな がら落下していった。外は吹雪いていて、割れた場所から雪が教室に入ってくる。  本当に、一瞬の出来事。  俺達はしばらくの間呆然としていたけれど、やがて皆で窓の傍へと寄る。  いくら雪に覆われていても、三階から落ちれば無事ではすまないだろう。  案の定、空を飛んだクラスメイトは雪を赤く染めて倒れていた。しかも運が悪かったの か純粋な雪の上じゃなくて、花壇があった場所だ。おそらく煉瓦に頭を直撃させてしまっ ただろう。 「死ぬことないのにな……」  クラスメイトの誰かが、そう言った。その声はとても虚ろな響きで、自分で考えて話し ているのか分からなかった。 「……寒いし、これ以上ここには居られないね」  幸はそう言って帰り支度を始めた。  飛び降りたクラスメイトを目の当たりにした割には、やっぱり俺は落ち着いていた。  何かを感じてるはずなのに、空いている教室を探して自習を続ける。  幸はちょっとやることがあると言って先に帰った。他のクラスメイトもいる意味をなく していなくなる。俺は他にすることも思いつかなかったから、数学の問題を解いていた。 「……そっか、ここがこうなるから……」  暖房も入ることがない学校の中は、コートを着ていても寒かった。  息は白かったし、手袋をつけて勉強は出来ないから、かじかむ掌に何度も息を吐きかけ てやりすごす。  教科書と問題集と解答集をにらめっこしながら全ての問題を解き終えたのは、午後三時 を回っていた。 「――帰るか」  少しだけ生まれる達成感に気をよくしながら、俺は廊下に出る。学校はもう誰も残って いないのか、ひっそりと静まり返っていた。廊下を歩く自分の靴音だけが響いて、心地よ さを感じている自分がいる。 (そういや、田中先生はいるかな)  最後の授業をしてくれた先生に、何かお礼でもしたいと思って職員室へと向かう。挨拶 と肩揉みでもすれば、感謝されるかもしれない。  最後の日にそんな良い所を見せてもいいだろう。  どうせ明日にはみんな死ぬんだから。 (……?)  また何かおかしな気持ちになったけれど、職員室が見えたことで変な感覚は消えてしま う。何度か頭を振ったり叩いたりしたけれど、結局なんだったのか分からなかった。  職員室にたどり着いて、ドアのガラス部分から中を覗くと、先生の姿が見えた。入り口 のすぐ傍だし、他に誰もいないはずだから間違えようがない。  ドアを開けようとノブに手をかけて、俺は動きを止めていた。  先生は石油ストーブを傍に持ってきて、寝ていた。  机に突っ伏して。  握った手に何かの瓶を持って。  その瓶からは数個の丸い物が机の上に流れている。  ドアノブにかけた手が震えていることに気づいて、俺はドアから離れると走り出した。 『それ』が何を表しているのか正確なことは分からなかったけれども、この場にいてはい けないという巨大な恐怖が、俺を突き動かす。  何かを叫んでいたかもしれないけど、自分でも何を言ったのか分からない。  ただ、いきなり『その感情』はやってきた。  俺の心の隙間から噴出して、俺の全てを染め上げた。  急いで靴を履き替えて、雪に覆われた白い世界へと飛び込んだ。雪が深いから走りにく くて速度が鈍る。悪態をつきながら強引に足を踏み出していたら、何かにつまずいて転ん だ。まだ積もったばかりの雪が口の中に入って、冷たさと一緒にゴミや塵の味がする。倒 れた拍子に口の中を切ったのか、血の味もしてきた。 「いって――」  何につまずいたのか見てみると、視線の先には雪に埋もれたクラスメイトの体があった。  体のほぼ全部が白く染め上げられていて、遠くから見れば簡単に判別出来ない。でも、 俺がつまずいた拍子に雪が取れたのか、顔の部分が見えていた。  光を映さない見開かれた瞳と、俺の目が、合う。 「う――わああっ!」  今度ははっきりと自分の声が聞こえた。  瞬間、何かがおかしかった俺の感覚が正常に戻っていくことを自覚する。まるでそれま で苦労していたジグソーパズルが次々とはまっていくように。  よろけながら走る中で、俺は浮かんでくる感情に耐えるのに必死だった。 (いやだ! 死にたくない! 死にたくない! どうして死なないといけないんだよ!!)  それは普段ならば当たり前の感情だった。  この一週間、ずっと自分の中で何かがおかしかった。  地球はあと一週間で滅びます、などと言われて。  学校では人がいなくなって。何人も人が死んで。  ニュースがどこかの街で暴動が起こったことを映していて。  それでも、何人かの生徒は残っていた。  それでも、田中先生は授業をしていた。  それでも、俺自身が特に何か変わったということはなかった。  だから俺は一週間経っても世界は滅亡なんてしなくて、来週はまたクラスメイトといつ ものように肩を並べて教室で授業を受けるんだと思っていた。 『世界が終わるなんて嘘だったね』としばらく話のネタになって、そのままいつも通りの 日常が繰り返されると思っていたんだ。今の状況に、俺は現実味を感じてなかったんだ。  今日まで死ぬって事をどこか遠い世界のことのように考えてきたんだ。  眠れば必ず明日が来て、何もしなくても明日が来て、いつか歳を取って自然に死ぬんだ と思ってきた。  それが俺の『日常』だった。その『日常』が、俺の『世界』だった。  でも、それが今、壊れてきている。いや、やっと自覚してきている。  最後まで授業をしていた田中先生。  俺の親よりも年上で、たくさんの時を生きてきた田中先生。  最後まで「世界は終わらない」と言い続けてきた田中先生。  そんな先生が、明日を待たずに自殺した。  それは明日に迫る絶望の強さを……両親が死んだことよりも明確に、俺へとはっきり見 せつけたんだ。  明日、世界は終わる。  誰もが死ぬ。  死、ぬ。 「いやだぁああ!」  どこまでも白い世界を吹き飛ばそうとするように大声をあげても、何も変化はない。  何もかもを真っ白に染め上げる雪を俺は好きだったけれど、今はとても怖いものに感じ ていた。  全てが、何もなかったように真っ白にされる。  自分が生きてきたことも、これから先の生きる道も真っ白にされてしまう。 「――あああ!」  内と外から来る震えに耐え、まとわりついてくる雪を振り払いながらほとんど歩くに近 い状態で、ようやく家にたどりついた。  そこで俺は、まだ自分には『世界』があることを思い出した。 「幸……」  幼い時から一緒にいた。  親よりもむしろ身近な存在だった。  お互いの両親も死んで、親族も連絡が取れない今となっては、唯一の家族。 「幸……!」  大好きな従妹に、逢いたかった。  疲れた体を奮い立たせて、ドアを押し開ける。力がほとんど入らない腕を何とか使って ドアを閉めると外の寒さから開放された。雪まみれの体を乱暴にはたいて、雪を落とす。  と、そこで、下を向いていた視界に何か赤い物が見えた。 「…………?」  ゆっくりと顔を上げていく。  徐々に見えてくるのは赤黒いしみ。しみの所々に靴跡が見える。  そして頭をほぼ水平に持ってきた時、視線の先には幸がうつ伏せに倒れていた。  頭は玄関と反対方向に向けていて、左掌は両親の部屋から出ていた掌の上に重なってい る。赤いセーターを着ているのかと思ったけれど袖口は白かった。スカートは捲り上げら れていて、下着が片足にひっかかっている。 「幸?」  俺は靴を脱いで家に上がった。靴下が赤いしみに触れるとねちょり、という音を立てる。  気持ち悪さで背筋に悪寒が走ったけれど、歩みは止められない。  名前を呼ぶことを、止められない。  頭の中が真っ赤に染まる。  外に荒れ狂う、雪を伴った風の音がやけに大きく耳に入ってくる。 「幸?」  倒れている幸の傍らにしゃがみこんで、その体をなぞるように視線を這わせると、赤く 塗れた背中に白い液体が点々と見えた。右頬を下にした幸の見開かれた目は生気を感じさ せはしなかった。 「さ、ち……」  幸は死んでいた。  犯されて、死んでいた。  いや……殺された後に、犯されていた。汚濁が赤く染まっていないことから、血の上に 撒き散らされたんだと思えた。おそらく玄関で誰かを迎え入れ、中に入ってきた奴にここ で倒されて、背中を滅多刺しにされたんだ。  もうすぐ死ぬ幸を見ながら、あるいは完全に死んでから、犯人は幸を醜いいちもつで貫 いたんだろう。  おそらく……自暴自棄になった人の凶行だろう。  日本のどこかで起こっていた、自暴自棄になった人の凶行。  自分達には縁が無いと思っていた出来事の結果が、俺の目の前に横たわっている。 「…………」  俺は立ち上がると、幸の手の先を見る。そこには折り重なって倒れている両親が見えた。  睡眠薬を飲んで、抱き合いながら眠りについたんだろうか。そして、下になっている父 親の手が力を無くして廊下へと出たんだろうか。疑問は昇るけれど、すぐに消える。  二人の目はちゃんと閉じていた。飛び降りて死んだクラスメイトや無残に刺し殺された 幸のような目を見なくてすむことに、ほっとしている自分がいた。  幸の体を仰向けにして、彼女の目を閉じさせる。乾きかけている彼女の血は、かすかに 俺の体に移った。青白く綺麗な顔だけが、救いだなと思う。  彼女を両親の隣へと寝かせてから、二階へと上がった。自分の部屋に入って、扉の鍵を 閉める。MDコンポの音量を最大にして外国のロックバンドの曲をかけてから、ベッドへ と横になった。  ドラムやギターやうるさいボーカルが耳障りな音量で部屋中に音を染み込ませる。 「う――うわぁああああっ!」  騒音の中で、俺は泣いた。 「ああああああああ! あああっ!」  部屋に入ってベッドに横になるまで堰き止められていた感情のダムが、一気に開放され る。喉が枯れ、痛みで更に涙を流しながら、絶叫した。 「何でだ! 何でだ!! あああああああ!!」  いくら叫んでも、自分を叩いても、何も変わらないけれど。  叫ばずには、いられない。  世、界が、終わる日の一、日前。  俺の、『世、界』は完、全、に崩、壊し、た。 「……いい終わり方じゃないか」  呟いたことで声の擦れや喉が痛むことに顔をしかめた。でも、今まで感じていたもろも ろの感情がいつの間にか消えている。同時に動く気力も消えていた。  全てを諦めてしまったほうが楽だという気持ちにつられて、俺は完全に体を脱力させる。  時計を見ると、残り六時間ほどで次の日だ。  もう何も食べられない。下にも降りたくない。  家族が、大好きな人が死んでいるこの場所で、世界の最後を迎えよう。  そう思うと眠気が襲ってきた。  学校から全力疾走して帰ったこともあるし、幸が死んだことによるショックもあった。 親やクラスメイトや先生が死んだことも、今となれば辛さを十分に俺に与えてる。  倒れないほうがおかしいのかもしれない。 (これで、もう起きることないよね……)  そのまま意識は闇に包まれていって――――
* * * * *
 目覚めると、すでにMDコンポは自ら電源を切っていて、カーテンを引かなかった窓に は太陽の光が差し込んでいた。ぼんやりとした目をこすりながら、背伸びをしてうなる。  学生服を着たまま寝たから体中に変な力が加わったのか、痛い。  そこで、気づいた。 「なんで死んでないの!?」  しばらく何も考えられなかったけれど、やがて俺は自分の頬をつねってみた。痛さに顔 をしかめて、それから弾かれるように階下に向かう。  頭を占めるのは混乱よりも喜びだった。 (今までのはきっと悪い夢だったんだ。世界が滅ぶなんて突拍子もないこと信じられなか ったのは、心のどこかで夢なんだって分かっていたからなんだ。そうに決まってる!)  今までの恐怖から開放されて、俺は晴れやかな心のままに階段を下りる。  そこには両親と幸が笑っていてくれるはずだ。  ――でも、そこにあったのは最後に見たままの幸の死体。  動かない両親の死体だった。 「……そんな……」  俺は三人の亡骸を見下ろして考える。でも最初からわけが分からないのに、これ以上考 えても答えが出るはずもない。  ふと考え付いて、急いで居間に入るとテレビの電源を入れる。  映し出されたテレビはほとんど暗い画面だったけれど、NHKだけはついていた。  本当に心の底からの笑顔なんだろう。  今までニュースキャスターをテレビで見てきて、初めて見る満面の笑み。  にこやかに、その男性キャスターは話していた。 『昨日、国連が行った最終作戦により発射された核ミサイルが、隕石を破壊することに成 功しました! これにより地球の危機は奇跡的に回避されました! 皆さん! もう恐れ ることはありません! 私達は救われ――』  俺はそれだけ聞くと家から飛び出した。とても聞いていられなかった。  昨日の吹雪が嘘のように消え去って、空は雲がほとんどない。  目の覚めるような空の下を俺はコートを着ないまま、昨日着ていた服のまま走っていく。  世界が終わらなかったことを喜んでいる人々が立ち話をしている中を突っ切っていく。 「何が『危機は奇跡的に回避された』だ……」  走りながら呟く自分の声が思った以上に低く、憎悪を含んでいることにも驚きはしなか った。心の中に生まれたどす黒い物が俺の外側へと溢れ出してくる。  昨日までの自分や、昨日死んだ両親。殺された幸が全て滑稽な存在に思えてきていた。  結局、俺達はテレビの情報に惑わされていただけなのかもしれない。  世界が終わると言う言葉に従って、何人も友達が死んで、両親が死んで、田中先生が死 んで、幸が殺された。  最後まで俺達は振り回されていた。  確かにそうせざるを得ない状況だった。今の世界なら、テレビからの情報がほとんど真 実なんだ。  でも……俺は現実から目をそむけていたのかもしれない。  今なら分かる。  俺は――死ぬことを確認するのが怖かったんだ。 『世界が滅亡する』ニュースが最初に流れてから、俺は今日までそのニュースを見ていな かった。入る度にテレビを消したし、他のチャンネルに変えたりもした。  両親も俺と同じように、そのニュースから逃げていた。ずっと家の中にいて、他人と交 流しようとしなかった。  交流すればその繋がりが断たれることを、自分達の存在が消えてしまうことを理解して しまうから。  学校に来ていた他のクラスメイト達も……もしかしたら、俺と同じように死に対して現 実味がなくて、でもそれを確認したら現実味を帯びてしまうから、何も言わないまま、普 段通りに過ごそうと振舞っていたんじゃないだろうか。  でも、最初から現実に向き合っていれば……ニュースをちゃんと見ていれば、もしかし たら両親も幸も死ななくてすんだかもしれない。  世界が滅亡するかもしれないとあくまで仮定の話を言い続けてきたのに、世界を滅亡さ せないようにちゃんと対策が取られていたのに、俺――俺達は勝手に世界が終わるんだっ て思い込んで、何も考えないようにしてきた。  そのツケが今、全部回ってきたんだ。  そこまで考えて、思いつく行き先は一つしかなかった。  俺の『世界』が壊れ始めた場所、学校。  自然と足がそこに向かう。  着いてみると、一階や二階のガラスが割られていた。昨日の夜にでも誰かが石でも投げ たんだろう。外に散らばる破片の中で手ごろな大きさのものを手に持って、俺は校舎の中 に入った。  体が寒さに警報を発してる。  指先から赤くなっていって、感覚も徐々にだけれど鈍くなってきていた。  そんなことはどうでもいい。  俺は試すんだから。  自分にも奇跡が起こるのかを試すのには、より危機的状況のほうがいい。  思うように動かない体を引きずって、昨日、最後の授業を受けた教室に入る。  昨日の吹雪が割れた窓から入ってきたために、三分の一が白く染まっていた。教室の中 心まで歩いていって、俺は大の字になった。  微かに感覚が残っているのか、首筋に雪がつくとひやりとして、震える。  虚脱感にこのまま眠ってもいいと思うけれど、ガラスを持っていた手を握ると共に痛み が走って、意識が覚醒する。右手のガラスと、左手の手首を近づけて……力を込めた。  左手首に赤く線が走り、徐々に血が流れ出す。  もう力が入らなかったけれど、どうやら十分だったようだ。 「本当に奇跡が起こるなら、俺を助けてみせろよ」  血と共に体の力も抜けていくようで、自分の意志で動かすことが出来ないようになる。  徐々に血が抜けていくのは微かに感じていた。だが、体が冷えているからか血流は弱い。  でも逆にじわりじわりと死が近づくことが、俺に変な興奮を与えてくれた。 (これで死んだら俺の負け。『奇跡的』に誰かがここに来て、助けてくれたら――)  俺の負けだ。  何故なら―――― 「俺の世界は、もう無いんだから」  世界が終わらなくても、俺の『世界』はもう終わってしまったのだから。  父さんも母さんも幸もいない世界に生きる価値を、どうしても見つけ出せない。  失血のためにかすむ視界に、うっすらと幸の顔が映る。  昨日、ベッドの上で気持ち良さそうに喘いでいた幸の顔。  その顔が急に血に塗れて、俺は虚ろな視線を向けてくる幸の体を揺すっていた。  酷く気分が悪くなったから、目を閉じてその光景を見ないようにする。すると意識も急 激になくなっていく。 (孝も良かったんじゃない? 最後に童貞を捨てられて)  甦る幸の言葉に、俺は答えていた。 「……まあ良かったかな」  その言葉を最後に、俺は心地良い闇へと素直に身を委ねた。 『世界が終わるということ・完』


短編ぺージへ