『彼女の理由』







「はぁ……」

「いきなりなに溜息ついてるの? 美緒?」

 あたしの目の前に座る沙織は怪訝そうに視線を向けてきた。あたしを気遣う振りをして、

お弁当箱の中にあるコロッケを箸で分解しているのが分かったから、あたしはあえてまた

ため息をつく。今度はもっと大げさに。

「なによ〜?」

「……明人と喧嘩しちゃった」

「えー。もう何回目? とりあえずあたしは十回目で数えるの止めたよ」

 全然心配してないなんて……そりゃあ、喧嘩するたびに愚痴を言ったあたしが悪いわよ。

だからって深刻に悩んでいるというのに弁当を啄ばんでるんじゃないわよ!

 とりあえず一口大に切り取られたコロッケを一切れ取って即座に口に運ぶ。沙織は憮然

とした顔で睨みつけてきたけど、逆に睨みつけてやった。

 昼の食事時に相応しくない険悪な空気が二人の間に生まれる。

「……はぁ。めんどい」

 あたしのほうが先に引いた。今は沙織と喧嘩している場合ではないのだ。何しろ、今ま

でとは事情が違うのだから。

「今度は今までとは違うのよ! かなりやばいの!」

「そりゃあ、付き合って一年半くらい経ってるんでしょ? 倦怠期なんじゃない?」

「うう〜。そうかもしれないけど! だったら余計にやばいじゃない!!」

 少しも真剣になってくれない沙織に流石に怒りが湧いてきた。まあ、愚痴を言っている

あたしが怒りを訴えても説得力は無いんだろうけど。沙織はコロッケを一気に口にかきこ

んで、ペットボトルのお茶を飲み干してから頬杖をついた。この体勢は真面目に話を聞い

てくれる体勢だ。でも考えていたことを言う前に、沙織の甲に巻かれた包帯を見て新しい

考えが浮かんでくる。

「……あたしも空手習おうかな」

「えー、やめときなよ。物理的に痛い分、恋愛よりもきついよ」

 この時の沙織は冗談は言わない。ちゃんと、あたしの目を見て親身になって話してくれ

る。このギャップがあたしは好きだ。

 ギャップ……

「そう。ギャップよ」

「ギャップ?」

 唐突に話題が飛ぶあたしにも、沙織は少し眉をひそめただけで特に気にしていない。あ

たしの思考の流れについていけるのは沙織と明人だけ。だから、明人と付き合ってるんだ

ろうけど。

「ギャップ。明人は普段ちょっと三枚目じゃない? でも空手やってる時は二枚目で、ク

ラス委員やってるときは気配り上手だし、あたしと二人でいるときは犬みたいに甘えてく

れるの」

「あたしは空手やってるときの永沢君しか知らないからなんとも言えないけど、つまりあ

なたはあたしにのろけたいということかしら?」

 あ、やばい。沙織の頭に血管が浮かび上がってる。何本も。しかも怒りマークがつきま

くってるじゃないよ。親身モードが切れると沙織は怖い。

「いや、結局さ」

 あたしはようやく言い難かったことを口にした。あたしだって言いづらいからここまで

引き伸ばしたんだよ! そのことに気付いてくれたのか沙織は怒りを収めてくれた。次の

言葉でまた顔を真っ赤にしたけれど。

「あたし、明人に飽きた」

「――はぁ!?」

 一気に沸点を突破する沙織をなだめつつ、あたしは昨日の出来事を話し始めた。



* * * * *
「美緒〜」 「はいはい。おかえり」  あたしは玄関のチャイムも鳴らさずに家に入ってきて、しかも靴を脱ぐ場所であたしの 言葉を待っている明人におかえりを言ってあげた。明人は顔をほころばせて靴を脱ぐと一 気にあたしのところに走ってきて抱きつく。 「ただいま〜」 「汗臭いからシャワー浴びてきなさい」 「……もへぇ。分かった」  明人の「もへぇ」はあたしまで腰が砕けるほど気が抜ける。あたしの内心を他所に明人 はお風呂場に向かっていく。ああ、明人のお尻に尻尾が見える……。  今年の四月に両親が仕事で海外に行ってから、明人は必ずあたしの家に帰ってきた。そ して大体夜十時には自分の家に帰り、たまにはそのまま家に泊まる。向こうの親もあたし の親もあたし達が付き合ってることを知ってるから特に突っ込んではこない。学校にばれ ないように上手くやれとは言ってくるけど。  明人はあたしが寂しがりだって知ってるから、毎日来てくれる。親も公認だから結構自 由に時間も取れるし、エッチもしてるし。恋人付き合いはしてると思う。  でも、なんか若者のとは違うんだよなぁ……。  あたしは先にご飯を食べたので明人の分を用意する。時刻は八時。空手の練習が終わる までご飯を待ってるなんて所帯じみたことはまだしたくない。だって花の女子高生だし。  でも今の状況ってすでに新婚……いや、中期に入った夫婦みたいだ。 「お風呂頂いた〜。おおー! ご飯だ、わーい」  あたしの心に生まれた思いなんてつゆ知らずに明人は食卓につく。素直にありがとうと 言ってくる明人の笑顔はとても可愛い。その笑顔を見ていると世界に争いが起こってると か、傍で殺人事件が起こってるとかいう嫌なことを全て忘れる。そんな笑み。  あたしの目から見ての誇張かなとは思ったけど、どうやら空手部の人たちもそうは思っ てるらしい。ただ、空手部の人に見せる笑顔とあたしへの笑顔は全然違うと断言できる。 「ふみ〜。美緒のご飯はやっぱり美味しい!」 「ありがと」  笑顔を向けると更に弾力を増して返って来る笑顔。この笑顔は好きだなと思う。こんな 笑顔を浮かべられるのに、試合では「破っ!」とか「憤っ!」とか言って相手の胴を拳で 貫いているなんて……。  以前デートしてて暴漢に襲われた時に、傍に立ってた交通安全の旗を蹴りでへし折った ときは相手も青ざめて逃げたっけか。  そういうシリアスな時の明人の横顔を見るのも好き。なんでこう一度で二度お得なんだ ろうか。 「ん? 俺の顔に何かついてる?」 「んにゃ。ついてないよ〜。明人は可愛いなぁと思って」 「ふふ。美緒の前だけだよ」  恥ずかしいことをおしげもなく言ってくる。普段クラスや部活で見せている明人が本当 なのかあたしに見せている面が本当なのか。多分どっちも本当なんだろう。  明人は結局頑張り屋で、外にいるときは本当に真面目に頑張ろうとしているんだろう。 傍で見てきたからあたしには分かる。付き合う前から、それは分かっていた。  あたしも同じだったから。 「美緒」 「ん?」 「好き!」 「あたしも大好きよ」  いくら売っても売り切れない笑顔を、あたしはまた買っていた。  夕食も食べ終わり、二人で見ていたテレビも終わりを迎えていた。 『ファイナルアンサー?』 『ファイナルアンサー!』  テレビでもファイナル言ってる。あたしと明人の前にはコーラのボトルが一本。コップ 二つ。コップには氷。中身はコーラで満たされている。でもあたしの口には別の物が入っ ていた。 「……ん」  明人の舌が口の中で踊る。あたしも舌を絡めて受け入れる。明人と付き合って半年で一 線を越えたけれど、あたしはキスが一番好きだ。一番幸せを感じることが出来る。  明人は優しい。キスをするときも体に触れる時も。  薄目を開けて明人を見ると、凄く気持ちよさそうに頬を染めていて、また可愛いと思う。 明人のよさはやっぱり可愛さなんだろう。でも、あたしは口を離した。 「どうした?」  あたしのほうから途中でキスを止めるなんて、実は今までなかったことだ。明人も初め てのことで戸惑っている。その様子を見てあたしは胸が痛んだ。数日前から思っていたこ とを言うことで、あたしは彼に死刑宣告に近いことをしなければいけないのではと思って。 「明人。あたしは明人のこと好きだよ」 「うん」  明人は何、当たり前のことをという面持ちであたしを見てくる。その視線が辛くて、あ たしは少し目線をずらした。 「でも……少し飽きた」 「――はあ!?」  あたしの言葉が理解出来ないようで、明人は口を大きく開け、手をだらりと下げている。 あたしは立ち上がって明人から距離を取ると一度深く息を吸った。そうでもしないと心臓 がうるさくて仕方が無い。 「だって高校生なのにあたし達って何か夫婦じゃない? まだ早いよ。あたしはまだ恋愛 にはどきどきしていたいの! でも……最近はどきどきしないんだ。明人の可愛さは凄く 好きだけど、どきどきしないの」  そう。明人の可愛さを、あたしはどこかペットを見るように見ていた。いつそうなった のか分からない。最初は明人があたしだけに見せる可愛さを、皆に見せる凛々しさをとて も愛していた。そう、愛していた。でもいつの間にかその感情は異性に対するものじゃな くなっていたんだ。結婚して子供もいるくらいでそうなるならいいかもしれない。でも、 あたしはまだ高校生なんだ。恋愛に落ち着きたくない。  もっともっとどきどきしたいんだ。 「だれか他の人とエッチしたらどきどきするのかなぁ」  それはあたしにとって他愛も無い嘘だった。なんとなく思っていても実行する気は全く ない。でも、その言葉の後で部屋の空気が冷えたことに気付く。  瞬間的に明人を見ると、明人の目には光が灯っていた。  本当に怒ってる目だ。  当たり前と言えば当たり前だ。特に問題がないはずなのに飽きたとか言われて、しかも 浮気をしたいみたいな発言をするんだもの。怒らない筈が無い。でも、あたしはそう思っ ていてもどこかショックだった。ここまであからさまな怒りを、明人がしたことなんてな いと思ったから。あたしは侮蔑の言葉が投げつけられるのを覚悟した。でも明人はため息 をついて、無言のままあたしの横を通り過ぎる。 「好きになった時の気持ちがそのままならいいのにな」  あたしが言った言葉にも反応しないで、明人はそのままあたしの家を出た。追いかけて 謝る気持ちは、どうしても生まれなかった。  だって、やっぱり飽きたというのはあたしの本心だったから。 「最低だなぁ……自分」
* * * * *
「というわけなのよ、まいしすたー」 「この脳天直撃馬鹿娘が」  沙織の容赦ない侮蔑の言葉には流石に傷ついた。それが傷心の親友に言う言葉か! で も責める気にならないのはあたし自身に負い目があるから。 「だから朝練のときに機嫌悪かったのね、永沢君。格技場のサンドバックの紐、切れてた わよ。蹴りの勢いね」 「そして病院に行ってるんでしょ。大丈夫かな?」 「あんたのせいなんだからもっと心配しておきなさい!」  沙織に言われて思わず頭を下げる。ちゃんと心配はしてるのに。それさえも表に見えな くなってるのかな? それは流石に嫌だ。 「あたしはね、永沢君には感謝してるのよ。彼と付き合うようになって、あんたは前より 人に素を見せるようになったしさ。それまではあたし以外の人とはかなり距離を取ってた じゃない? だから別れるにしても互いに納得して欲しいわけ」 「互いに納得できる別れなんて都合よく転がってないよ」 「少なくとも、今のあんたの理由は納得できない」  なんだろう。凄く腹が立ってくる。沙織に理解されなくてもあたしの中で充分な理由が あるとしたら別れてもいいじゃないか。まあ明人の件はまだあたしの中でも整理がついて ないんだけど。でも次の沙織の言葉は意外なものだった。 「……でも永沢君にも原因はあるんでしょうね」 「え!? 違うよ! あたしが一方的に悪いんだよ!」 「なんでそこまで庇うかあたしは分からないけど、美緒言ったよね。『どきどきしない』 って。それって一人じゃ出来ないことだよ。告白するまでは相手の事を思ってるとそうい う風になるから問題ないけど、付き合うと相手のいろんなところ見えてくるから、ドキド キって自然と少なくなってくるんだと思う。だって相手にドキドキするって、相手の未知 の部分を想像したり、相手のよさに反応するってことでしょ?」  一気にまくし立ててくる沙織に異論を挟めない。彼女の言葉は正論で、あたしもどこか で思っていた。 「でも永沢君は相手にドキドキしたいって言うよりも、一緒にいて落ち着きたいって考え が強いんじゃないかな? 前にエッチが少ないとか相談された時に思ったんだけど」  そう。基本的にエッチをしたいと誘うのはあたしのほう。明人から誘うことはめったに ない。明人はどこかに遊びに行くよりも家で二人でテレビ見ながらお菓子を食べたりして るほうが好きなんだ。一緒にいて体を触れ合わせているだけで幸せを感じるらしい。  それも明人の恋愛の形なんだろう。 「恋愛に求めてる物って元々違うんじゃない? それを付き合っていくうちに寄り添わせ ていくのが恋人付き合いで、最後まで一緒にならなかったら別れることになるんじゃない かな?」  沙織の答えには納得で、あたしは考え込んだ。恋愛の価値観を寄り添わせる。でも、あ たしはどこかで明人の作り出す恋愛のイメージに甘えて、自分から行動したことは無かっ た。不満を持っていても話して、改善するよう努力しようとしなかった。  明人がずっとあたしを好きでいてくれるんだという、あたしの勝手な想像に甘えて。だ からこそ昨日、あたしに対して本気で怒った明人が信じられなかったんだろう。  飼い犬に手を噛まれたような感覚。  あたしは最初から最後まで明人のことを恋愛対象として見てなかったんだろうか? 「ま、恋愛の始めでも思い越して気持ちを整理してみたら? まだ間に合うと思うし」 「うん!」  あたしはそのまま考え出した。前には沙織が変わらない体勢で笑みを向けてくれている。  明人のどこが好きになったのか? どこが好きなのか? 続けていけるんだろうか?  いろんな考えが頭を渦巻いて――すぐにショートした。 「あうう〜。目が回る」 「あんた……その額を抑える動作、永沢君にそっくりよ?」 「えっ!」  沙織の言葉にあたしは動きを止めて自分の右手の行く先を見ていた。全く無意識のうち に手が額へと添えられてる。その時、急に思い出したことがあった。少なくとも、この動 作は高校入るまではやっていなかったということを。そう思うと、急に笑いが込み上げて きた。何か無性に可笑しくて、大声で笑うことを抑えるために必死になる。 「どうしたの?」  沙織が心配そうに声をかけてくる。あたしが狂ったとでも思ったか!?  咄嗟に言葉を返そうとは思ったけど、結局笑いによる腹の痛さが過ぎてから言った。 「うん。嫌じゃないんだよ」 「嫌じゃない?」 「うん。嫌じゃない。明人に似てるって言われて全然嫌じゃない。むしろ嬉しい」  沙織の言葉と共にあたしの中に広がっていく安心感。明人の仕草が自然とあたしの中に ある。明人があたしの中にいる。それはとても嬉しくて、楽しかった。  そう思うと今まであった飽きたというような気持ちや、どきどきしたいって気持ちが薄 れていって、代わりになんとも言い様の無い気持ちが心の中を満たしていく気がした。  今のあたしにはその想いを形に表すことは出来ないけれど。  結局どきどきするとかしないとかは二の次で、あたしが明人といることに辛さを感じる か感じないかってことなんだろうな。確かにちょっと若者らしくない恋愛かもしれないけ ど、少し飽きたって思う以外は特に苦痛は感じてないし、きっとその感情はあたしがわが ままだから生まれるんだ。そこを改善していくことが恋愛で、あたしはそれをしようとし なかった。  なら、これから始めればいいんだ! ようやく気付いた! 「明人に謝らないと。酷いこと言った! ありがとう沙織〜。相談乗ってくれて」  あたしの歓喜の表情とは逆に、沙織は顔を青ざめさせて――額には怒りマークが数え切 れないほど生まれていた――口を開いた。 「つまりあなたは結局のろけたかったのね?」 「いやちがうちがうよぜんぜんちがうよ!」 「いつもよりもやばいって言うから完全本気真面目モードになって話を聞いたってのに、 最後にはのろけを聞かされるとは……あたしもやきがまわったものよ」 「そんな歌にありそうなモード名つけなくていいよ! ってそうじゃなくて――」 「罰として山崎屋の特大クレープをおごりなさい。さもなくば空手部体験入学をさせるわ よ。現実の痛みを知るのもいいわよぉ」 「……1000円のクレープで」  と言ってあたしは立ち上がった。ちょうどチャイムが鳴るけれど、あたしは鞄の中に勉 強道具をしまい、帰る支度をする。 「ちょっとどこいくの?」 「明人のいる病院。手遅れにならないうちに謝ってくる!」  沙織の抗議の言葉が聞こえる前にあたしは教室を出た。  そうだ。またここから始めるんだ。あたしの中にある理由をちゃんと見つけたから。  どこが好きだとか嫌いだとかじゃなくて、明人自体が好きな理由。  言葉に出来ない理由を。  待ってて明人! 身勝手だけどあたしにチャンスを下さい!  学校から出ると空は晴れていた。何の根拠も無いけれど、明人が待っていてくれる気が して、あたしは自転車に飛び乗ると猛スピードで病院を目指した。
* * * * *
 病院に入って病室を聞くと、あたしはエレベーターがくるのももどかしく、階段で昇る。 走らないように早歩きで目的の病室につくと、ゆっくりとドアを開けた。 「あれ? 美緒?」  明人は読んでいた雑誌を横のテーブルにおいてあたしを見た。心臓が一気に跳ね上がる。 なんだろう? 明人がかっこよく見える。明人の寝ているベッドの横にある椅子に座って から、口を開こうとしたけど、上手く言葉になってくれない。 「あ、あの、あた、あたし――」  唐突に、明人があたしを抱き寄せた。それだけで彼の気持ちが伝わってきて、涙が溢れ る。一言だけ、口から出た。 「ごめんね」 「こっちこそ」  明人の唇の感触は心地よかった。いろいろ言いたかったけど、今はこれで良かったかな。 やっぱり明人がいないとあたしは駄目になるらしい。後でいろいろと考えよう。 (これからもよろしく)  と思いながらあたしは心地よさに身を任せた。後ろから来る看護婦さんの痛い視線も気 にせずに。 『彼女の理由:完』


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