『錆びた鎖』





 笹村真白(ささむらましろ)はぼんやりと信号を見ていた。横断歩道の信号待ちをして

いるのだから、見ているのは当たり前。だがその信号が赤から青に変わっても、彼は動こ

うとはしなかった。彼の隣を訝しげに人々が過ぎ去っていく。

 秋の夕暮れ。

 夕日に照らされた交差点は紅く染まった一つの世界。

 その中で自己主張するかのように影が伸びていく。真白の影もまた伸びていったが、そ

こに真新しい影が重なった。その時、真白は動いた。ようやく信号が変わったのだと認識

して足を踏み出そうとするが、時既に遅く青だった信号は黄色に点滅していた。

「ぼんやりしてると危ないぞ」

「恭介……」

 真白はもう十年も呼んでいる名を紡いだ。その言葉は呪文のように自分に活力を与える。

 この男の前で不甲斐無い様を見られたくはないという気持ちが働くのだ。

 とまれ、真白は頭を振り軽く叩いた。霞がかかったかのようにぼんやりとした頭を活性

化させるためだ。

「テストも終わって一安心だからって、車にでも轢かれたらどうする?」

「車のボンネットにでも飛び乗るさ」

 真白は笑い、恭介は呆れる。信号が青になるのを確認すると二人揃って歩き出した。

 その横を女生徒が駆けていった。

「真東先輩、真白先輩さようなら〜」

「おう。気をつけて帰れよ」

「じゃあな」

 すでに三年になって引退した二人の後ろを、後輩がラケットバッグを肩にしょって走っ

ていく。その様子を見て真白は一年前の自分を思い起こした。思えば自分もあんな風に元

気がよかったのだろうか。部活に青春をかけていた一年前。

 そして今年、高校時代最後の公式戦も終わって引退が決定した瞬間、全ての気力が失せ

てしまったかのように体から力が抜けていった……。

「ほら、ぼんやりするな」

 襟口を引っ張られて立ち止まる。真白はいきなりの事に抗議しようとしたが、目の前を

車が通って行った事に驚いて何も言えなくなる。

「お前は昔から考え込む癖があったよな」

「……まあな」

 真白は一度下を見、自分の思いを確かめるように頷くと恭介に対して鋭い視線を向けた。

その視線の力強さに恭介は少しうろたえた。そこまでの視線を真白が向けてきたことを、

恭介は記憶の中から思い起こすことは出来なかったからだ。

「恭介。勝負しないか?」

 秋風が吹き、恭介の顔を冷気が撫でる。それは恭介の中に生じた冷え冷えとした気持ち

の現れだったのだろうか? そんな内心の考えを知らずに真白は言葉を続けてくる。

「明日の十時。市民テニスコートに来てくれ」

「勝負ってやっぱり……テニスか」

「あったりまえだろ! 逃げるなよ〜」

 真白は先ほどまでの張り詰めた気配を拡散させて恭介の肩に手を置くと、青信号をきち

んと確認して走っていった。真白は横断歩道を渡りきったところで恭介を見る。

 恭介はまだ横断歩道を渡らずに、向こう側に立っていた。そして真白も渡った場所から

動かずに、ただ立っている。やがて信号は赤に変わり、二人の間に車が横切っていく。

 真白は恭介に背を向けて歩き出した。自分の中にある想いを確認しながら。

(明日だ。明日、俺は――)

 真白は夕日の染まる自分の体を眺めながら歩いていった。

 まるで体に纏わりつく何かを見るように。





 市民テニスコートに真白が来た時、恭介はすでにテニスウェアに着替えて準備運動をし

ていた。真白はそんな恭介を見ながら自分の中にある気持ちを抑えることが出来なかった。

 湧き上がる一つの気持ち。

 それはなんとしてもこの男に勝ちたい、という気持ち。

 十年間溜め続けてきた気持ち。

「真白。お前が挑んだ勝負なんだから先に来てろよ〜」

「悪い悪い! ここまで走ってきたからアップはいいよ」

 真白は自分のラケットバッグから愛用だったラケットを取り出す。夏までは公式戦で活

躍していたラケット。自分の二年半が詰まったラケット。

 そして――

「このラケット、初めて俺自身が選んだんだよなぁ」

「……そうだったな」

 真白と恭介がネットを挟んでテニスコートの中央まで歩いて行く。朝のために少し肌寒

い空気も今の二人の火照った体にはちょうどよく、ほどよい温度に冷やしてくれる。真白

は充分すぎるほど落ち着いている自分に満足していた。

「中学の時は、お前に選んでもらったよな。お前の選ぶラケットってどれも俺にぴったり

でさ。恭介、俺の事を俺以上に分かってくれてるって嬉しかったもんだよ」

 テニスコート中央で向かい合う二人。その瞬間、言葉が止まった。

 恭介の目には真白が映っていた。

 いつもの自分の位置ではなく、一対戦者としての真白が。その事実に気づいた時、真白

の中には奇妙な安堵感が生まれた。

 自分を対等の相手と見てくれているという安心感。

「俺達の初めての対戦か」

「……十年間避け続けた対戦だよ」

 握り返される手に予想以上の力がかかっている事に、真白は思わず弱気になる。しかし

更に恭介の手が強く握り締める。

「十年間分、ぶつけてきな」

 その言葉で真白の弱気が完全に消えた。恭介に負けないように手を握り返す。自分の思

いを受け入れてくれた恭介に全力で応えるために――いや。

「お前を、超える!」

 サーブ権を獲得した真白はサービスラインからボールを放り上げ、渾身の力を込めて相

手コートに打ち込む。スライス回転がかかったボールは低い弾道で恭介のコートを跳ねて

いった。一歩も動けずにボールの行方を見送る恭介。

「どんどん行くぞ!」

 力を抑える事なくサーブを打ち込む。次々とサービスエースを奪い、一気に第一セット

を奪取する真白。恭介を見据えて真白は叫ぶ。

「ぼんやりしていると、一気に押し切るぜ!」

「――やってみな!」

 恭介の目に光が灯ることを真白は見逃さなかった。





 試合開始時、まだ長かった影がいつしか短くなっていた。太陽の位置がより高くなった

からだが、その太陽の下にいる二人には時間の経過など関係なかった。

 繰り返される、ボールを打つ音。

 コート上を走ることで起こる、シューズの底が擦れる音。

「おらっ!」

 恭介が渾身の力を持って放ったボールは、綺麗に真白のコートの右奥へと吸い込まれた。

真白は呆然と転がるボールを見ていたが、すぐに歩き出してボールを恭介へと戻すと、サ

ーブラインまで下がる。

 真白の目に汗が入り、視界が滲む。同じく汗で濡れた腕で目を擦り、痛みを我慢しなが

らも真白は恭介の一挙一頭足を逃さず見ようと必死だった。

 手に持つテニスラケットを持ち続けることも困難になるほど、彼の体は限界に近いとこ

ろまできている。だが、真白はそれでも闘志は失っていなかった。

(初めて会った時から感じていたんだ。お前が俺の名を呼ぶたびに。お前が俺の前で悪友

をしかるたびに。共に遊ぶたび、一緒にいるたびに……)

 恭介から放たれるサーブが真白の足元に突き刺さる。もうほとんど反応することさえで

きない。そんな真白の状態が分かっているのか、恭介は真白の後ろに転がるテニスボール

を取らせはせずに、自分で用意した新たなボールをコートに何度かつきながら間を取る。

(俺は……俺は……)

 真白は恭介を見据えながら、視界には別の物が見えていた。

 過去から現在に至るまでに自分の中に生まれては、残り続ける汚物。

 黒く汚れたそれから目を背けながら生きてきた真白。

 自分の名前とは裏腹に、堆積していく黒い物の存在を知りながら、生きてきた真白。

 それが恭介を通して今、はっきりと見えていた。

 次なるサーブも真白は反応できず、ついに恭介のマッチポイントとなった。もう一度、

コートにボールがつきさされば、真白は負ける。

(俺はお前に劣等感を感じていた)

 一生かかっても自分は恭介に勝てないのではないか?

 いつしか、そんな危機感が真白の中に生まれていた。

 自分は一生、恭介に対して劣等感を抱いて生きていかなくてはいけないのだろうか?

 嫌いではなかった。

 むしろ好きだった。

 共にかけがえの無い思い出を共有していた二人。しかし真白の中の汚物はついに彼を捕

らえる事になった。

(俺は気付いたんだ。俺を縛る、鎖を……だから、負けるわけにはいかない!!)

 風が、流れた。

 恭介が最後の一打を放つためにボールを高く空へと上げた。瞬間、真白の意識は研ぎ澄

まされ、恭介が放つボールの軌跡がはっきりと見えた。

「おあああっ!」

 真白はラケットを両手で持ち、渾身の力を込めて恭介のサーブを打ち返した。

 まるで何かをふっきるかのように、断ち切るように、自分の全てを込めて打ち返す。

 その球のスピードはこの試合の中で最高の物だった。

 恭介は一瞬反応が遅れ、サーブラインから動くことができない。

(いけぇ!)

 真白が心の中で叫ぶ。





 そして――真白が放った球はコートを隔てるネットに突き刺さった。





 ネットにより力を吸収されてコートに転がるボール。

 ネットに隔てられた両者はしばらく動くことができなかった。

 やがて止まっていた時を動かしたのは甲高い音。

 真白がコートにラケットを取り落とした音だった。

 呆然とラケットを見る真白。冷たい風が真白の足を撫でた。

「――セットカウント6−1、6−0。ゲームポイント2―0。俺の勝ちだな」

 風と共に聞こえてきた声。

 気付けばコート中央に恭介が立っていた。真白はラケットを取り上げてふらつきながら

も中央まで何とか辿り着き、挨拶をした。

「……ありがとう、ございました」

 完全な敗北。

 完膚なきまでに敗北した真白。

 そして真白はコート中央で崩れ落ちた。足は痙攣し、力が入らないらしく何とか立とう

としていた。

 そんな真白を見かねて恭介はネットを跨いで隣に腰を下ろす。

「さあ、掴まれ」

「ほっといてくれよ」

 真白はよろけながらも何とか立ち上がり、自分のバッグがおいてある場所まで歩いて行

く。その後姿を見ながら恭介は声をかけた。

「どうして黙ってた?」

 その言葉で真白の動きが止まった。続けて恭介は真白に近づき、肩を掴む。

「転校すること。どうして黙ってた?」

「……うちの親も口が軽いよなぁ」

 真白は恭介の顔を見た。その顔は汗と涙で濡れていた。必死に込み上げてくる嗚咽を抑

えようとする真白を、恭介はそのまま見つめ続けた。

「十年間、お前に勝てなかった……ずっとずっと、背中を見続けてた。そして俺は、お前

に勝つことを……諦めてた」

 コートに座り込んで拳をコートに叩きつける真白。心底悔しがっていることが分かるか

らこそ、恭介は何も言えなかった。ただ彼が発する言葉を待っていた。ただ、冷たい風を

感じた恭介は真白のバッグの中から彼のジャージを取り出して真白の肩にかける。

「でも、俺の中にお前に対する劣等感が生まれてきた……。もう、お前に守られてるだけ

なんて……縛られていたくなかった」

「縛る?」

 恭介がその単語を聞き返すと真白は涙を拭いて立ち上がった。流石に寒くなったのか、

恭介は汗を拭いて私服に着替える。その間に真白も汗を拭いてウェアから私服に着替えた。

 時刻は正午。ほぼ二時間試合をしていたことになる。

 大差のスコアにしては時間をかなり要していた。

「お前は俺を縛る鎖なんだよ。確かに、恭介のおかげで俺は今までいろんなことを頑張れ

た。とても感謝してるよ……でも、お前を乗り越えなきゃ、俺はいつまで経ってもお前無

しじゃ何も出来ない男になってしまう! だから……お前に勝負を挑んだんだ。お前から

解き放たれるために。でも、挑んだ結果がこれじゃなぁ……」

「そんな錆びついた鎖に何考えてたんだよ」

 恭介の言葉の意味を飲み込むことに、真白はしばらく時間を要した。そして真白が理解

する前に恭介は真白の胸座を掴み持ち上げる。その顔は少しの苛立ちが見えた。

「俺が鎖になってお前を縛ってたって? そうなら、お前は既に鎖を解いてたよ。お前が

ラケットを自分で買ったときにな」

「あ……」

 真白は自分の傍に置いているラケットを見た。そして二年半前、高校に入学する直前に

行ったラケットショップでの事を思い出していた。

 恭介に選んでもらう事が少しだけ憎らしくて、自分で恭介にこのラケットを買うと言っ

たのだ。



『このラケットにする!』

『いいのか? 俺が選ばなくても』

『俺のラケットなんだから俺が選ばなくちゃなぁ』



(どうして忘れていたんだろう……。俺は、自分の意志で。ちゃんと自分の意志でラケッ

トを買っていたんだ)

「あの時さ、俺、寂しかった。弟分が俺から離れていくなぁと思ってさ。確かに俺はお前

を守ることに使命感――みたいな物を感じてたのは事実だ。優越感を抱いてたのも否定し

ない。でも真白は真白だし、弟じゃないし、そんな感情抱いちゃいけないよなと思って反

省したんだぜ。それからはお前を弟分じゃなくて、一人の友人と思うようにしてたんだ」

「そう……だったのか?」

「そうだよ。お前、もう鎖は切れてたのに、気付かなかったんだな。とっくに錆びた鎖が

まだ真新しくて、自分を縛り付けてると思いこんで。今まで俺に劣等感を抱き続けてきた

んだな。望めばいつでも鎖を切ることが出来たのに」

 恭介の言葉が真実を告げていることを真白はようやく理解した。自分が、恭介への劣等

感のために、すでに鎖が自分を縛る力を無くしていることに気付かなかったのだ。

 その事実を理解して、真白は再び涙を流していた。悔しさからの涙ではなく、嬉しさか

らの涙を。

「転校するって言っても、すぐに大学生だろ。テニスを続けていれば、どこかで会えるん

じゃないか?」

「そう、だな……大学の対抗戦とかで会えるかもな」

 泣き顔の真白と神妙な顔をしていた恭介は同時に笑った。自分を縛っていた鎖から解き

放たれた真白と、真白を縛り付けていた事実から解き放たれた恭介。

 二人は今、本当の笑顔を得ることが出来たのだろう。

「腹減ったな。どこかで昼飯食べてくか」

「そうしようか。じゃあ、今日は真白のおごりな」

「あー! ずるいぞ恭介!」

「試合に負けたからそれぐらいいいだろが!」

 二人はバッグを背負ってお互いに軽く体を突きながら歩いて行く。その足取りがいつも

よりも軽いと共に感じながら歩いて行く。

 それは軽くなった心の分なのだろう――





 そして真白は新天地へと旅立った。恭介との試合は結局勝てず、彼を超えることは出来

なかったが、それでも真白の顔は晴れ晴れしていた。

 彼を縛る鎖はもう存在しない。

 もう真白は飛び立てる。広がる空に。

 再び恭介と道が交わる日を夢見て。

 今度は恭介を越えることを目指して。

 新天地から恭介へと当てられた手紙の最後にはこう記されていた。



『今度は俺が昼飯をおごらせてやる』



 そこに、劣等感の影は少しも見えなかった。





『錆びた鎖・完』





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