『青空橋』





 ……秀樹君。こんな場所に呼び出してごめんなさい。実はね、お願いがあるの……。

 この青空橋(せいくうばし)には伝説があってね、この橋の真ん中でね、その……告白

すると……好きな人とずっと一緒にいられるって噂があるんだ。



 ――笑わないでよ! 確かに根も葉もない噂だけど、やっぱり何人も今までより親密に

なってるんだよ。まだ先は分からないけど……もしかしたら、結婚してずっと一緒にいら

れるかもしれないじゃない。

 だから……だから……子供だましでもいいから……聞いて、ください。



 好きです。付き合ってください。



* * * * *
 天野秀樹は濡れていた。  体全体が濡れていた。  空から降るのは大粒の雨。  傘も差さずに秀樹は雨の滝の中を歩いていた。格好は白いシャツにジーンズだけで、青 いジーンズは雨によって藍色へと変化している。シャツは肌に張り付いて下の肌色を表へ 映し出していた。またもうすぐ床屋で切るはずだった少し眺めの前髪が額に張り付いて雫 を顔に伝わりやすくしている。  しかし秀樹は濡れている事など気にせずに歩き続けた。  雨ということもあるがいつも人通りが少ない道。車さえもほとんど通らない道の真ん中 を歩く。本来の通行者が通ったとしても、彼は道を譲る気はなかった。そのまま自分を踏 み越えて行ってほしかった。  そうすれば楽になれるだろうと秀樹は思っていた。  結局は誰に咎められる事もなく、車のクラクションに追い立てられる事もなく目的地へ と着いてしまい、秀樹はため息をついた。  下を向くと共に頭部から流れていく雨水。  頬を伝う瞳からの涙と混ざり合い、判別がつかなくなった水はアスファルトの上を滑っ ていき、端にある排水溝へと吸い込まれていった。  濁った瞳が捉えたのは名前だった。  三文字の名前。  目的地を表す端的な言葉。 『青空橋』  少し古びているその橋へと踏み出した時、脳裏に浮かんだ事実のために秀樹の全身が総 毛だった。  その状況を聞いただけに過ぎない。テレビでも報道はしておらず、新聞でも小さく数十 行その事が書かれただけ。  誰も特に使うことがない橋で起こった事故など、誰もが気にも留めていなかった。  彼を含め数人を除いて。  一歩一歩鉛のように重たい足を進めていくと、やがて橋の真ん中へと辿り着いた。  向かって左の歩道には花束が置いてある。それも雨の激しさに花を散らし、茎を折られ るなど、蹂躙されていた。  秀樹は花束の場所へと近づいて、そのまま橋の手すりへと身を預ける。  下を覗くと雨によって増水気味の川の流れ。轟音が耳に届き、囁き声が聞こえる。  意味をなさない言語が秀樹の中で日本語へと翻訳され、そのまま一つの考えを秀樹の中 へと生み出した。 (いっそ、ここに飛び込んだら死ねるかな)  秀樹は脳裏に浮かんだ考えに導かれるように両手で手すりを乗り越えようとするが、ふ と我に返ったように驚くと、手すりから離れた。  身体は雨によって冷え切っていたが、体内からくる熱によってじわりと汗が滲んだ。  その汗さえも、雨は流していったが。 「……恵里ぃ」  秀樹は花束へ向けて呟き、顔を手で覆った。流れてくる涙は熱く、掌を濡らしている。  恋人である恵里がこの青空橋で車に撥ねられて死んだのは、三日前。  今日のように雨が降る日だった。今日のように、視界が遮られるほどの雨の日だった。  普段から使う人があまりいない橋だったことから、恵里は傘を片手で差しながら自転車 に乗っていた。昼間であり、また通る車もほとんどいないだろうということから油断して いたのだろう。  彼女と同じように、普段人がほとんどいないことに油断した若い男達が乗る車は、速度 の出し過ぎによって恵里との衝突を避ける事が出来なかった。  恵里は即死だった。  この、青空橋の中心。  秀樹へと愛を告白したその場所、彼女は死んだ。  彼女が信じた青空橋の伝説がいつから囁かれ始めたのかは分からない。  ほとんど誰も通らない橋ということで、市民の間では税金の無駄遣いだという意見がち らほらと出ていた橋。通る人は一日で十人ほどであろうと人々は根拠のない噂を囁き合っ ていた。  秀樹も最初に橋の伝説――橋の中心で愛を告白すると一生一緒にいられる――を聞いた 時は、誰も通らないから告白をしやすいのだという程度にしか考えてはいなかった。  しかし恵里はそういった伝説や浪漫を大事にしていたことから、秀樹は強く否定はしな かった。恵里と一緒にいられるのなら別に構わないと、秀樹は思っていたのだ。  高校三年の夏。  ある一つの青春の終わりに訪れた初めて掴んだ幸福は、しかし一週間で終わりを告げた。  土砂降りの雨が、秀樹の幸福を、恵里を押し流してしまったのだ。 「何が、青空橋の伝説だよ……一緒にいれないじゃないか」  秀樹は手を顔から離して空を見上げた。  今日と、恵里が死んだ日と、恵里が告白してきた日と同じように落ちてくる雨は留まる 気配を持たず、熱くなった瞳の周りを冷やしていった。  秀樹は顔を振り、手を振り回した。少しでも雨を寄せ付けず、自分の瞳から流れてくる 涙を押し流されないようにと。ささやかな抵抗はしかし全く意味をなさず、顔から足先ま で雨の雫は浸透していく。  身体の温もりが消える時、恵里の残滓さえも消えてしまう気がした。 「恵里! どうして死んだんだよ……一緒にいてくれよ!」  秀樹は叫び、再び手すりへと近づいて右拳を思い切り叩きつけた。痛みに顔をしかめる も動きは止まらず、何度も何度も両拳で手すりを叩き続ける。意味不明の叫びと共に。  降りしきる雨の轟音のために叫びも、拳が上げる悲鳴もかき消されていた。  少し時間が経って彼が動きを止めた時、すでに両手の感覚はなかった。体温が雨により 奪われた事と、叩きつけた痛みによって麻痺したのだ。更に体中の感覚が徐々に消えてい き、足元がおぼつかずに秀樹はその場へと膝をついた。体が動かず、意識も朦朧としてき たことで秀樹は初めて生命の危機を感じた。 (……でも、それでもいいな)  絶望して、何も見えない。感じない。そのまま死んでも良かった。 「死んじゃ駄目だよ」  その声は突然聞こえてきた。いつの間にか閉じていた瞳を、秀樹は一瞬で見開く。  聞き覚えのある声だった。少し鼻にかかった、ハスキーな声。  視線の先に見えたのは、自分の目の前に立っていたのは、恵里だった。  肩口でそろえた髪の下にある小さ目の瞳と鼻。笑っている口元にはえくぼが出来ている。  正に、四日前に見た恵里本人だった。 「恵里! 恵里! 恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里恵里!」  狂ったように死んだ恋人の名前を叫び続ける秀樹。  目の前に恵里はそんな秀樹に笑顔を向けて、呟いた。 「死んじゃ駄目だよ、秀樹君」 「い、一緒に! 一緒にいてくれ!!」  秀樹の問いには答えず、恵里は手を差し出した。伸ばされた恵里の手を、秀樹は力を込 めて掴む。掴んだ感触はなかったが、確かに恵里の手を取っている気がして、秀樹は満ち 足りたといわんばかりの表情を浮かべる。  実際には凍えていたためにほとんど顔の筋肉は動いてはいなかったが。 「さあ、歩いて帰ろう? 私はいつも一緒にいるからね。橋の伝説の通りに」 「……恵里ぃ」  秀樹は泣いた。  夢でも幻でも、恵里は今、目の前にいて自分を元気付けていてくれている。  恋人が死んだ事で絶望の淵にあった自分を励ましてくれている。  少しだけ、ほんの少しだけ秀樹は自分の中に生きる力が生まれた気がした。 「うん。帰るよ。一緒に、いてくれるだろ」 「うん。一緒に帰ろう」  恵里は更に秀樹の腕を引っ張って、橋の真ん中へと連れ出す。  そこで聞こえてくる大きな音。  ようやく聴力を取り戻した秀樹が音に反応した時には、すでに目の前に車が迫ってきて いた。
* * * * *
「また事故か。ガイシャは傘も差さずにここで何してたんだ?」  須藤は無精髭が茂っている顎を手で摩りながら呟いた。四十に差し掛かっているにも関 わらず嫁をもらっていない彼は、容姿にはあまり気を配っていない。髪の毛が薄くなって きていることだけが、悩みの種である。ここ一週間ほど洗っていないスーツの上に来た汚 れたコートが水分を吸い込んで重くなった気がしていた。むろん、そこまで安物ではない のだが。  人を轢いてしまったと通報を受けた時にはまだ降っていた雨もすでに止み、青空が須藤 達を見下ろしている。空を見上げて息を吐いた後で、須藤はまた青シートに包まれている 遺体に眼をやった。  シートを被せる前に見た遺体。三日前にも同様の遺体を見ている。  その時は高校生の女子だったが、今回倒れている少年も同じくらいの年齢だろうと須藤 は当たりをつけた。 「須藤刑事!」  須藤のもとに駆けつけてきたまだ二十代であろう若い刑事は、須藤に敬礼してから手帳 を開いた。 「ガイシャは天野秀樹。十八歳。成城東高校の生徒ですね。轢いたという若者によります と、急に橋の真ん中に出てきたため、ブレーキが間に合わなかったという事です」 「……そうか」  須藤は倒れている男子――秀樹の顔の傍にしゃがみこみ、上に被せてあったシートを捲 った。そこには仰向けに倒れている秀樹。雨の中を傘も差さずに歩いていた彼の体温は確 実に奪われていたのだろう。肌が死んだ直後にしては青白い。  体温をかなり奪われていた証拠だった。 「めったに人が通らない橋で、同じような交通事故か。もしかしたらこの男、三日前に死 んだ女の子と関係があるのかもしれないな」 「……もしかして恋人かもしれませんね」 「何か知ってるのか? 松田」  何か意味深な口調で言った若い刑事――松田に対して少しきつい口調で須藤は問い掛け た。予想以上にきつい口調になったと須藤は思ったが、特に言い直す必要性も感じない。  松田も須藤の内心を理解したのか、特に臆せず説明した。 「少年課にいる同期の奴に聞いたんですけど、学生達の間でこの橋は有名なんです。この 橋の真ん中で告白すると一生一緒にいられるっていう」 「……よくある話だな。今時の若いもんは妙に冷めてる奴が多いが、そういう迷信を信じ る若者もいるんだなぁ」 「須藤さん。凄く年寄り臭いですよ」  話を終えると松田は笑って橋を封鎖している刑事の下へと歩いていった。現場検証もさ ほど時間がかからないので、もうすぐこの場所から撤退するだろう。あとは控えている救 急車にこの遺体を運んでもらうだけ。須藤達のすることはもうない。  須藤はしかし、しばらく秀樹の傍にしゃがみこんでいた。三日前と同様に事故で死んだ 男に何か不憫な物を感じていたから。 「まだ若いのに命を失って――」  と、須藤が秀樹の顔を眺めながら呟いていた時、秀樹の口元が動いた。  驚愕に声が出せず、須藤は固まったまま秀樹の口元を凝視する。  声なき声。  それは空気を伝わり、須藤の耳に届いていた。 「須藤さん! 引き上げましょう――須藤さん?」 「んあ!? あ、ああ……分かった」  須藤は松田の声に弾かれたように立ち上がると、青シートを少し乱暴に秀樹に被せて歩 きだした。必然的に松田と顔を合わせることになる。 「どうしたんですか? 顔、真っ青ですよ」 「いや、何でもない……」  須藤は松田の言葉をほとんど聞かないまま、パトカーの助手席に乗り込んだ。少し首を 傾げつつも松田は運転席に回り、パトカーを走らせる。少しずつ離れていく橋を、須藤は 一度だけ振り返ってみた。  見間違いに違いないと自分に言い聞かせていることに気付いて、須藤は落ち着くために 息を吐いた。そうすると冷静に物事を考えられるようになる。 (……一生一緒にいる、か)  松田が聞かせた青空橋の伝説の一文が頭を過ぎる。その次に浮かんできたのは先ほど見 た、秀樹の口元の動き。青白い顔に満面の笑みを浮かべた秀樹の口が紡いだ言葉。 『いっしょう、いっしょだよ、ひできくん』  そう言っているように見えた。そう、鼓膜が震えた気がしていた。
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 ……秀樹君。こんな場所に呼び出してごめんなさい。実はね、お願いがあるの……。  この青空橋には伝説があってね、この橋の真ん中でね、その……告白すると……好きな 人とずっと一緒にいられるって噂があるんだ。  ――笑わないでよ! 確かに根も葉もない噂だけど、やっぱり何人も今までより親密に なってるんだよ。まだ先は分からないけど……もしかしたら、結婚してずっと一緒にいら れるかもしれないじゃない。  だから……だから……子供だましでもいいから……聞いて、ください。  好きです。付き合ってください。  ――本当!? 付き合って、くれるの!?  泣くなって言われても……嬉しくってしょうがないよ!  ありがとう……本当にありがとう!  ……で、でさあ? いきなりだけど、お願いしていい?  今ちょうど雨降ってるし……相々傘をさ、してもらって……いいかな?  わあ! 嬉しい……こうしてるとさ、一緒にいるって感じがするんだ!  ありがとう。これからも、一緒にいてね。  一生一緒だよ、秀樹君。   『青空橋・完』


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