『星々の沈黙』 雲一つない空。 黒と言うよりは深い藍色と見ていい空。 普通ならば空を彩る空の天蓋には、今は乳白色の月だけがぽっかりと浮かんでいる。 暗闇の海に浮かぶ月の周りには星一つ無いためにかえって月の存在感を際立たせていた。 そんな空に対して僕が倒れている下には冷たい雪が敷き詰められている。 ざらざらとした感触は僕に不快な感情しかもたらさない。 僕の視線は空を向いていたが、白い大地と深い藍色という二色に分かれたこの世界を、僕は確かに『見ていた』 背中から這い上がってくる寒気に嫌気が差していても僕は体を起こす力さえない。 その気さえ、ない。 全てを奪われてしまった僕はこのままこうして朽ちていくのだろう。 だから僕は月を見る。 ただ、月を見る。 最後の瞬間まで僕は、何もないこの世界にたった一つだけ存在している物を見ている。 綺麗な円形をした月を。 唯一の光を発している月を。 「ここはどうしてこんなにも寒いんだろう?」 一陣の風が吹いたと、錯覚してしまった。 耳が痛くなるほどの静寂に包まれていたこの世界に響いた声。 どうしてそんな力が湧いてきたのか僕には分からないが、その声に僕は体を起こした。 僕だけがいるはずのこの世界に、他者の声が響いたからだろうか? 理解しがたい事に対しての好奇心か、はたまた恐怖か。 目の前にいたのは僕と全く同じ服装をした男だった。 白い世界に佇むその姿は赤。 全身を赤い服で統一したその男は見間違う事なく僕自身だった。 空の藍色、地面の白。そして僕の赤い色。 三色目は問い掛ける。 「君はどうしてこんな場所に寝ているのだろう? この、冷たい月に照らされた、死した世界に……」 冷たい月。 その言葉が僕の心に深い痛みを与えていた。 空に、ただそこにあるという理由だけで浮かんでいる無機質。 生命の無いガラス玉……。 「どうして、こんな所に君はいるの?」 『僕』は本当に、心の底から知りたいのか僕へと問い掛けてくる。 言葉の響きはとても冷たく、今にも僕は凍えそうになるというのに。 しかし恐怖心を強制的に排除するだけの力を持っていたからなのか、僕は立ち上がっていた。 この閉ざされた世界に倒れ、心までも凍りつくのを待つだけの存在へとなりさがった僕が、自分の足で立ち上がったんだ。驚くしかない。 足の裏に感じるのはざらざらとした雪の感触。 いつの間にか僕の足は素足になっていて、直接冷たさが這い上がってくるのを自覚する。 しかし、どうしてこんなにも雪がざらざらとしているのだろう……? 「乾いているからだよ」 『僕』が語る。 僕は戸惑う。 まるで僕の考えが聞こえるように『僕』は語る。 言葉が心に響いてくる。 僕は何も言えずに『僕』の言葉を待った。 「どうして、こんな所に君はいるの?」 「……拒絶したからだよ」 何を、とは『僕』は言わなかった。それはこれから僕が語る事を予想していたからだろうか? 『僕』の予想通りなのだろう。僕が語り始めると、『僕』は少しだけ笑みを浮かべた。 何故か心が苦しくなった。 昔から僕には人に見えない物が見えていた。 人の体の周りに何か、オーラのような物が見えていたのだ。 それは赤だったり青だったり、黒だったり緑だったりと千差万別であり、その色によって人柄が決まっているようだった。 いや、色が人柄を表しているという事なんだろう。 青色の人は冷めていて、何事にもやる気を感じられない無感動性の人。 赤色は心に刺々しいまでの闘争心があって、暴力に身を潰される人。 緑は―― 黄は――…… 様々な人がいた。 たった二十年の命だったけれど、僕は様々な人に出会った。 彼等は僕の中を風のように通り抜けていき、僕の心に風を起こしていった。 様々な色が僕の中に彩りを与えてくれた。 そして――僕の中には黒い物が残った。 人よりも少しだけ感じやすかった僕は、人に感じる事ができない物を感じ取る事が出来た。 だからこそ、この気持ちを、感覚を共有するのは無理だったのだ。 『ここ』には誰もいない。 僕以外誰もいない。 人々が僕を通り過ぎていく中で、誰も僕を見つけてはくれなかった……。 「だから、拒絶したのかい?」 「そうなるね」 語り終えた僕は改めて『僕』をじっくりと見る。 『僕』は一定の距離を保って僕の傍に立っていて、少し手を伸ばせば触れることが出来る。 しかし僕にはどうしても『僕』に触れることが出来ない気がする。 「なるほど。君は拒絶し、そして捨てた。自分を受け入れる事が無かった世の中を。だが今、君は『ここ』にいる。この意味を考えた事はあるかい?」 その言葉に僕は気付いた。 僕は『ここ』にいる事はできないはずなのだ。それにも関わらず僕は存在している。 ある可能性は次第に僕の中で大きくなり、心を圧迫する。 「……僕はまだ、捨て去っていないんだね」 「そうだよ。君はまだ捨ててはいない。いや、世界が君を捨て去っていないのさ」 ずきりと、頭に痛み。 次に『僕』が語る言葉に僕の心が拒絶を示している。 押し込めていた記憶が、僕の前に現れる。 「君はまだ、死にきれていない」 ――僕が生死の境を彷徨う事になったのは偶然だった。 『絶望』を知って、僕はどうすればいいか分からなくて……街を歩いていた。 真昼の空に浮かぶ月を見ていたら……そこにトラックが突っ込んできた。 体がバラバラになるような感覚に襲われたあとで、僕は『ここ』にいたんだ。 「そう。『ここ』は君の心の中。君が知った『絶望』の果てにある世界。そして痛みに耐え続けて、君は赤く染まった」 徐々に明らかになる記憶を体を拒絶する。 口腔から込み上げてくる物を押さえきれずに吐き出した。 真っ赤な血。 身を切り裂かれるほどの痛みを伴った血。 それが、白い大地を染めて……すぐに跡形も無く吸い込まれる。 「君は知った。自分が醜く染まってしまったのだと。昔は綺麗だったのに、どす黒く染まってしまった。君は信じていた。人間の潔癖さを。自分の潔癖さを。だがそれは違った」 『僕』が初めて、一歩を踏み込んだ。 僕の側へ。 「自分の中に泥も汚水もあると知った。自分が特別でも何でもなく、欲望に振り回される人間なんだと知った。そして……君は絶望した」 「知らなかったんだ!」 僕は耐え切れなかった。 『僕』が語る重圧に押しつぶされる。 僕の体から色が流れ出て、白い大地に染み込んでいく。 「僕は知らなかった! 皆と違う感覚があって、誰も僕を理解してくれなくて、しようとしてくれなくて! でも僕もみんなと同じ人間だって知った! 理解し難い物を理解しようとしない人々と同じく!」 僕は泣いていた。 人とは違う物が見えてしまう悲しさ。 そして、同じ汚水を持つ悲しさに。 その日、僕が見た自分の色は、ほとんどの人々と同じく藍色に染まっていた。 いつしか世界は空の藍と大地の赤に変わっていた。 僕の中の赤は抜けて……僕は灰色になった。色あせて、燃え尽きた僕。 「君の痛みを、大地は癒してくれたのかな?」 灰色になった僕に。 痛みを全て吐き出してしまった僕に残ったものは……空虚だった。 「空しい……どうしてこんなに空しいんだ?」 「それはね、逃げているだけだからだよ」 二つの影が重なった。 『僕』が抱きしめた手には、冷たさしかなかった。でも僕は高揚感を味わう。 今まで感じた事の無い物……だが、次の瞬間には不快感が甦る。 灰色になった僕の体へと、『僕』の赤が流れ込んでくる。そして大地に染み込んだ赤色も。 それが与えるのは苦痛しかない。 「嫌だ。嫌だよ。こんな苦痛なんていらない! 放してくれ!」 僕は必死になって『僕』から逃れようとした。 でも『僕』の力は強すぎて離れる事が出来ない。 もがく僕に耳を近づけて、『僕』は囁いてきた。 「苦痛から逃げてはいけない。君が受け続けた痛み。でも、それを背負って人は生きていくんだよ。生きていかなければいけないんだよ」 『僕』の言葉に僕は動けなくなる。ただ涙を流してしまう。 「君は勘違いしているようだ。ほら、見てごらん? この空に光る星を」 自然と僕の体は力が抜けて『僕』に寄りかかった。視線が空に向かう。そこにあるのは変わらない空。 深い藍色で染まった空。 塗りつぶされてしまった空。 ただ一つだけある、乳白色の月……。 「え?」 僕は二、三回まばたきをしてみた。そして睨みつけるように空を観察する。 ゆっくりと息を吐きながら。時間をかけながら。 深い藍色の海に浮かんで見えたものは、一つの星だった。 綺麗な緑色をした星。 そこから次々と明滅する星々。 今まで沈黙していたかのように藍色の空に光が広まっていく。一瞬にして空は様々な彩りに包まれた。もう、空は虚空ではなかった。 「これが、君が手に入れたものだよ」 『僕』の声が聞こえる。それは傍にいるのに、少しだけ遠い。 「人は生まれてくる時には真っ白に生まれる。そしていろんな色に染まっていく。でもけして無くなるわけじゃないんだよ」 僕は空に輝いている星々に眼を奪われていた。だから、『僕』がだんだんと薄くなっている事に気付くのが遅れる。 注意を戻した時には、『僕』は灰色になり、僕は赤色に染まっていた。 「君が望めば、いくらでも探せるんだよ。君が望めば星々は沈黙を止めて、君に道を示してくれるだろう。空の蒼さに隠れて見えなくても、夜の闇に隠れて見えなくても、常に星々はある。それを忘れないで……」 意識がぼやける。 声が遠くなる。 そして自分の体も消えていく。 『僕』の最後の言葉を聞きながら、僕は意識を失った。 始めに見えたのは白い天井だった。病院独特の薬の匂いが鼻腔を擽って、僕は不快さに身をよじった。そして横にいた人は驚きのあまり僕の手を取った。 見ると母親が涙を流して僕を見ている。しばらく震えながら同じ体勢でいたけど、やがて医者を呼びに行くと言って出て行った。 そこは病室の端で傍に窓があり、空が見えた。 空には雲が少しと、乳白色の月が浮かんでいる。太陽は視界には見えない。 しかしこの蒼い空にも星々があるのだろう。 見えないだけで、見えるものよりも大事な物が僕の周りにもあるのだろう。 そう思えた事は僕にとっては意外な事で、そしてとても嬉しい事だった。 僕は目に見えるものにこだわりすぎていたようだ。だから良く見ようとしなかった。 よく見れば、世界はこんなにも綺麗だというのに。 星々は沈黙する。 また夜に輝くために。 夜空を彩るために。 だがけして昼間に出ていないわけではない。 あの乳白色の月のように、そこに存在しているのだ。 蒼い空に浮かぶ月とあの暗闇に浮かぶ月が重なって見えた。思えばどうしてあの月だけがはっきりと浮かんでいたのか。 あれこそが僕が最後まですがっていた物。 僕が微かに信じていた希望だったのだろう。 「ただいま」 自然と口に出た言葉から涙が溢れる。 僕は感じている幸せの余韻に身を任せるように眼を閉じた。 目蓋の裏には沈黙から覚めた星々が燦然と輝いていた。 完 企画『星屑の街』 この作品、実はちょっと困りました。 僕の中での星って感じを出すのにとても苦労して……この作品は『星』というよりも『色』と言ったほうがよさそうな作品になってしまって少し不安でした。 まあ内面の葛藤を書いてみたかったので良いんですけど。 では、また〜。 |