キリステ様の歩む道にサヨナラを

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 小学生くらいの二人が漫画を読んでいた。男の子と女の子。顔立ちがとても似ていて、服を代えれば親でも見分けるには躊躇するだろう。実際、女の子に押し切られて男の子が着せられた彼女の服は良く似合っていたことを覚えている。男の子が恥ずかしさに耐え切れず声を出さなければ、一日は親を騙せたに違いなかった。
 二人は仲良く手を取りながら、漫画に描かれた恋愛物に夢中になっていた。隣の幼馴染の男の子に恋を続けて、ついに念願が叶う。捻りがない分、徐々に二人の距離が縮まって結ばれる様が丁寧に描かれている。ほのかに香る懐かしい匂い。
『いいなぁ』
 女の子が呟き、男の子は微笑む。愛しい相手が何かに心奪われる姿を見ることを、男の子は好んでいた。物心ついたときから。同じ環境に育ったのに変化がついたのは性が異なっているからだろう。
 双子でも、やはり違う部分はある。
 姉は前に。弟は後ろに。
 弟は、自分と同じことを好きだと言う姉を見て、自分と同じなんだと再確認することに喜びを感じていた。
『私も、こういう恋をしたいなー』
 姉の言葉に同調しようとしたところで、世界は明るくなった。
 途切れる夢。一気に消えていく幼い時の思い出。
 左掌を濡らしていた涎が糸を引かないように、乾いた部分に唇を擦り付けて、右手でポケットからハンカチを取り出す。自分のことながら器用だと思う。何かしているように見えるだろうけど、突っ伏したままで涎も拭けた。
「――久しぶりの夢だった、な」
 今の夢を思い返す。小さい時の自分を夢見たのは、多分三年ぶりだろう。中学時代は割りと頻繁に見たけれど、高校にもなると遠い過去になっていた。
 思い返している間にも、教室内の喧騒はよく聞こえてきた。それは徐々に夢の欠片を押し流していって、回想がめんどくさくなって止めた。
 ふざけた男子が蹴ってしまった机の揺れる音。その机の足が床にこすれる音。本来なら持ってきたらいけない携帯型ゲームから漏れる効果音。女子の笑い声。廊下を生徒が歩く足音。
 音の洪水に押し流されることは嫌じゃなかった。寝ている人を起こさないという最低限の気遣いに囲まれていれば、四時限の授業で疲れた身体と脳を休めながら良いことも悪いことも聞くことが出来たから。人の話を聞くことは、嫌いじゃない。
「なあ。『キリステ様』がまた男をふったらしいぜ。遂に十二人斬りだ!」
「マジで! 本当に『キリステ』様じゃないの! ひゃは。使途十二人皆殺しってか」
 どうやら、今日は悪いことがトップニュースらしい。
 少しだけ頭を上げると、窓際に立っている男子二人が見えた。きっとあいつらが言ったんだろう。人を馬鹿にしきったようなにやけ顔は嫉妬に歪んでいた。自分がモテないことに対する僻みを前面に押し出しているのは、外から見ると醜い。せめて恋人と付き合ってから言ってほしい。
 欠伸をしながら身体起こしつつ視線を移す。廊下に面した扉の傍で、三人組の女子がにやけながら同じように口を開いていた。
「ほんと、亜美って飽きやすいよね」
「『キリステ様』だしねー」
「ウザッ!」
 背伸びをして気だるさを追い払い、席を立った。これ以上、姉さんの話題を聞きたくは無かった。
「あれ、宮下ー。どこいくの?」
「どこだっていいだろー」
 精一杯笑い顔を作って、クラスメイトに手を振る。逃げることしか出来ない自分は、嫌だった。


 ◆ ◆ ◆


『キリステ様』という言葉が生まれたのは、姉さんが高校一年の六月に男子をふった時だった。相手は同じ合唱部で、少し仲が良かった男子。告白されて、自分も結構好きだったから付き合ったと、姉さんは俺へと言った。
 もちろん最初は、一緒に帰ったりするなど恋人同士らしかった。けれど、入学してから二ヶ月しか経っていない二人はすぐに互いの感覚をずらしていった。終わりは一週間後だった。
『キリステ様だから、斬り捨てるのが当たり前なんだよ!』
 ふられた男が友人に言い捨てた言葉は、ネタに飢えていた入学当初の生徒達が拾った。
 ある宗教に関わりある人のパロディ。切り捨てと斬り捨ての掛け合わせ。一週間もすれば一年男子の間にその名前は広がり、俺の耳にも入っていた。
『なー、悠太。キリステ様って知ってるか』
 まだクラス間の繋がりも少なかったし、俺のクラスは運悪く同じ中学出身はいなかった。だから平気で俺に姉さんのことを言ってきた。
 からかい。嘲り。一週間でふったということがある種の武勇伝のごとく語られる。そして不名誉なあだ名をつけられて遊ばれる。
 でも、俺は……俺だけは最初から反対するべきだったんだ。
 この時に俺が止めろと言っていても、こういう冗談は広がったのかもしれない。でも、否定しなきゃいけなかった。弟の俺まで庇わないんなら、誰が庇う――。
「宮下君?」
 かけられた声に回想が途切れた。空と、屋上の床を隔てるフェンスを掴む手が痛い。知らないうちに力が入っていたらしい。
 右隣から伸びてきたハンカチが頬を拭いてくれた。
「大丈夫?」
「あれ、えーと……なんでここにいるの? 有島」
 本当に回想でぼけっとしてたらしい。すぐ傍まで近づいてきていた人に気づけなかったんだから。
 有島梨香子は風になびく長い髪を左手で押さえ、少しだけ笑った。大きい目を細めて俺の顔をまじまじと見つめてくる。恥ずかしくなって視線を逸らす前に、ハンカチが俺の手にのせられた。
「気づいたなら自分で拭いてよね」
「あ、ごめん。もう、大丈夫だから。洗って返すよ」
「よろしく」
 受け取ったハンカチで、自分で顔に浮かんだ汗を拭く。ひんやりとした秋の風が少し大げさに身体を冷まし、震えた。
「そうそう。何でって言われても気が向いたからってしか答えられないんだけど。私も宮下君がなんでいるのか聞きたいんだけど。いつもはいないし」
 俺が言った質問に対しての答えだと気づくのにも遅れた。相当考え込んでいたみたいで、頭が中々切り替わらなかった。
 これでも十一回は来てるんだって言おうかと思ったけれど、さすがに何故なのかばれるだろう。そうじゃなくても、有島は姉さんの一番の友達なんだから、気づいているのかもしれない。
 結局「気が向いたから」とだけ言って顔を背けた。
「そうだ。また『キリステ様』が話題になってるわよ。全くそういうの好きよね、みんな」
 有島はまるで自分のことのように怒って金網を掴んでいた。三年間同じクラスで良く話していたからなのか、二人とも気が強いところが同じだからか、有島と姉さんは仲がいい。だから、有島は姉さんの恋愛の結末に群がる皆に怒りを覚えるんだろう。
「別に。亜美が男子ふろうがどうでもいいじゃないの。自分は自分。他人は他人でしょうが」
「そうだよね」
 有島の言葉が心地よい。姉さんが付き合って別れる度に、噂される度に思ってきたことが他人の口から出ることは嬉しかった。姉さんと同じ思いを共有することを実感出来た時と、その感動は似ていた。だから、口に出してしまったのかもしれない。
「初めて『キリステ様』の話題が出た時に、俺が否定してたら少しは変わったのかな」
 言ってから、後悔する。相手の答えは半ば予想できる。だから誰にも言わなかった。姉さんにも。それを有島に言ってしまったのは、完全に気の緩みだった。
 俺の言葉の意味を有島は把握し損ねたみたいだ。首をかしげて見つめてくる目には今ひとつ分からないという色がある。発言を取り消すこともできた。でも、口が動かなかった。分かりきってても、聞きたい答えがある。少しして、有島の口が開いた。
「……宮下君一人が頑張っても何も変わらなかったと思うけど」
 予想通り。
「そう、なのかな」
「うん。遅かれ早かれ亜美のあの性格なら噂になってたよ。弟だからって気の使いすぎじゃない?」
 有島の言葉は乱暴だったけれど、やはり俺もそう思う。
 それでも、罪悪感が消えない。今や姉さんは学校一の有名人だ。下級生まで姉さんにふられているからだろう。
 姉さんが高校生活の残りでどれだけ人と付き合い、ふっていくのかを誰もが楽しみにしている。それがたまらなく辛い。頭では自分のせいではないと分かってるのに、どうしてこんなに苦しいんだ。
「みんな人の恋愛をなんだと思ってるのかしら」
 有島は不服そうに顔を膨らませる。
 誰もが笑いの種にしているわけじゃない。少なくとも俺や有島は嫌だし、姉さんの友達も裏で流れている陰口を悪く思っている。だから、まだ姉さんは救われているはずだ。そうじゃなきゃ、別れた後もみんなの前では笑ったりできるものか。
『キリステ様』という称号に力を与えているのは分かっているのに。
「姉さんは、教室?」
「うん。いつも相手と終わった次の日って教室から動かないんだよね、意地でも。弱みを見せたくないのね」
 有島もフェンスに背中を預けて空を見る。小さく「亜美らしい」と口にして。かすかに軋んで錆びた音が鳴る。雲はどこにもない。見渡す限り青が広がる秋の空。遮るものがない視界には清々しさを感じた。空はどこまでも遠く深く、青い。
 一度、二度。深呼吸。それだけでも体中の細胞が生まれ変わった。学校を出るまでは持つだろう。
「さて、いくかな」
「そ。じゃあもう少しここにいるわ」
 有島は軽く手を上げて俺を送り出した。やっぱり、俺がここにいる理由も分かってくれているのかもしれない。
 ああいう子だから、姉さんも立っていられるんだろう。学校の中では。
 学校の、中では。


 ◆ ◆ ◆


 綺麗なオレンジ色の光が周りを染め上げていた。なだらかに降りていく坂道。昼と夜の境界線を俺と姉さんは進んでいる。家に向かうのか夜に向かうのか。そんな気取ったことを考えながら、今ある現実に向き合う。
 俺を追い越していく自転車。その先に、姉さんの背中があった。後ろに伸びる影がけん制していて近づけない。実際に今まで何度も姉さんの破局を見てきたから、中途半端に声をかけると癇癪を起こされることは分かっていた。
 背中が「慰めるな」と語ってる。
 だから俺はただ後ろを歩く。昔からそうだった。姉さんが動いて、俺がそれを見て微笑むような構図。同じ双子でも役割がいつの間にか別れていた。
 同じような恋愛を求めて、姉さんは傷つき続けて、俺は傷つくこともないまま理想を探してる。だからこそ、もし辛さに耐え切れなくなった時にすぐ支えてあげられるように出来るだけ傍にいたかった。姉さんの気持ちを他の誰よりも分かるはずの俺が。
 緩やかな時間が流れる。道路を走る自動車も、傍をかけぬけていく自転車も、ランニングしている運動部員も一緒に、夕暮れ時の時間は滑らかに過ぎていく。
 その時間も坂の下にある俺達の家に着いて終わった。
 姉さんが何かを呟いて扉を閉める。おそらく「ただいま」と言ったんだろう。両親はまだ帰っていないことは分かっているのに、つい口にしてしまう。俺と同じ癖。
 俺は姉さんが家に入るのを見送って、自分の部屋に戻るまでの時間をざっと計算する。洗面所でうがいして、手を洗い、冷蔵庫から出した牛乳を飲んで二階にある自分の部屋へと戻る。同じ屋根の下にいるからこそ分かる。普段の習慣はたとえ辛いことがあっても変わらない。むしろ、辛いからこそいつも通りに振舞おうとする。学校で、いつものように教室から動こうとしなかったように。
「そろそろ、か」
 一歩踏み出すと気持ちが固まる。そろそろ気持ちが切れる頃だ。学校からずっと中に閉じ込めていた本当の気持ちが溢れ出す時。
 姉さんの理性が軋む音が聞こえたような気がする。
 これはきっと同じ時を過ごした両親にも分からないだろう。
 双子の弟の、俺だけに聞こえる姉さんの叫び。
「ただいま」
 夜になれば家族の暖かさが広がる家。でも今は、姉さんの体温だけが微かにある家。両親が帰ってくる前に元気づけなければいけない。余計な心配をさせてしまう。
 俺自身も落ち着くため、習慣どおり手洗いとうがい。冷蔵庫から牛乳パックを取り出してコップに注ぐ。台所を見ると使われたコップが置いてあった。やっぱり姉さんは同じことをしたけれど、使ったコップを洗わないところだけが異なっていた。自分のそれを隣に置いて、階上にゆっくりと足を踏み出した。
 一歩足を踏み出すたびに軋む階段。その音は姉さんの耳にも届いているはずだ。俺が扉の前にたどり着くまでに、少しでも落ち着いていてほしい。自分を少しでも立て直して、また笑顔を浮かべる強さを取り戻していて欲しい。
 そう願いながら、俺は目的の部屋へとたどり着く。一つ息を吐いて、ノック。
「なに?」
 扉の厚さに遮られている声。少し聞こえ辛いが、それでも届くのは姉さんが扉の傍まで近寄っているからだ。机やベッドにふせっているだけじゃ、こうは聞こえない。扉のすぐ先に姉さんがいると想像して、右の掌を扉へと伸ばし、静かに触れた。
「姉さん。大丈夫?」
「大丈夫に決まってるでしょ。何回、男の子と終わったと思ってるの、今まで」
「十二回」
 何も感じていないように会話を続ける。声には負の感情はない。本当に今までの経験から耐性がついて、姉さん一人で未来へと立ち上がれるようになったのではないか。そう思うと嬉しさがこみ上げてくる。姉さんから一人歩きしていた魅力に心が追いついて、感情を制御できるようになったということだから。
 でも、触れている扉に軽い衝撃。重い物がぶつかった音。それが意味するところを察して、背中を扉につけてその場に座った。
「何回、終わったと思ってるのよ」
「十二回」
 同じやり取り。でも違うやり取り。心の様子が変われば言葉の雰囲気も変わる。さっきまでの強さは、声にはなかった。
「何回でも同じだろ」
「何が」
「辛いことは、何回でも同じだろ。慣れない」
 息を飲む気配。日が入らない廊下はすでに薄暗く、そろそろ夜がやってくることを教えてくれる。
 徐々に身体を包んでいく暗闇が心地よかった。今、ここにいるのは俺たち姉弟しかいない。二人だけの、いくらでもやり直しが出来る空間。
「むしろ、慣れちゃいけないと思う。深い繋がりを切るってことなんだから、恋人と別れるって」
「誰とも付き合ったことないのに言うじゃない」
「だから理想を言えるんだよ」
 幼い時に同じ物語に惹かれて、同じように夢を見た。たった一人の異性とずっと幸せになれるんだと信じてた。互いに王子様、お姫様が自分の下に現れるんだと疑わなかった。
 でも、中学生にもなればそれが幻想……とは完全に否定できなくとも、自分達にはありえないと分かってしまった。
 それでも俺は理想を諦めてはいない。きっと自分の全力で愛せる人が必ずいる。まだ子供だけど、子供なりに今まで得た経験から出した答え。未来になって更に経験を重ねて考えが変わるにせよ、今の自分の中にある答えに俺は自信を持たなければいけない。そうじゃなければ、姉さんを慰める言葉に重みなんて出るはずが無い。
「ねぇ、私って駄目な女なのかな」
「駄目じゃないと思うよ」
「どうしても嫌になったらすぐ別れちゃう」
 即答に耳を貸さず、姉さんは言葉を続ける。それは一方通行。自分が思っていることを吐き出すためだけの時間。
「この人だって思っても、時間が経つとどうしても嫌いになる。大好きだったはずなのに。相手に合わせようとしても、合わせられないまま時間切れになっちゃう。罪悪感に耐えられなくなる」
「姉さん?」
 少し。ほんの少しだけ不安になった。ここまで言うのは初めてのこと。いつもなら、慣れないのは仕方が無いと話して自然と会話が収束していくのに。
 それだけ今回は姉さんにとってかなりショックだったんだろう。時を置けば姉さんも折り合いがつけられるはずだった。姉さんの性格や顔は弟の俺からしても同性の中ではレベルが高い。子供の頃から姉さんに惹かれる男は多かった。小中と異性と付き合っていく中で、きっと姉さんも現実を知る。物語の中の恋愛はごく一部で、いろいろとドロドロしたことがあるんだって。
 姉さんに思いを寄せている男はいつもいた。フリーになるたびに誰かしら姉さんへと告白した。そして姉さんは少しでも好きならば付き合ってしまう。愛情が先でも告白が先でも、未来に愛へと変わると信じているから。結局、それが今までの道を進んでいる原因なんだろう。
「我慢できないんだ。人を好きになることも、嫌いになってしまってから付き合い続けることも。自分もつまらないし、相手にも失礼だし。自分が嫌なこと続けたくないって思うことが駄目なこと? 自分が好きだと思う人といたいって駄目なことかな?」
 こうして嘆く女の子が、本当の姉さんだった。学校で見せている『キリステ様』なんてただの虚像。学年全体から好奇の視線を向けられて、見えない血を流してる。それでも姉さんは笑っていた。家に帰ってから俺の前でだけ、泣き声を聞かせた。
 でも今まで別れた時に俺に見せていた弱さも、本当の姉さんじゃなかったんだろう。双子とはいえ姉の意地があったのかもしれない。自分の弱い部分を全て見せることに抵抗があったのかもしれない。
 全ての虚勢を捨てて感情を吐露する姉さんは、姿は見えなくても俺の心を掴んでいた。
「どうすればいいか分からないや。悠太が彼氏だったらきっと、私は幸せになれるし悠太も幸せに出来る気がする。いつでも心が繋がってる気がするし」
 急に、馬鹿なことを言う。少しだけ、腹が立った。実の兄弟に、そこまで言うなんて。握った拳が痛い。俺が姉さんを支えようと思ったのは、姉さんが自分の理想の恋人を見つけられるようにと願ったからなんだから。
「亜美」
 嗚咽の間に言葉を挟みこんだ。ゆっくりと、丁寧に。
「まだ十八だぞ、俺達。それに。亜美は亜美だよ。俺にはなれないし、俺も亜美にはなれない。俺達は双子だけど、一人の人間なんだよ」
 これから言うことは姉さんには辛いかもしれない。でも、今ここで言わなければ、自分を否定することから逃げられないような気がしていた。いつの間にか下がっていた背中の位置を直して、呟く。
「だから、誰かの思うように生きなくていい。ただ、自分が目指すもののためには、辛くても頑張って欲しい」
 語る言葉は他に思いつかなかった。いや、多分。最初からこれだけしかなかったんだ。
 もう数ヶ月もすれば俺達は卒業して大学に進む。きっと姉さんはもっと綺麗になって、沢山の異性を惹きつけるだろう。今以上に傷つくことになるはずだ。
 だから、それまでに自分の道を決めて欲しい。辛くても、後悔しても、前に進めるだけの強さを持って欲しい。いつまでも俺がこうして背中を預けられるわけじゃないんだから。
 そこで気づいた。気づいてしまった。どうして姉さんを庇えなかったことが辛かったのか。
 やっぱり、姉さんが『キリステ様』のままなのは、俺のせいなのかもしれない。
「俺は近親相姦なんて嫌だからな。そんなのは物語の中だけにしてほしい」
 軽くネタを振ってみる。これくらい言わなければ、今の姉さんは本気で禁断に走るように思えた。
 途切れる会話。途切れる空間。ドアに預ける背中に気配を感じなくなって、不安になる。やっぱりまだ早かったんだろうか? 姉さんが気持ちを立て直した時に言えば良かったんだろうか?
「亜美」
「分かってるって。別に私も危ないことはしないよ」
 気になって呼んだ名前に返る答え。言葉と共に、扉への圧力が消えた。ドアが開けられると同時に立ち上がって振り向くと、制服に身を包んだままの姉さんが立っていた。涙に濡れた瞳が俺を見ていた。
「ありがと。話して思い切り泣いたら落ち着いた」
「そう。良かった」
 平静を装って答えると、姉さんは異性を惹きつけてやまない笑みを浮かべた。弟の俺でさえ胸が高鳴る。それは可愛さだけじゃない。今までに無い強い光が放たれているような気がした。
「『キリステ様』ね。いいじゃない。いくらでも呼んでもらうわ。私は私の幸せを掴むために頑張っていこうじゃないの! 血塗られし道! なんてね」
 虚勢じゃない。本当の姉さんが見せる、力強い意思。
『キリステ様』という仮面と姉さんが一体化する。不名誉なあだ名をあえて身につけて、それでもなお自分が愛する人を求めて進もうと決めたことで得られた光。それは簡単じゃないだろうし、今はこうして雄雄しくてもまた繰り返してしまうかもしれない。
 けど、自分で決めたなら姉さんは乗り越えられる強さを得られると思う。今までしなかった決断をしたんだから。少しでも前に進めるはずだ。
「じゃあ、母さんが帰る前に着替えちゃうね」
「うん。姉さん」
 姉さんが部屋の中に再び消えようとして、手が止まる。閉じかけた扉の隙間から言葉がすり抜けた。
「悠太もさ。早く可愛い彼女でも作りなさいよ。お互いダブルデートしよう」
「それは、かなり恥ずかしいから嫌だね」
 その言葉を置いて俺は自分の部屋へと歩き出す。頭の中には姉さんの力強い宣言が渦を巻いていた。不快ではない。凛々しい姉さんを俺は見たかったんだから。
 でも、引っ掛かりがあった。さっき姉さんへと言った時に感じたこと。受け入れたくなかったけれど、そうせざるを得ない。
 部屋に入ってベッドへと倒れこむ。位置的に日が入らないからほぼ暗闇。廊下よりも暗い中で、穏やかな闇に身をゆだねながら思う。
(俺が姉さんを支えていたから、姉さんも甘えていた、のかもしれない)
 初めて、理解した。十八年生きてきて、ようやく理解できた。今、感じている寂しさ。自分の足で俺の知らないところに歩いていく姉さんがはっきり見えたことで感じる寂しさ。
 こいつが、姉さんを弱い『キリステ様』にしていたんだ。
 傷つくたびに、話を聞いていた。今度はきっと見つかるよ、と慰め続けた。でも 心を慰めることは出来ても、一緒に生きることは出来ない。最も近いはずの双子の姉が必要としている物に自分がなることはない。それが寂しかったんだ。
 本当に甘えていたのは、やっぱり俺なんだろう。双子だろうと、俺と姉さんは一人の人間だ。姉さんに語った俺自身が、双子ということに囚われてる証だったんだ。
 一人の人間として、もっと成長しないといけない。
「俺って思いっきり、シスコンなんだ、ろうな」
 枕に顔をうずめて、急速に落ちていく意識。完全にシャットアウトされる前に見えたのは、誰かと歩く姉さんの姿。ずっと顔をほころばせて、楽しそうに、相手の手を握っていた。胸がちくりと痛んだけれど、柔らかく包んでくれたのは、一つの温もり。
 俺の手にも誰かの手が重ねられていた。
 顔を見ようとは思わなかった。これから、見つけるから。もう姉さんの背中を見て帰ることもない。背中を合わせて慰めることも、おそらくはない。
 罪悪感も徐々に消えていくだろう。俺の中で何か、特別でも何でもないけれど、大事なものが動き出したんだろうから。

 俺は俺の道を。姉さんは姉さんの道を、これから先も生きていく。


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