『鋼の涙』 修也が意識を取り戻して最初にした事は、口の中に入っているざらついた物を吐き出す 事だった。味覚は何も感知はしていなかったが、伝わってくる感触が気持ち悪く、修也は 吐き出した物を気分を害したままで見る。 「……砂?」 それは砂だった。 しかし色はついていない。見事なまでに真っ白な砂。 自然界に存在しているのかどうか疑問を抱くに、充分足る物。 しかし、修也は自分が寝ている間に口の中に入ってしまったのだと信じて疑わなかった。 何故なら彼の周囲は全て同じ色の砂に囲まれていたから。 「どこだ、ここ?」 見渡す限りの白い砂漠。 視覚が届く範囲には建造物や街灯などは全く無い。立っている足元の妙に柔らかい感触 に思わず身震いをして、そこである事実に気付く。 「……なんでこんなところにいるんだろ」 気を失っていたと言う事は、気を失う前に何かそのきっかけがあったということだ。 しかしそのきっかけどころか、それまでの記憶全てを乳白色の霧が包み込み、閉ざして いる。修也はまだ口の中に残っていた砂を唾と共に吐き出すと、ゆっくりと自分の事、周 囲の状況などを思い出そうとした。 霧の中から出てきたのはいくつかの情報。 名前は――秋月修也。 何歳――二十歳。 出身地――東京。 今は何年――西暦三千五百年。 今の年代を思い出した時点で、修也は再び周囲を見回した。それで世界が劇的に変わる わけもなく、相変わらずの白い世界が広がっているだけ。 西暦三千五百年。 その単語が頭に引っ掛かる。少し落ち着いて考えてみると、どうやら全ての記憶を失っ たわけではなく、学校ででも習ったのか、過去の歴史は思い出すことが出来る。思い出す 事に時間がかかるだけで。 思い出せないのはこの場所で倒れていた原因と、この場所が何処なのかという事。 そして、自分の半生。 自分が誰で、今までどうやって生きてきたのかと言う事が、ぼやけている。 (……なんだろう) まだ覚醒しきっていない頭を軽く叩く。感情が平坦のまま、修也は周囲に走らせていた 視線を自分へと落とす。 上半身は何も隠す物がなく、少し肉付きのよい身体が見えていた。下はスラックスを穿 いていて、少し黒く汚れている。自分を包む白い砂漠では付き添うもない汚れだと、修也 は思う。 そして靴は、紐で結ぶようになっているスポーツシューズだ。 修也は三度周囲に視線を移した。確かに今は自分が思い出した通りの時代のはずだ。し かし見えるのは果てしなく広がる白い砂漠だけ。この状況が異常だという事が、時間が経 つに連れてようやく覚醒した修也の意識中に広がっていく。 肌寒さと未知への恐怖が重なって身震いをした。 (人、だ。他に生きてる人を探せば……見つかれば、何か教えてもらえるかもしれない) とりあえず誰か他に生きている人間がいないかと歩き出す修也。 彼が記憶の引き出しから探し出したのは、月面の写真だった。 既に月に行く事は今の人類にとっては日常茶飯事となっていた。 しかし、歴が二千に満たない頃は月面は離れた世界だったという。 空気も無く、水も無く、生物も無い死の世界。 灼熱と寒冷が訪れる世界と知っていても、人々はそこに何かの幻想を抱いていたらしい。 今、月は真空空間でも生活できるように様々な建物が立てられ、その中に人々が住んで いる。人の手が加わった事で、月の白い死の世界は様々な色に塗られた。 いま自分が見ている光景は、人が進出する前に取られた写真に写る光景と酷似している。 木も草も水も生物も無く、起伏があるだけで何も遮る物が無い世界。 正に、死の世界だ。 「どうして……ここは、こんな風に……?」 何が起こったのか。 自分が気を失っている間に世界はこうなってしまったのか。 あるいはたちの悪い夢なのか。 考えた修也に襲い掛かったのは頭に響くような激痛だった。 夢と言う単語を砕く鉄槌が振り下ろされ、頭蓋の内側を激痛が駆け抜ける。 修也はその場にうずくまると、激痛と、表現できない衝動から口を開いた。 「げは!? げはは!?」 口から出るのは苦しい吐息。飛び出した息は生暖かさを修也の顔に残して夜へと消える。 そこで修也は初めて、今は夜なのだと気づいた。周囲には何も無く、自分を照らす物な ど無いはずなのに、彼は夜だと今まで感じなかった。 そのことを不思議に思う余裕もなく、再び来る激痛に修也は頭を抱えて砂地へと倒れた。 何度か砂地を転がり、痛みが治まるまで待つ。しかし遂には動く体力までも奪われ、仰向 けのまま空を見た。 空に広がるのは煌(きらめ)く欠片。空を覆う煌きの天蓋。 天空を装飾する星の集団の中を横切っていく流れ星が見えた。 (そう。今は夜。でも、どうしてこんなにも明るい……?) 修也は光源を探そうと倒れたままで目を動かす。すると光源はすぐに見つかった。 星の海の中に腰を据える大きな円。 白い月が空に浮かんでいた。地球の、この大地がある場所の反対側にある太陽の光を一 身に浴びて、光を反射させている月。 その月を見ていて、修也は込み上げてくる物があることに気付いた。その衝動の名前を、 修也は思い出せない。ところどころ思い出せないものがあるのは、きっと自分がどこか壊 れてしまっているのだと、修也は微かな絶望感に落ちる。 痛みは去ったものの立ち上がる気力もなく、修也は手足を広げて砂の絨毯に身体を沈め た。服越しに感じる砂は微かに弾力を持ち、痛みを感じさせる事もない。 弱い風の音以外何も聞こえない世界の中で、修也は消えることのない名も無き衝動を抱 えながら、ゆっくりとまどろみの中へと陥ろうとしていた。 もしかしたら二度と覚めない眠りかもしれない、と言う危機感が一瞬頭を過ぎる。と同 時に何か熱い衝撃が意識を掠めた気がしたが、それも風と共に死の世界へと消えた。 (もし……みんな、死んでいて……世界が死に包まれたなら――) 自分ももう要らないのではないだろうか。 声にならずに消えた言葉と共に、修也の意識は揺らめく闇の川面へと沈もうとしていた。 その時、修也の耳に音が聞こえてきた。 「――!?」 先ほどまで聞こえていたのは風が耳の傍を通る時に鳴る音だけだった。歩いていた時に は砂地に沈み込む自分の足が奏でる単音が聞こえていた。 だが、いま聞こえてきたのはそんな生易しい音ではなかった。 砂地を掻き分け、加速し、進む音。それは紛れもない、何か乗り物が進む音だった。そ して乗り物があるということは、それを繰る者がいるはずである。 闇に浸かった片足を引き抜いて、修也は何とか動けるようになった体を起こすと、修也 は音源を捜した。遮る物がない砂漠の中で目標はすぐに瞳に映る。 自分へと向かってくる砂塵。その先に、バイクがいた。 人が一人乗れるサイドカー付きのバイク。記憶の引出しを探って、それがもう使われな くなったはずの西暦二千年頃のモデルだと理解する。 しかしそんなはずはなかった。既に石油は掘り尽くされたことから、昔のバイクが残っ ていたとしても、運転は出来ないだろう。 そんな混乱も手伝って、修也は動かないままに近づいてくる相手を見た。 バイクの黒いフォルムが月明かりを浴びて光っている。 ライダーを乗せたバイクは修也に砂がかかる半歩手前で動きを止めた。 バイクがそのまま前輪を傾げてその場に待機する姿勢を見せると、共にやってきた者が 降りてきて修也へと歩み寄る。 服装は黒光りするつなぎのスーツだった。顔はヘルメットに隠れているために分からな かったが、後ろからはみ出している長髪が風に揺れる事と、スーツの胸元が膨らんでいる 事から異性だと認識する。 「君は……誰?」 初めて出会った人間。しかし得体の知れない相手に対する恐怖感が生まれた修也は、一 歩後ろに下がりながら問い掛けた。すると相手は動きを止めて、修也をヘルメットのバイ ザー越しに見た。それは些細な時間だったが、確かに存在する時間。 その時間の中で相手は何かを確認したかのように頷き、ヘルメットに両手をかけると勢 いよく外した。 ヘルメットから解放された髪の束がふわりと空間に広がる。そんな錯覚を修也は得てい た。実際に起こるはずはないのだが、長い髪が背中に居場所を見つけるまで、きらきらと 光っているような気がしたのだ。どうしてそう感じたのかは分からない。そしてそれを考 える時間もない。 「ここにも生きている人がいたのね」 女性は柔らかい笑みを浮かべて頷いた。人間の平均と比べて少々小さい顔に、大きめな 目と小さい鼻と口が付いている。女性らしい丸みを帯びた顔は笑顔が良く似合うだろうと 修也に思わせた。 「……君は、誰?」 先ほどと同じ質問。しかしその言葉にはもう警戒心と恐怖感はほとんど残ってはいなか った。相手が人間であり、女性であり、自分に危害を加えるような人物ではないと理解し たからだ。女性は左手にヘルメットを抱え、空いている右手を口元に持っていき、笑った。 「私は瀬戸美奈子。生きている人を探しに来たのよ」 「……生きている人っていうことは……やっぱり世界は」 「そうね。世界と言うか日本は壊滅したわ」 あっさりと国の、修也と美奈子が足を下ろしている場所を統治していた国の終わりを口 にする美奈子。その事に修也は動揺した。胸が締め付けられる感覚と、それに伴って始ま る頭痛。左手で胸をかきむしり、右側頭部を手で掴んで痛みが過ぎる事を待つ。 「嘘、だろ……?」 「嘘を言っているように見える?」 美奈子はその視線を修也の瞳へと伸ばす。修也は痛みの中でも真実を見極めようと美奈 子の視線を受け止め、また観察した。ほんの数秒の視線の交錯。 修也には嘘を言っているようには見えなかった。否定するならばいくらでも出来る。 しかし、目の前の瀬戸美奈子を否定する事だけは出来なかった。 「だって……どうして……なんで壊滅しないと、いけないんだ?」 「どうしてと言ってもね……当然の帰結だと思うわ」 そう前置きして、美奈子は語り始めた。 科学技術の発展によって作業機械の高性能化、人工人間(アンドロイド)の開発が実現 し、人間は物理的な豊かさを得た。その一方で国々は協調を見せつつ、裏では戦力を増強 させて各々が『世界の警察』となろうとしたという。 豊かさは人間に幸福をもたらし、同時に人々の精神の腐敗させていったのだ。 「日本も平和憲法があったけど、とっくの昔に形骸化して、とうとう最近になって――と 言ってももう何年も前だけど――撤廃されたのよ。それとほぼ同時に何を思ったか日本は アメリカに向けて武力を振りかざした。世界の情勢とか、いろいろあったんだろうけど、 私が生まれる前だから真相は良く分からないわ」 (……?) 美奈子の言葉に修也は何か違和感を感じた。しかし頭痛と、それに伴う吐き気と、美奈 子の言葉による衝撃からその違和感は世界に消える。 代わりに出てきたのは疑問の言葉だった。 「どう、して……」 「言ったでしょう? 当然の帰結だって」 美奈子はヘルメットを砂へと落とすと手を広げて周囲を見回しながら言った。まるでそ の両腕の中に全てを抱え込もうとするかのように。 「人間がいて、技術が発展して、行き着く先は消滅。もしかしたらそれが運命なのかもし れないわね。今は日本だけだけど、やがて世界全てが――」 「そんなの! 悲しすぎるじゃないか!!」 美奈子の無機質な言葉の刃を受け続けていた修也は絶叫した。 痛みは更に増しているが、それでも頭部と胸を抑えずに両腕を戦慄かせながら美奈子へ と叫ぶ。 「そうだよ! 悲しいじゃないか! 今まで僕が言い表せなかった感情! この光景も、 進歩した技術の先の破滅も! それが本当なら悲しいじゃないか!!」 修也は砂に包まれた地に膝を、手を、ついた。激痛と感情に震える体を抑えることが出 来ない。 先ほどから何度も修也の中に生まれた衝動。 それは『悲しさ』だった。 表す言葉を忘れていた事にも修也は驚いたが、更に彼を驚いたのは悲しさに包まれてい ても身体は特に反応を見せなかった事だった。両手を砂地について力一杯握り締める。 白き砂は圧迫に対する反動を返す事も無く、身動きもせずに修也に掴まれるまま。 「どうしてだよ。僕はまだ夢だと思ってるのか? どうして僕は――なんだ?」 美奈子には俯いている修也が言った言葉の全てが聞こえたわけではなかったが、それで も彼が言おうとしていることは理解できた。修也は激痛によろけながらも立ち上がり、美 奈子の肩を掴む。手に握られていた砂が美奈子の黒を白く染めた。 「どうして僕は泣けないんだ!? 悲しいのに! どうして!? 僕は……悲しくないの か!? 悲しんで涙を流すのが人間じゃないのかよ!?」 「……」 美奈子は修也の顔をじっと見つめ、観察する。 悲しいという感情に突き動かされて歪む顔。傍で見ているだけでも伝わってくる頭部の 痛みに耐えながら、修也は自分を突き動かす衝動と、それに伴わない結果に苦しんでいる のだ。美奈子は自分が言うべき事を考え、そして自分に言える最良の言葉と供に口にした。 「あなたが泣くって言っているのは、『涙を流す』ってこと?」 「――え?」 何を言われたのか理解出来ないという表情で、修也は美奈子の言葉に反応した。美奈子 は自分を掴む手を優しくどけて、一歩後ろに下がると深呼吸をする。 伝えるべき言葉を伝えるために。 「悲しいから涙を流すのは確かね。でも……涙を流せないから悲しくないというのは違う んじゃないかしら?」 「……どういうことなの?」 少しだけ落ち着きを取り戻した修也は改めて問いかける。美奈子は修也の落ち着きに満 足したのか、一度頷いてから更に続ける。 「感情に体の反応が伴わないっていうのは、確かに問題があるかもね。でもそれは、今の あなたが傷ついているからじゃない? あなた、頭の痛みに苦しんでいるようだけれど、 全身傷だらけよ。運良く総攻撃から逃れたけど傷を負ったというところでしょうね」 修也は改めて自分の姿を見る。良く見ると剥き出しの上半身にはいくつも痕があった。 血は全く出てはいないが、線が幾つも刻まれている。 身体全体が傷を浮かべているのかもしれないが、何故か修也には痛みは感じられない。 確実にあると言えるのは頭の痛みだけ。 「身体が悪いなら、治療すれば反応は戻ると思う。だから大事なのは身体じゃなくて、あ なたが今感じている感情じゃないかしら?」 「……感情」 「そう。感情。今まで何とかこの時代まで生きてきた人間の最後が、こんな白い灰が覆い 尽くしている世界だなんて悲しい。そう思える事が。悲しいと嘆いている事が、結局は涙 を流していることと同じなんじゃないかしら」 「よく……分からない……でも」 修也は俯き、白い砂を見た。そこに落ちていく『涙』 形がない涙はしかし、全てを飲み込んだ絶望の象徴へと吸い込まれていった気がした。 美奈子も修也の様子に同じ物を見たのか、満足げに顔に笑みを浮かべる。 「形だけを探したから、こんな世界になったのかもしれない。なら、目に見えないものを これから探していけばいい」 「……探せるのかな?」 「今、少しだけ見つけることが出来たんじゃない?」 美奈子の問いに修也は頷いた。自然と顔が笑顔に変わる。 その時、急激に痛みが修也を襲った。 「あ……ぐあ――!」 右側頭部から全身へと広がり、まるで四肢が裂かれるかのような痛みが修也を飲み込ん だ。美奈子が顔に焦りを浮かべて駆け寄り、倒れそうになる修也を両手で抱く。 「大丈夫よ。すぐによくなるわ!」 「……せ、瀬戸……さん……」 美奈子の声に痛みの中でも笑顔を向ける修也。そして美奈子の手が痛みの発生源である 右側頭部に伸びた時―― カチリ、と音が聞こえた。 「――はい。――はい。回収しました。修理すればまだ使えます。全く新しい人工知能を 組み込む事になるでしょうけど――はい。帰還します」 瀬戸美奈子は所属する研究所への通信を終了させると自分の足元に転がる男を見た。 秋月修也は虚ろな視線を前に向け、右側面を下にして倒れている。美奈子は修也を身体 の前に抱き上げると周囲を見た。 全てが白い世界。 星と月の光と、それを受け止めている死の大地。 数日前まで、この土地にはビルが立ち並び、人々が住んでいた。そう思っても美奈子は 特に何の感情も浮かんでこなかった。すでに終わった事なのだから。 それはほんの一週間の出来事だった。 無謀な戦いを始めた日本は、結局は世界中を敵に回すこととなり、壊滅した。 多くの国民は武力を日本が振りかざした時点で危険を感じて他国へと渡り、残ったのは 一部の軍支持者達だった。 彼等を根絶するため、また世界中への見せしめのために日本は灰燼に帰したのだ。 『世界の警察』の責務という形で、国一つを滅ぼしたのだ。 全てを焼き尽くした後に残った灰は歩くほどに上に乗る者を沈ませる。美奈子も例外に 洩れずによろめいた。 「――ちっ」 美奈子は舌打ちをして体勢を立て直すと、また歩き出す。 内部の機械が覗く修也の右側頭部を見ながら、美奈子は足を進めた。 「エネルギーを最小に抑えたことで破損を感じることさえも出来なくて、自分がアンドロ イドだって記憶もなくして、人間だと勘違いして……馬鹿よね、あなたは」 機能を停止させた修也は何も答えてはこない。限りなく人間に近い感情を持つようイン プットされているアンドロイドだけに、人間と変わりない感情表現を行う事が出来る彼等。 だからこそ記憶を失った修也は、自分を本当の人間だと勘違いをしたのだろう。 そんな修也に向けて、美奈子は自分でも分からない衝動に押されて非難めいた言葉を口 にしていた。しかし、言葉とは裏腹に怒りは顔には浮かんでいない。 ただ、胸の部分が何か締め付けられるような気がして、美奈子は顔をしかめていた。 「人間じゃないんだから、涙を流せるはずがないじゃない」 作られた機械なのだから。 いくら人間に似せようにも、所詮は機械から作られた鋼なのだから。 しかし、真実はどうあっても修也は自分を人間だと心から信じていた。だからこそ、悲 しさを表現する涙という形ある物を求め、嘆いた。 『悲しいから涙を流すのは確かね。でも……涙を流せないから悲しくないというのは違う んじゃないかしら?』 修也に言った言葉。 最初に遭遇した際に自分を人間だと思い込んでいることに気付いた時、不意にこのまま 人間と勘違いさせたままでおきたいと、彼女は思った。どうしてそう思ったのかは分から ない。しかし、真実を伝える気にはならなかった。 彼女自身、少しも言った事に対して思い入れもなく、人間が泣くという行為に抱く考え の一つを伝えただけ。だが、その言葉が美奈子の中に徐々に広がっていく。 『今まで何とかこの時代まで生きてきた人間の最後が、こんな白い灰が覆い尽くしている 世界だなんて悲しい。そう思える事が。悲しいと嘆いている事が、結局は涙を流している ことと同じなんじゃないかしら』 修也をサイドカーに置き、また周囲を眺める。 この死した大地の中。 焼き尽くされた後に残った大地の死臭さえも消えた世界の中に、佇む自分。 それを認識すると、美奈子は不意に笑いが込み上げてきた。いつもならば滑らかに息が 喉を過ぎていくが、今は喉の奥に空気が引っ掛かり、スムーズに呼気が口外へと出て行か ない。同時に今まで意識しなかった衝動が込み上げてくるのが分かる。 (泣けない事に嘆いた機械と、泣けない人間、ね) 周りの世界は美奈子が生まれた時から絶望に包まれていて、英才教育を受けた美奈子に とっては人間は価値のない物だった。アンドロイドに取って代わられ、機械にとって代わ られ、創造者と言う名の奴隷となった人間に価値を見出す事は出来なかった。 美奈子を包んだのは諦め。 人間に対する諦め。物事に対する諦め。……自分への諦めだった。 涙を流さなくなったのは十歳くらいの時だろう。 それから十五年間。悲しさなど感じた事がなかった。 しかし今、どこかに消えていた感情が再び込み上げてくる。 修也が感じていた感情――『悲しみ』の感情によって、死の世界へと込み上げてくる。 しかし、それは形にはならなかった。 美奈子は泣かなかった。 泣けなかった。 錆びついた泣くという機能はそう簡単に戻る事はなく、悲しみの衝動はその残滓を残し て美奈子の奥底へと沈んでいった。 その反動で身体を震わせて、美奈子は呟く。 「形だけを探したから、こんな世界になったのかもしれない。なら、目に見えないものを これから探していけばいい」 先ほど修也に言った言葉を呟いてから美奈子は笑った。今度はまた違った笑み。人間が 見れば冷笑、と受け止められる類の、絶望が混じった笑み。 全く信じてはいない、というかのような笑み。少なくとも注意深く見ていなければそう としか見えない笑みだ。 「探せるのかしらね、この世界で」 美奈子は掌を頬に当てた。何度か軽く摩ってから、口を開く。 「もしかしたら、私も泣いているのかもね。あなたのように」 人間ならば悲しい時に涙を流す。目から溢れ出した涙は頬を伝い、落ちていく。 美奈子の頬は乾いている。 しかし、きっと、本当は濡れているのだと美奈子は思っていた。 実体のない涙。 質量を、存在を感知できない涙は、頬を流れ、死した世界の空気を伝い、乾いた灰の上 に落ちるのだ。 落ちた涙は灰へと吸い込まれ、やがて全てに広がっていくのだ。 そんな幻想を思いながら、美奈子は上を向いた。 あたかも、流れ落ちる涙を堪えるかのように。 視線の先には空全てに広がる星の海。 その海の中を、流れ星が一筋、流れた。 |