夏の日差しに隆二は目を細め、目の前に広がる光景をただ、黙って見ていた。
 グラウンドの土の感触は、あの頃のままだったように思う。
 あの鉄棒も、あの滑り台も、あのサッカーゴールも。
 小学生だった、あの頃のまま。
 変わったのは彼自身だった。
 飛び上がらなければ届かなかった一番高い鉄棒も、少し手を伸ばせば簡単に届く。
 よく滑った滑り台には、もう狭くて彼の体では滑る事ができない。
 昔はボールを受け止めるのに苦労したゴールの広さも、今は少し移動しただけで端まで届く。
 ここは、時を止めていた。
 かなりの長さに感じたトラックも、比べ物にならない速さで駆け抜ける。
 今は過去の、あの、無邪気だった時間。
 けして今は戻らない時間。
 繰り返される事のない時間。
「俺の、大事な思い出……」
 御坂隆二(みさかりゅうじ)はぽつりと、寂しそうに呟いた。
 今は板で打ち付けられている窓。
 手入れされていない校庭。
 ぼろぼろの壁。
 廃校になって五年。その歳月は長いように思える。
「御坂……か?」
 不意にかけられた声に隆二は振り返る。
 見知った顔。
 隆二には信じられない顔。
「恩田……」
 過ぎ去った『あの時』を共有した二人。
 二人が、出会った。
 この、もう誰も見ることのない廃校で。


 『Enfance finie』


 壊れたドアを外して中に入るのは簡単だった。
 蜘蛛の巣をドアを塞いでいた木の板で取り払い、足を踏み込む。
 校舎の中は外装とは違って、意外と小奇麗だった。
「中と外ではこんなに違うのな」
 恩田治樹(おんだはるき)は溜息混じりに呟いた。隆二はそれに頷くだけで答えて右端を目指す。
 この学校は正面から見て左右の端に階段があり、上の階へと上がれる仕組みだった。
 教室は一つの学年に六組まで。
 その六つの教室とその他、職員室などが階段に挟まれるといった構図だ。
「でも、どうして俺らはここにいるんだろうな?」
 恩田が尋ねてくる――おそらくそうだろう。隆二は前を向いているので彼の表情は分からないが――
 隆二は頭を振った。
「さあ、な。俺はともかく、お前がいる理由が分からない」
「じゃあお前は何故ここにいる?」
「……」
 隆二は答えなかった。
 彼自身にはここに来る目的があった。そしてそれは誰にも知られたくはなかった。
「俺の目的はな」
 恩田は隆二が尋ねもしないのに口にしてきた。
「ここを、見たかったんだよ」
「そうか」
 隆二は特に反応もせずに簡単に言った。
 彼の思考の中では今、ここにいなくてもいいだろう、という思いがあった。
(よりにもよって『この時』にここにこいつがいなくてもいいだろう!)
 隆二は言葉にならない叫びを発しながら目的地へと着いた。
 錆び付いた扉を何とか開く。

『6年4組』

 それがその部屋の名だった。
 隆二は記憶から目的の席を探り出しつつ机の間を歩き回った。B  廃校から五年になるというのに机と椅子は時の流れによる風化に耐えて、そこにあった。
 何も変わらない。
 自分達が卒業した、あの時と。
「御坂ぁ」
 恩田の声に隆二は、自分が彼の存在を忘れるほど探し物に集中していた事に気付き、同時に彼の存在を疎ましく思った。
「すまないが、一人でいさせてくれないか。探し物を見られたくない」
「尾瀬の手紙か?」
「!!?」
 隆二は凄まじい勢いで振り向き、恩田に向けて突進して胸倉を掴みあげた。
「お前、何で知ってるんだよ? 俺だけしか知らないはずだ!」
「知らなかったのか? お前の机にその手紙を入れたのは俺なんだ」
「何……!?」
 恩田は隆二の手を外すと一つの机に向かった。
 そして中に手を突っ込み、すぐに引き抜く。
 その手には手紙があった。
「それが……」
「尾瀬の手紙だよ」
 恩田はきれいに手紙の口を破って中身を取り出した。そして隆二へと中身を放る。
 中身は狙い済ましたかのように隆二の手の中に入った。
「読んでみろ。それが、あいつの遺言だ」
「……」
 隆二は声が出なかった。
 つい先日死んだ元・クラスメイト。
 植物状態から、還る事の無かった友人。
 既に死者となっている彼女の文字はまるで今、この瞬間生きているかのように隆二の心に染み込んだ。
 五年越しに伝わったメッセージ。
 隆二はその場に泣き崩れた。


「結局、俺はあの頃のままが良かったんだ」
 教卓に腰を降ろして窓を見る。
 背中を恩田に任せて、二人はちょうど背中合わせになっている状態だ。
「あいつに告白された時、正直動揺したよ。あいつとは……そういう事は絶対無いって思ってた」
「そして、断った」
「……ああ」
 隆二は下を向き、くぐもった声で続ける。
「自分が傷つくのが怖かった。『友達』という枠組みを取り払ってしまう事で、取り返しのつかない事になってしまう事が怖かった」
「だから何にも傷つく事がない、あの無邪気な頃に戻りたかったんだな」
「そうだよ。だから拒絶した。今まで通りでいたいと。そして泣いて走り去った尾瀬に車が……」
 その先を隆二は言えなかった。
 ただ泣きじゃくり、膝を抱えるだけだった。
「だが、お前はここにいる」
 恩田の声は今までとは違っていて、隆二は顔を上げた。
「お前は尾瀬が残した手紙を知って、ここまで来た。過去に戻ろうとするんじゃなくて、過去を取り払おうとして」
「……?」
 恩田の言い回しがよく分からない。隆二は問いかけようとした。しかしそれを遮られる。
「尾瀬の手紙はお前の過ぎ去った少年時代に残された最後の物だ。尾瀬が少年時代の最後に告白しようとした手紙。
 残されたそれを、尾瀬の死と共に永久に忘れ去ることもできたのに、お前はこれを取りに来た。
 お前は気付いたんだ。幼かったあの頃に、もう戻る事はもうできないんだと。
 だから、最後に残ったこの手紙を取りに来た。全ての過去を記憶にしまうために」
「……恩田?」
 隆二は何故か振り返る事ができなかった。
 恩田の言葉はまるで直接頭の中に響くかのように聞こえてくる。
「お前はもう分かってるんだ。傷つく事でしか、大人にはなれないと。過ぎ去った少年時代はもう戻ってこないのだと。
 だから全てが貴重なのだと」
 隆二は空が急速に暗くなっていくのを見ていた。
 まるで時間が自分の周りだけ早く進んでいくかのように。
「もうお前は理解した。だから、もうここには来るなよ」
「おん、だ……?」
 突然の浮遊感が体を包む。
 隆二の意識はそこで消えた。


 夏の日差しに隆二は目を細め、目の前に広がる光景をただ、黙って見ていた。
 グラウンドの土の感触は、あの頃のままだったように思う。
 あの鉄棒も、あの滑り台も、あのサッカーゴールも。
 小学生だった、あの頃のまま。
 変わったのは彼自身だった。
 飛び上がらなければ届かなかった一番高い鉄棒も、少し手を伸ばせば簡単に届く。
 よく滑った滑り台には、もう狭くて彼の体では滑る事ができない。
 昔はボールを受け止めるのに苦労したゴールの広さも、今は少し移動しただけで端まで届く。
 ここは、時を止めていた。
「あ、れ……?」
 隆二は何か違和感があるような気がしてその光景を凝視していた。
 今まで自分が一体どこにいたのか、分からなくなったのだ。
「……?」
 後ろを振り返って更に違和感が生じる。
 グラウンドの持ち主である校舎はなくなっていた。
 廃校になって五年が経過して、やっと次の使い道が決定したのだ。
 いずれこのグラウンドにある全てがなくなるだろう。
(俺、廃校の中に入らなかったか?)
 記憶に微かに残っている気がする。しかし入ろうにもその校舎は既に存在してはいなかった。
「気の、せい……か?」
 隆二はいまいち釈然としなかったが、何故か裏腹に心はすっきりとしていた。
 まるで長い間つかえていた棒が取れたかのように。
「まあ、いいか」
 隆二は歩き出した。
 もう自分の通っていた小学校はない。
 過ぎ去った少年時代は全て自分の心にしまわれたのだ。
 この胸のすっきりした気分がその証拠だった。
 そう。自分は確かめるために来たのだ。
 時が過ぎようとも、ここにある思い出は変わらないという事を。
 ここにできるものがなんであれ、『ここ』にある思い出は、変わらないという事を。
(俺はこれから変わっていく。でも過去は変わらない。あの、無邪気だった『あの時』は)
 隆二は急に立ち止まった。
 何かの音が耳に入ってきたのだ。
 しかし振り返ってみても誰もいない。しかし、妙に心は弾んだ。
「……さよなら」
 自然と口から言葉が出た。
 それを最後に、隆二はその場から立ち去った。もう二度と、その地を踏む事はなかった。

『じゃあな』

 その言葉は誰の言葉だったのか。
 しかし確かにその言葉は存在した。そして隆二の耳に届いた。
 風に流されて、それは何事もなかったかのように消える。
 そう。
 全ては過去の記憶なのだ。


 隆二が恩田治樹が死んでいた事を知ったのはその二日後だった。
 その時、彼は何を思ったのか。
 それは誰にも分からない。
 ただ、『彼等』だけが知っている。


『Enfance finie』 end



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 あとがき
 どうも、紅月赤哉でございます。
 もう秋ですな。気温が低いですね、北海道。
『Enfance finie』お送りしました。
 このタイトルはどこかの言葉で『過ぎ去りし少年時代』と言うそうです。
 読み方は『アンファンス フィニ』です。
 合唱の組曲の名前なのですが一度聞いて気に入ってしまって、是非小説に使いたいと思っていました。
 死んだ人が出てくるけど、怖くない不思議な出来事をテーマに題名にちなんだ物語を書きました。
 もう少し怪談じみたほうが夏らしかったかもしれませんが。
 まあ、AIRもあんな感じなので見逃してくださいと言うところです。
 ではではまたいつか。

 2001年8月30日午後20時00分執筆完了。
 作者:紅月赤哉




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