『心の器』





 雪が降り積もった道の中央。

 そこに倒れている黒猫は、柊良人(ひいらぎよしと)の目に自然と飛び込んできた。良

人は立ち止まって何気なく前後左右に首を回し、最後に上を見上げる。

 二月に入って気候は徐々に春先に向けて転がり始めたようで、数日前の大雪の後から雪

は全く降っていない。今も良人を照らす陽光は、確実に積もった雪を削っていた。

「これからデートだってのに……不吉な」

 車通りが全くない道路とはいえ、道路のど真ん中で腹を見せて寝ている猫を見ると誰も

がひき逃げかと思うだろう。だが良人は猫の腹が微かに動いていることに気づき、ほっと

して息を冬の寒空に吐いた。沈みかけた気持ちを立て直し、綺麗に丸みを帯びた頭部を右

手で撫でた。

 髪の毛を伸ばすよりもすっきりしていて良いと、小学一年から高校二年現在まで続けて

いる坊主頭。そして同級生よりも少し大柄な身体。そのような外見のため、良人は女の子

に「ダサい」「眩しい」「むさい」などと言われ続け、多感な年頃の男子としては悔しい

思いをしてきた。それでも外見を変える気にはどうしてもなれず、今日まで過ごしてきた

良人にとって、今日のデートは人生の転機となるはずだった。

(思い切ってラブレター出して正解だった……)

 思考を腹見せ猫から再び想い人へと移す。

 軽くスキップをしながら猫を避けて道を進もうとしたその時――

「おい、貴様」

 太く低い声が聞こえ、良人は背筋が凍りつくような感覚に襲われて立ち止まった。咄嗟

に周りを見回してみても、並んでいる家からは誰も外に出ていない。窓からでも声をかけ

られたのかと視線を上げてみても、顔を出している人間はいなかった。

(なんだろう)

 周囲の住人の一人が窓を開けて自分に呼びかけて、すぐに家の中に引っ込んだのかと良

人は考えたが、その割には窓を閉めるような音は耳には届かなかった。その場で首を傾げ

るも、気のせいだと言い聞かせて足を進めようとする――

「おい貴様。そこの太陽と勝負できそうな頭」

 今度は確実に声の方向が理解できた。良人はゆっくりと顔をそちらへと向ける。そこに

は自分を見ている黒猫がいた。先ほどまで寝ていたからか、黒猫は大きくあくびをして頭

を下げると身体を伸ばす。前足の爪から尻尾の先まで伸びきってから、四本足でバランス

の良い立ち方へと戻った。

「な……なんだよ、お前」

「名乗る前に頭をこちらに向けるな。私の黒い肌が反射光で焼ける」

 黒猫は本当に眩しいかのように目を細めながら、良人のほうへと少し近づいた。どうや

ら太陽光が良人の頭を経由して地上に届く範囲の内側に入ってきたらしい。良人は動揺し

たままだったので、黒猫の指示に従い、目線だけ下に向けた。

「おおおおおおまえ、何なんだよ!」

「私の名を問う前に、まずは貴様が落ち着くが良い。深く息を吸うなどしてな」

 黒猫の声は先ほどとは違い、低く深いが甘さを持っていた。常態で聞いたならば耳に残

る心地よさに震えていただろうが、今の良人にはその余裕はない。黒猫のバリトンに即さ

れて、良人は何度か深呼吸した。黒猫は「吸って、吐いて。吸って、吐いて」と良人の呼

吸に合わせて声でリズムを取る。そして、リズムを徐々に上げていく。

「吸って吸って吸って吐いて吐いて吸うと見せかけて自分の唇を吸え」

「すーすーすーはっはっはっすはっ!? って、何なんだよ!」

 良人は口内へ入る息と、口外に出る息がぶつかり合ってむせてしまう。道路にしゃがみ、

涙目になりながらも目線を黒猫に移した。黒猫は右前足を舐めながら良人を睨みつける。

「貴様。『何なんだよ』しか語彙はないのか? どうやって人と会話しているのだ?」

「心の底から余計なお世話だよ……」

 軽いめまいを覚えて良人は頭を垂れた。ため息をつくと先ほどまでの動揺が収まり、代

わりに疑問が浮かび上がってくる。良人は目の前の黒猫を見てから頬をつねり、頭を軽く

叩く。

「どうした? と、その前にその頭を私に向けるんじゃない。殺戮兵器となりうるぞ」

「何……どうしてさ、お前、話してるの?」

 また『何なんだよ』と言いそうになり、良人は言葉を変えた。その問いかけは彼の中に

ある疑問を全て凝縮したものとなる。黒猫はようやく気づいたかと言いたいのか、鋭い瞳

を更に細めて、笑ったようにも見えた。

「私はハーミットという。前に飼われていた時はそのような名前だった。まあ、名前はさ

して問題ではないな」

「だから……どうして話せるんだよ」

 猫が話すなどということは非現実にもほどがあるが、良人はすでに動揺を覚えることは

なくなっていた。何故なら黒猫――ハーミットと話していると、とても猫と話しているよ

うには思えず、一人の人間を相手にしているように思えたからだ。『猫が話す』という違

和感をハーミットの存在感が上回り、『ハーミットだから話せるのだ』という根拠のない

結論に至ってしまう。かの黒猫がどうして話せるのかという疑問は、人間はどうして話せ

るのかと同列の無意味な物のように、良人には思えた。

 ハーミットは前足で顔を何度か拭ってから言う。

「話せば長くはならないがめんどくさい。それに、まずは貴様に言わねばならぬ事がある」

「……何?」

 自分の疑問をはぐらかされて少し苛立ちを覚えた良人だったが、ハーミットの言葉に含

まれる物が微妙に変わった事を感じ取って、身構えた。次に来た言葉は確かに彼を驚かす

には十分だった。

「貴様がこれから会いに行く相手は危険だ。どうしてかは分からないが、貴様は罠にかけ

られる」

「は?」

 それはあまりに唐突で、理解しがたいことだった。

 話すだけではなく、自分がこれから誰かに会いに行くことまでも悟っており、その相手

が良人を騙すという。良人は初めは困惑し、そして……怒りがこみ上げてきた。顔が熱く

なり、ハーミットに対して怒鳴りつける。

「坂下さんが俺を騙すだって!? そんなことするはずないだろっ! 猫のくせにいいか

げんな事言うんじゃねぇ!」

 良人の言葉に実態があれば、間違いなくハーミットを押しつぶしていただろう。そこま

での激情だった。だがハーミットは言葉の圧力にも全く動じず、後ろ足で頭を掻きながら

良人へと答える。

「貴様は我々黒猫がどうして『不吉の予兆』だと言われているか分からないのか」

「……そうだな。お前のせいで気分が最悪だよ。すでに不吉だ。お前が運んでくるんだろ、

不幸を!」

 良人は激情に駆られ、ハーミットへと足を一歩踏み出した。拳を力の限り握り、これか

ら会う相手を侮辱した化け物猫を殺す気で殴ろうと。だが、ハーミットはそんな良人を視

線一つで硬直させた。視線に気圧されるようにして良人は足が一歩、後ろに下がる。

「我々黒猫は、貴様等人間に不幸を運んでいるのではない。我々には見た人間に降りかか

る不幸を感知する能力があるのだよ。無論、人間の世界のことは理解できないから、不幸

の種類は輪郭のぼやけた姿を見るような物となる。だから目の前を通って警告するのだよ。

とにかく気をつけろと」

「……じゃあ何か? お前はこれから俺が騙されるから止めたほうがいいってことで来た

のか?」

「そう言った積もりだったが?」

 良人は深く息を吐くと空を見上げた。

 空は、青い。

 今日という日を良人に楽しく過ごさせてあげようと演出しているかのような天気である。

 猫の言うことに本気で耳を傾けている自分は周りにどう映っているのかと考えて、良人

は笑った。その声が思ったよりも乾いていることは理解していたが、ある程度笑い続けて

から良人は前を向いて歩き出した。

 ――目指していた方向へ。

「分かっていても、あえて行くのか」

「猫なんかの言葉は信じない」

 そもそも猫が話すこと自体が異常であるのだが、もう良人はそれを振り返る余裕がない。

良人はハーミットの言葉を頭から否定し、麗しの君のことを考え直すことに全力を出して

いたからだ。ハーミットと出会うまで思考を占めていたデート相手。学年でも有数の美女

であり、その小さくちょうどよい肉付きの身体を抱きしめることを夢見ていた良人。もし

かすると、夢が実現する第一歩になるかもしれない時を、良人は誰にも邪魔されたくはな

かった。

「正確な判断を望む」

 一際響いてくる重低音が良人の耳を刺激し、後ろへ身体を引っ張る。その圧力を一歩一

歩道路に積もる雪を踏みしめることで打ち消し、良人は立ち止まらずに進んでいった。



* * * * *
 坂下優美(さかしたゆうみ)は良人の姿を見つけると、穏やかな笑顔を向けながら手を 振った。  喫茶店の窓際の席。  窓ガラスによって少し姿が曇って見えても、優美が頭につけてある白いカチューシャや、 少し大きい瞳を細めて生まれる優しく暖かい笑みは、良人の心を掴んで離さなかった。良 人は足を速めて喫茶店に入り、優美の向かいに腰を落ち着ける。少し急いだことで乱れた 息をコートを脱ぎながら整えて、第一声を発した。 「こ、こんにちは!」  その音量の大きさに店内の客やウエイトレスが何人か振り返る。しかし良人は目の前の 女の子に目を奪われていて気づかない。 「……やだぁ。柊君、なんでそんなに緊張してるの?」  口元に右手指を近づけてクスクスと笑う優美を見て、良人は体中の血が頭部に結集した ような感覚に襲われた。おそらく今、自分の顔は真っ赤だろうと思っているが、理性で抑 えられる物ではない。その良人の様子を見たからか、優美は抑えていた笑い声を少しだけ 外へともらした。 「あは! 柊君って面白いよね」  その言葉は良人の緊張をほぐすことにはならなかった。更に身体を硬直させ、良人から 言葉を失わせる。しかし、それは悪感情ではなく、感動による物だった。 (坂下さんは……『俺』を見てくれているんだ。見た目の俺じゃなくて、本当の俺を)  良人は外見そのままに怖い人物だという風評が多い。  運動系の部活に入っているわけではないのに趣味で体を鍛えているため、同世代と比べ ると筋肉のつき方が違う。その点から腕っぷしが強いだろうという予想が自然と立つ。  しかし実際には他人に暴力を振るったことはなく、どうして鍛えているのかと問われる と「筋肉を見ていると気持ちいい」と少し変わった嗜好を披露するのだ。  第一印象も悪く、嗜好の異質さから友人は少ないほうだった良人にとって、ほぼ初対面 の相手にラブレターを出したことは一世一代の大博打だった。だからこそ、ラブレターの 返事が返って来て、更にデートの申し込みまでされたことに良人は感激していた。そして、 目の前の可憐な花のような女の子は、良人を外見で判断していない。  天にも昇るような気持ちとはこのことだと、良人は感激に溺れる。 「そうだ。はい、これ」  感動に放心状態だった良人は、目の前に差し出された箱に意識を戻された。  それはピンク色の包装紙でラッピングされた箱。赤いリボンが巻かれていて、ハート型 チョコをイメージしたようなシールが貼られている。 「バレンタインデーだし、チョコだよ」 「あ、ああ、ありがとう!」  先ほどのように店内の客が振り向くような高い声を上げてしまい、優美は頬を少し赤ら めて顔を伏せた。良人は向けられる好奇の視線に適当に愛想を振り撒いてから、箱をしげ しげと眺めた。軽く振ってみるとカタカタと音がする。どうやら箱より少し小さいサイズ の板チョコが入っているようだ。 「あ……とりあえず出ようか! どこ行きたい?」 「うん。私ね、行きたいところがあるんだ」  良人は先に立ち上がってコートを着ると、伝票を掴んだ。もちろん、代金を自分持ちに するために。 「先に会計済ませておくね」 「うん、ありがとう。先にお手洗い行ってくるね」  優美はコートを席に置いて、トイレへと立った。その後姿を緩んだ顔で見ていた良人だ ったが、そこに低くしっかりした声が割り込んできた。 『貴様は罠にかけられる』 (……そんなわけあるかよ)  幻聴に対して頭を振って否定する。良人は不快な感情を表に出さないようにと顔に力を 込めながらレジへと進んだ。正に逆効果であり、レジで応対した女性店員は泣きそうにな っていた。
* * * * *
 二人は喫茶店から出るとデパートを何件も回っていく。その間に良人の両手は数着の服 が入った袋を下げていた。いずれも優美が欲しいと眺めていた物である。商品に向ける期 待の視線を察知した良人は自ら「買ってあげる」と言い出して、財布から次々と夏目漱石 や樋口一葉が旅立っていったのだ。 (ここ二ヶ月は極貧だな……)  二か月分の小遣いを前借してきた良人の財布の中身は、すでに二月の冷たい空気の割合 が多くなっていた。具体的に言うと自動販売機で飲み物を三つしか買えないほどまでに。 一時過ぎに優美と会って、今は四時。そろそろ時間的にも別れの時間だろう。そうなれば 何とか今日を乗り切れると良人は心の片隅で安堵していた。  その時、優美が思い出したように声を上げた。 「あのね、もう一つだけ行きたい所があるんだ。いい?」 「うん。いいよ」  金がかかるならば勘弁したいと内心で思いつつ、そんな情けない事は言えないと良人は 本心を押し殺した。一緒に居たいという事も本心ではあったのだが、いつしか耳の傍で同 じ言葉が聞こえ続けていたこともあり、多少弱気になっていた。 『貴様は罠にかけられる』 『貴様は罠に――』 『貴様は――』 『貴様』『罠に』『かけられる』 (うるさい!)  必死に聞こえてくる言葉を押さえつけて、良人は優美の後ろを歩いていく。心の中には 恐怖が広がっていった。嫌が応にもハーミットのことを考えるようになる。 (あいつは化け物なんじゃないか? あいつがやっぱり不幸を運んでくるんだ……折角の デートなのにあいつが変なこと言うから! ていうか、どうして猫が話せるんだよ……や っぱり悪霊か何か変なのかな。俺、取り付かれでもしたんだろうか)  混乱する思考。  ハーミットが幽霊や化け猫というような存在であり、自分に不吉を届けに来たのだと断 定してしまえばこれほど悩まなかっただろう。  だが、良人は気づかぬうちに断定を避けていた。 「ここだよー」  優美の声に導かれて風景に目をやると、そこは公園だった。  屋根付きのベンチ以外は全て雪で覆われていて、つい先ほどまで遊んでいた子どもがい たのか、ほとんどの箇所の雪は踏みしめられている。良人と優美はさしたる苦もなくベン チへとたどり着き、少し濡れたそれへと腰を下ろした。 「ここはね、思い出の場所なんだ」 「思い出の?」  尋ねて優美の眼を見た良人は、驚きで目を見張った。  優美の瞳は、涙で濡れていた。 「ここでね私、初恋の男の子に告白されたんだ。嬉しくて……だって私も両思いだったか ら。ここは私の恋の始まりの場所なの」  良人はもちろん始めて聞く優美の物語に困惑していた。  どうして自分にそんな話を聞かせるのか、意図が分からない。優美は良人のそんな思い を余所に話を続ける。 「そしてね、その恋が終わったところもここなの。ここで、別れを告げられたの。それ以 降、私には恋人がいなかった。でもね、柊君――良人君とだったら、また始められると思 ったんだ」 「それは何故?」  自分の呼び名が名前に変わったことに、良人はやけに冷静な自分に気づいていた。対し て自分に陶酔しているからか、良人が喫茶店の時に比べて緊張していないことに気づかな い優美は良人の問いに答える。 「ラブレターの出し方さ、その彼と同じだったんだ。それで、思ったの……きっと外見と か関係なく優しい人なんだろうなって」  そこで優美はベンチに座って初めて視線を良人へと向けた。涙で濡れた瞳で真っ直ぐに 良人を見る。  だが、良人の目は優美を見てはいなかった。  優美の頭部を越えて見える、公園の隅。  そこに、一匹の黒猫がいた。  そしてその傍には数人の男達が、珍しげにその猫を取り巻いている。 「良人君……?」  優美は違和感に気づいたのか、良人の視線の先を振り向いた。そして男達の姿を見つけ ると小さく舌打ちした。顔をそむけていても、良人には十分に聞こえた。 「騙してたんだな」  良人は立ち上がり、ゆっくりと優美から離れる。公園の隅にいた男達も自分達の失態に 気づいたのか慌てて走ってくる。そして優美の傍に集まった。 「ふん。もう少しで落とせたのに……この馬鹿男達! 出るのが早いのよ!」 「ごめんよ、優美。でも――」 「いいわけすんじゃねぇよ」  男達のうち一人が何かを言おうとしたところをドスの聞いた声で遮る優美。その声に即 されたか、次々と優美へと謝っていった。その数は六人。いずれも、良人が校内で見かけ たことがある男達だ。 「折角こんな回りくどいことしていたぶってやろうと思ったのに……ま、ばれたら仕方が ないわね」 「……俺をその気にさせておいて、後で笑ってやろうってことだったんだ?」 「そういうこと。一日かけて嘘のコイバナ考えるのもなかなか楽しかったよ」  良人は頭の中が冷えていくのと同時に、身体が震え始めていた。見える範囲を捜してみ ると、すでに黒猫の姿はない。猫を探す動作と身体の震えを見て、恐怖で視線を泳がせて いるのだと勘違いした優美は先ほどまでとはうって変わって甲高い声で笑い出す。 「キャハハ! 怖いの? そうよねぇ……見掛け倒しだもんね、でっかい身体のくせに大 事なところは微小なのよね〜。大丈夫。これから、ずっと貢いでくれれば痛い目にあわせ ないから」  優美の言葉が終わると共に笑い出す男達。すでに夕日の光も消えかかった公園に醜悪な 笑い声が広がる。良人はその間に一歩、また一歩と踏み出していた。あまりに自然な動作 のため、優美達の誰一人として気づかなかった。  男達の一人が突如吹き飛ばされるまで。 「――え?」  自分の隣にいた男が突如消え去ったことに呆気に取られた男は、次に来た腹への衝撃に 顔を歪ませて雪の中に顔をうずめた。その男の上に折り重なるように一人、二人と倒れ伏 す。優美を合わせて残り三人になった時点で、ようやく彼女達は状況把握に至った。  「な、何するのよっ!」 「お前らが、しようとしてたことを、したまでさ」  良人は倒れた男達四人を見下ろして、次に視線を優美達に向けた。その瞳は純粋な怒り が満ちていて、敵意を向けられた三人は唾を飲み込む。身体は硬直し、動かすことが出来 ないようだった。 「確かに俺は見かけは怖いし、趣味は少し変わってるよ。でもな」  言葉の途中で一歩踏み出すと、恐怖に背中を押されたのか男一人がわめきながら向かっ てくる。出鱈目に突き出される拳を避けて、鳩尾へと渾身の一撃を叩き込む。 「がはっ……!」  呼吸が途切れ、痛みで身体を支えきれずに自分に身体を預けた男を良人は横に放り出し、 更に一歩、優美へと近づいた。 「実は、結構強いんだよね」  右拳を片方の手で包み込み、ごきりと音が鳴る。もう片方の手も同じようにして骨を鳴 らすと最後に残った男は叫び声を上げながら逃げていった。その際に突き飛ばされた優美 は雪の中へと倒れこみ、必死で起き上がろうとするも腰が抜けたのか身動きできていなか った。良人は優美の傍にしゃがんで、顎を右手で掴む。 「お……ねが……い……ゆるし……て? 本当に……付き合う……から」  先ほどと同じように涙で濡れた瞳。  違うのは、瞳の奥にある感情が本物だということだ。  本当の恐怖。嘘の過去話をしていた時にはなかった、真実。  良人は心の中にあった怒りの炎が消えると共に、空虚が徐々に満ちることを感じていた。  思い切り顔を近づけて、呟く。 「さよなら」  良人はそれだけ言って優美の顔から手を離し、自然な足取りで公園から去っていった。
* * * * *
 良人は痛みが増してくる右手首を抑えながら、家へと歩いていた。確かに体を鍛えては いたが、人を殴ったことは今回が始めだったために手首を変にひねってしまったのだ。痛 みは徐々に酷くなり、痺れと共に良人の涙腺を刺激する。 「い……てぇ」  辺りは暗く、食事時だからか道行く人もいない。  流れる涙を拭おうともせず、嗚咽を押し殺しながら歩く良人。  だが涙のわけは手首から来る痛みだけではなかった。 (俺が……俺自身が……人を見かけで判断してたんじゃないか。そうされたくないって思 ってたのに!)  もう一つの痛み。  それは良人の心の痛みだった。  昔から苦い思いをしてきた。外見だけで判断され、なかなか友達も出来なかった。  それでも外見を変える気にならなかったのは、自分を良く知ってもらえば友達に認めら れるのだと良人自身が証明してきたからだ。自分を蔑む声も多かったけれど、自分を暖か く包んでくれる声も確かに存在したからだ。  自分を包む器の見た目が全てではないのだと良人自身分かっていたはずなのに、優美の 外見の可愛らしさをただ信じ、その結果がこの有様。  あの黒猫ハーミットの言う通りになったのだ。  良人は俯き加減だった顔を前に向ける。涙で濡れた瞳は、夜の中に微かに異物を発見し た。 「……お前が、あいつらをおびき出したんだな」 「正確な判断を望むと、言った筈だ」  ハーミットはゆっくりと良人に近づいてくる。出会った時に聞いた声音はそのままに、 その存在感が光る目を通して良人に伝わる。そこで、彼は気づいた。 (そう、か……こいつを否定できなかった理由……)  あれほど否定しようとしていたハーミットの言葉。  その言葉を繋ぎとめていた物は、黒猫が持つ瞳の力強さだった。  自分に語りかけてきた時の瞳。  その、あまりに真剣な瞳を見ていたからこそ、良人はハーミットの言葉を信じないと言 いつつ否定し切れなかった。  誠実さが十分に伝わってきたから。  不幸を運ぶ黒猫という印象からは考えられないほど、真摯に良人の不幸を止めようとし ていたことが、伝わってきたから。 「怪我をしているようだが……早期回復を望む」  ハーミットはそう言うと、そのまま良人の横を通り抜けて行く。良人は振り返り、ハー ミットの尻尾のほうへと視線を向けて言った。 「なあ……なんで、お前は話せるんだ?」  最初の問いかけであり、おそらく最後になるだろう問いかけ。  ハーミットの足が止まり、顔だけを良人に向ける。すでに暗さにより表情をちゃんと読 み取ることは出来ないが、良人はハーミットの口が笑みの形に動いたように思えた。 「元々猫は猫同士で話せる。これはお前が私の言葉を聞けている結果なのだ」 「……じゃあ、どうして俺はお前の言葉を理解できる?」  ハーミットは視線を俯かせ、少しの間考えているようだった。尻尾を何度か回転させ、 前足で顔を拭うなどしてから口を開く。 「正直なところ理由は分からない。だが思うところはある」 「何?」 「私が黒猫だから、とでも言っておこう」  答えになっていない答えを呟くと、ハーミットはもう振り返ることなく夜に消えていっ た。良人はしばらく黒猫が去っていた道を眺めていたが、鼻先に当たる雪に気づいて空を 見上げる。  降り始めた雪をぼんやりと眺めていると、徐々にその量は多くなっていく。風も出てき たことでコート越しに届く冷気に身体を震わせつつ、良人は前に足を踏み出す。  そこで、ふと思い出したようにコートのポケットへと左手を入れた。  手に当たる感触。  取り出したのは先ほど優美からもらったチョコレートの箱だった。  綺麗な包装紙で包まれて、気持ちがこもっている――ように見えたチョコレート。 「私が黒猫だから、か……」  解答にもならない言葉。  しかし良人はその言葉の中に答えを見つけたのか満面の笑みを浮かべ、箱を自然な動作 で道に落とす。 「ありがとう」  感謝の言葉を呟いて、良人は笑顔のままで落とした箱を踏み潰していた。


短編ぺージへ