『そっちにはいけないの』

 綾香はいつもそう言った。

 彼女の家の周りで遊ぶことに飽きた当時の俺が、俺の家の傍にある公園で遊ぼうと言っ

て連れ出しても、途中にある信号機で必ず止まる。

『だいじょうぶだよ。怖くないから』

 俺はいつも言っている言葉を彼女に向ける。何度この言葉を言っただろうか。最初に公

園に連れ出そうとしたのはいつだっただろうか……。

 もうほとんど記憶に無い時代の出来事。

 それは彼女と仲良くなってからそんなに時間は経ってなかったように思える。

 しかし、彼女は最後までこう言い続けたのだ。

『だめなの。そっちにはいけないの』

 幼い顔を悲しみに歪ませて言う綾香に当時の俺は何も言えずにそのまま引き返し、そし

てまた彼女の家の周りで遊ぶ。

 かくれんぼ。

 おにごっこ。

 缶蹴り……。

 小学生が考えうる外での遊びを俺達はし尽くした。

 二人だけの世界。

 狭い箱庭の中に構築された世界。

 この世界に当時の俺は満足はしていた。

 でも……この世界には一本の線が引かれていたのだ。それは真っ直ぐに俺の前を通り過

ぎている、地面に引かれた線。

『ここから先はわたしの陣地ね』

 遊びのレパートリーである「陣取り」を思い出した。

 そう、これは陣取りゲームと似たようなものなのだ。

 勝手に相手陣地に入ってはいけないのだ。

 彼女は俺には優しく、親しくしてはくれたけど、最後まで自分の陣地に俺を入れること

はなかったのだった。







『境界線』







 雨の日。

 こんな雨が降っている時、綾香は死んだ。もう一月も前のことだ。

 重病に冒されたのでもなく、事件に巻き込まれたのでもなく、殺されたわけでもなく。

 ただ、運が無かっただけなのだ。

 乗っていたバスが事故を起こし、衝撃で打った場所が悪かった。ただそれだけ。

 二十歳で逝くのは本当に早いと思う。これから先、いくらでもいろんなことが出来ただ

ろうに。彼女の未来は永遠に閉ざされた。

 彼女の両親が狂ったようにバス会社を訴えている。それを話に聞きながら、そして実際

にこの目で見ても、俺の中には怒りは湧いてこなかった。

 何故?

 それは恐らく、俺の中に一本の線が引かれているからだ。

 ここから先に踏み込んではいけない。

 踏み込めば、自分は壊れてしまうだろう。

 その、あまりに強い憎悪の炎に、自らを焼いてしまうだろう。やけにあっさりとその考

えを受け入れる。

 その線が見えたのはおそらく彼女の――綾香のおかげだろう。

 そこまで考えた時、心の引出しが引かれ、傷をつけないように入れておいた彼女との想

い出が溢れてきた。



* * * * *
 常田綾香(ときたあやか)という女の子は小学校一年生の時からどこか違って見えてい た。幼稚園、保育園と言った場所から小学校に上がった当初は未知の世界に対する不安や 希望が見えているものだ。実際に俺もそうだった。  でも、彼女の最初の印象は……『恐怖』だった。  何に対しての恐怖なのかはすぐに分かった。  彼女は友達を作ることが下手だった。  いや、作ることが下手なのではない。彼女は『友達を作ろうとすること』が下手だった。 けして人付き合いが下手なわけでもないし、積極的に自分に与えられた仕事もこなしたし、 同じ小学一年生とは思えないくらい優秀だったと思う。一歩前に踏み込んで自分から友達 を作れば、彼女を嫌う人などよほど性格がねじまがっているとしか思えないほどだった。  でも彼女は、入学から一月経っても誰とも自分から話そうともせず、ほとんどの時間を 一人で過ごした。一部の男子からはいじめの対象にもされた。  先生が当初から彼女の様子には気付いていて、生徒達にも充分注意を促していたからそ んなに酷いものにはならなかったが。  だから、俺が近づいていった時も彼女は怯えたような目で俺を見ていた。 『ねえ、一緒に遊ぼうよ』 『……え?』  差し出された手を取りたい。でも拒絶が怖い。  そんな目をしていた。  どうすればそんな目が出来るのだろうと、当時の俺は思った。今では、綾香自身に理由 を聞いたから分かるのだが、当時の俺はそんな事は分からずに半ば強引に彼女の手を自分 から取った。  最初に遊んだかけっこで彼女の足の速さに負け、次に遊んだ缶蹴りで俺は勝った。  ただそれだけだったのだが、今まで友達と遊んでいた時よりも楽しいことに気付いた。 『楽しかった?』  俺が尋ねると彼女は考えるように俯いた。この時、俺は心の中で願っていた。彼女が否 定しないようにと。 『うん。楽しかった』  その言葉を聞いてどれだけ嬉しかったことか。俺は舞い上がってしまって、今度も共に 遊ぼうと言うと、彼女は困った顔をしつつも、こう言ったのだ。 『また、あそぼ――』  それは初めて振り絞った、彼女の勇気だったように思えた。
* * * * *
 しばし雨を見ていたが、少しして俺は雨から目を離して部屋を横切る。  辿り着いた本棚の中にしまってあったアルバムを取り出した。  もう埋まることのないアルバム。  そもそも高校を卒業してから会う頻度が激減したから、普通に過ごしても最後まで埋ま ることは無かったのだろうが。  それは彼女との思い出の記録だ。  中学生に上がってから撮り出した写真。  もう小学生のように外で一緒に遊ぶことが出来なくなったからと、俺は写真を選んだ。  休日、様々な所へと自転車を走らせ、風景を写真に収める。  隣には綾香がいた。  背中まで伸びた髪を首のあたりで一括りにした様子は俺の中に普通の友人とは違う感情 を起こさせるには充分だった。  実際、綾香はその綺麗な容姿により入学当初から目立っていた。  何度も申し込まれる交際の手続き。  しかし、それらを全て綾香は断っていた。  何が彼女をそこまで頑なにしていたのだろう?  いや、その理由がなんであろうと、俺は自分ならば彼女の心痕を消すことが出来るのだ と信じていた。彼女にとって俺は特別な存在なのだと信じていた。  だからこそ、自分の想いを伝えた時に返された言葉に、俺は衝撃を受けた。 『伸也とは付き合えない。そっちにはいけない』  自分と付き合えないという言葉は覚悟というほどでもないが、その言葉を聞くかもしれ ないと思っていた。男が告白して、実は相手も自分が好きだったなんてドラマや漫画の中 でも今では使われないようなレトロな状況を思い込むほど馬鹿ではないつもりだったから。  しかし、幼い頃に聞いた『そっちにいけない』という言葉が今出てくる事の意味を、俺 は理解することが出来なかった。 『どういう、意味だよ。そっちにはいけないって』  綾香はとても辛そうに顔を歪ませて、こう言ったのだ。 『わたしは絶望を知ってる。これ以上期待すると裏切られた時の絶望感に耐え切れないっ て言う境界を知ってる。こんな女じゃ、人と付き合えないよ』  絶望の境界線。  踏み出した先にある、底なしの暗闇。  彼女はそれを知っていると言う。でも、その時の俺にはその言葉の意味が分からなかっ た。俺は、絶望なんて知らなかったから。 『伸也は良いよね。わたし、そんな伸也が好きだよ。だから、伸也はそのままでいてね』  笑った彼女。  でもその笑みが氷のように冷たいものだと、すぐに俺は気づいた。  悲しい笑み。  正にそんな形容詞を付けたくなる笑顔だった。 『……分かった。確かに俺には綾香の絶望なんて理解できないよ。支えることは出来ない な』 『ごめんね』 『いいよ。ただ、理解できるようになる努力はするさ』  俺が言った言葉に綾香はかなり動揺したようだった。それも無理は無い。俺の想いに応 えられない綾香に対して、なお好意的な返事を俺がしたのだから。  彼女の視線は動揺を通り越して何か得体の知れない生物を見ているかのような物になっ ていた。 『どうして? どうしてそんなに優しくしてくれるの?』 『何でって……あんまり嫌われたくないだけだよ』  その時の俺の顔は告白する時よりも赤くなっていたことだろう。別に特別な理由なんて 無い。ただ、彼女に嫌われたくない。それだけだった。  特別な理由なんて無かった。  恋愛対象になろうとそうではなかろうと、ただ、彼女の中に居場所が欲しかった。  なんて後ろ向きな気持ちだろう。  でも綾香にはそんなことが信じられなかったのか、しばらくの間、俺を凝視していた。  自分が特別な理由無しで愛されるわけが無い。  そう思っているような顔。 『……人間さ、そうなんでもかんでも特別な理由があるわけじゃないと思うよ』  だから俺は言った。俺が思ったことを。 『難しく考えすぎてるよ、綾香は』 『……伸也は考えなさ過ぎかもね』  綾香は俺の考えに納得したわけじゃないだろう。彼女は彼女の中にある『絶望』のため にすんなりと俺の言葉を受け入れることが出来ないのだろう。でも、彼女は笑った。今度 はあの悲しい笑顔ではなく、心の底から安堵している顔。  その顔を見ることが出来ただけで、十分だった。  それから、俺達は一定の距離を置いた友人となった。二人で遊びにいくことも、両親が いない時に片方の家で泊まったりもした。  でも、けして俺は彼女を異性として接しはしなかった――ようはカップルのするような 事だが――普通の友人達の関係を保った。当然、俺は自分の理性を抑えることに必死にな る事もあったし、平坦な道じゃなかった。  でも、綾香との関係はそうするに足る物だと思ったのだ。  その内、お互いに恋人が出来たことでかなり疎遠となった。彼女が恋人に出来る人が見 つかったことは素直に喜び、祝福した。一方彼女も、俺に恋人が出来たことを自分の事の ように喜んでいた。  それでも、俺達は友人を止めなかった。  恋人との関係も、自分達の関係も続けていこうと誓い合っていたのだ。  その矢先の、彼女の死だった。  彼女は抱えていた絶望を、結局最後まで自分の中に押し込めたまま逝ってしまった。  彼女との想い出を一通り振り返って、俺は自分の過ちを知った。  目の前に引かれていたはずの境界線が、いつの間にか自分の後ろにあることに気付いた からだ。  ああ、俺は境界を越えてしまった。  彼女の想い出を振り返ることで、彼女を失った喪失感が、自分の中に憎悪の炎を沸きあ がらせる。  最後の一歩を踏み出させる。  しかし、その炎は俺を焼かなかった。  その炎は俺を焼きはせず、俺の周りに焚かれているだけ。  炎は熱くなかった。  逆に冷え冷えと俺を包んでいく。  自分でも分かっていたのだ。いくら相手を恨んでも彼女が甦るわけではなく、自分を追 い込んでいくだけなのだと。  彼女を失った悲しみを、自分で乗り越えるしかないのだと。  そこで、俺は彼女の抱えていた絶望に対しても同じ事が言えると気付いた。結局、綾香 も自分の中の絶望を自分で乗り越えるしかなかったのだろう。  人はそんなにはっきりと絶望の境界線など見えはしない。いつしか踏み越えて、ある人 は狂気に落ち、ある人は未来の希望に思いを託して生きていく。  彼女はその境界線を人よりも明確に見つけることが出来た。  だからこそ、逃げていたとしてもいつかは踏み越えなければいけなかったのだと、俺は 思う。  彼女には踏み出せなかった一歩は、実はほんの少しの勇気を持てば得られたものだった んだ。あの、初めて俺と遊んだ時に出した勇気くらいの物があれば良かったんだ。  信号機と道路に隔てられた先には未知で恐怖が満ちている領域ではなく、より楽しい、 新しい世界が待っていたんだ。 『そっちにはいけない』  いまや、その言葉は俺が彼女に伝える立場となってしまった。でも、綾香に俺が導きだ した答えを伝えたかった。  いつしか雨が上がった空を見て、俺は綾香を思った。  今度、彼女の墓前に行くときにちゃんと伝えよう。それが天にいる彼女に届くように。  そう思いながら、俺はいつしか泣いていた。その場にうずくまり、嗚咽を堪えるのに精 一杯だった。顔はくしゃくしゃになり、息が出来ない程苦しかった。  その涙は綾香が死んでから初めての涙だった。 『完』


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