差出人:ミント タイトル:こんばんは 0:01 11/11 2004



 マーサ君、こんばんは。今日まで元気にしてましたか?

 ホームページの盛況ぶりや日記を読んでいると分かるんですけど、

 やっぱり手紙ですから、一応言っておきますね。

 ところで先月におっしゃった件、分かりました。

 今日、十一月十一日の午後六時に、駅前のデパート前に来てください。

 では、今日は短いですがこれで。おやすみなさい。





 届いたメールに眼を通してから、俺はパソコンの電源を切った。

 日付が変わる前にホームページの日記も更新しておいたし、掲示板へのレスも返した。

大半は身内からで振られてくる馬鹿話に反応する程度だったが、話のための新たなネタを

振ることにも三年も続けていると大分慣れている。

「――くしゅん!」

 一度、息が暴発した。

 風呂あがりの身体には開けた窓から来る十一月の風は少し寒かったようで、自分で開け

たにも関わらず、すぐに閉めた。火照った身体は助走をつけすぎて一気に冷めたらしい。

 そそくさとベッドに入り、真上にある電灯を消した。暖かな布団と穏やかな暗闇に包ま

れるとすぐに眠気が襲ってくる。

 まどろみの中で浮かぶのは会った事がない相手の姿。直に会いたいと言ってから返信が

来るまでの一月の間でいろいろと想像していた。

 服装がいろいろと変わって行く中で顔だけは変わらない。黒く、穴が開いたまま。

(……午後六時、か……)

 微妙な時間。

 もし会えてしばらく時間を共にする事になったなら、もう一つの約束を果たせなくなっ

てしまうだろう。

(……何とかなるかなぁ)

 急に襲ってきた眠気には勝てず、気づいた時には朝を迎えていた。





『十一日の君へ』





 青色のカーテンが防ぎきれなかった日差しが部屋の中に入ってくる。ちょうど閉じた目

蓋の裏側に届いてくる光に、俺は観念して目を開けた。布団から出ると部屋の温度は少し

低めに感じたが、暖房を入れるほどじゃない。俺は浮かび上がってくる欠伸を押し殺して

洗面所に向かうと、冷たい水を思い切り頭から被った。頭蓋の裏側に染み渡ってくるよう

な痛みが、俺の意識を覚醒させる。

 傍にあるタオルで一通り頭と顔を拭いてから鏡を見つめる。

 一年前に染めてから全く手をつけてないためにほとんど黒に戻った髪。もうそろそろ切

りに行かないといけないなと思えるくらい伸びていて、ちょっと目にかかる前髪がうっと

おしい。いつも少し細めの目が、今は更に細くなって視線を返してくる。自分の少し顎の

とがった顔を責めているように見えた。

 洗面所から離れて昨日買っておいたコンビニ弁当を冷蔵庫から取り出し、レンジに入れ

る。その時、目に入ったのはカレンダーだった。

 十一月十一日。今日の日付。

 自分が今日で二十二となる日。

 そこに何度も何度も赤いペンで丸が書かれた跡がある。予定を書く所には美佐の文字が

嬉しそうに踊っている。

『誕生会!』

 丁寧にびっくりマークまで書いて強調している。美佐は自分の予定を俺のカレンダーに

書き込む癖がある。夜は一緒に誕生日を祝おうという約束だった。

 ……その前には、帰ってこなくちゃいけない。

 時刻は午前十時。大学にももうそろそろいかないといけない。

「食事は、あっちで食べるか」

 誰に言うでもなく呟いて、俺は弁当を冷蔵庫に戻すと服を手早く着て部屋を出た。





 研究室で卒業論文の原稿を書いている間も、実験をしている間も頭を閉めるのは別の事

だった。

 それは過去に実際にあった出来事。

 もう四年も前。高校三年の時期。自分しか知らない出来事。

 誰も知らない出来事で、俺もいつも意識しているわけじゃないから、あれは本当は起こ

ってなくて、自分が作り出した妄想だったんじゃないかとも思う時がある。

 証拠は全部引越しの際に紛失してしまったし、あの出来事は高校を卒業した時点で自分

とは一切関わりがなくなる予定だったからだ。

 でもそれは、思いもよらないところから俺の前に再び現れた。

「大石。お前今日、注意力散漫だぞ」

 もう何度目か数えるのもめんどくさい実験の失敗の回数の事を言っているのか、俺に気

遣わしげに明夫が声をかけてくる。形のいい坊主頭といつも笑っている顔がトレードマー

クの明夫が今は不安に顔をゆがめている。

 俺に対する心配なんだと思うと申し訳なく思った。

「いや、大丈夫だ。でも確かに今日はやる気しないな」

「そういう時もあるって。大石は俺等より卒論進んでるんだから、今日は止めたら? 何

か仕事あっても俺とか他の奴がやっておくよ」

 その提案は確かにありがたい。素直に明夫の提案に従う事にした。

「じゃあ、その時は任せるよ」

「おう。じゃあな〜」

 明夫の明るい声に見送られて、俺は研究室を後にした。研究室のある四階からエレベー

ターに乗って一階へと降りる間、中にある体全身を映せる鏡を見て、ため息をつく。

 そこに映っていたのは大学四年生の俺ではなくて、高校三年生の俺だった。

 もちろん、他の人が見たならば現在の俺が映っているだろう。だから、鏡に映る姿は俺

が心の中で映し出している。

 エレベーターを出てそのまま建物を出る。十一月の気候は昼間でも夏ほど暑くなく、む

しろ涼しい。立体感を持つ雲が遠くに浮かび、その合間から太陽が光を地面に降ろしてく

る。光には確かに暖かみがあるのだが、その光を包むようにして涼しい風が吹いていた。

 大学から出て、時間までやることというのも特にない。しょうがない。付属の図書館に

でも行って小説でも読んでいようか。

 研究棟の傍にある図書館の中に入って適当な席を探し、荷物を置いてから読めるような

小説を探す。

 あ行から順に指で背表紙をなぞりながら本を吟味していく。



 あ……か……さ……た……な……は……ま



 ま行で、俺の指は止まった。ま行が始まる最初。それまでの行の小説と、次の行とを区

別する仕切りの部分に、一枚の紙が挟まっている。

 同時に意識の底に沈殿していた記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。それは痛みを伴

う物ではない。悲しさも、嬉しさも特に思いはしない。

 俺はその紙を手に取ってみた。

 それは図書を何日までに返却してくれと書かれている単なる紙だった。でもこの偶然に

俺は苦笑を隠せない。そのまま紙を握り潰して、すぐ横にあった本を取る。 

 内容は何でも良かった。過去の回想の間に人に邪魔されないような口実を作れる物なら。

 本を読むというポーズをしているだけで、その空間に自分一人しかいないように思える

錯覚は今のような状況にはもってこいだった。

 本を広げて中身をぱらぱらと捲る。その間にも過去の物語は紡がれる。





 握り潰した紙のように、その手紙はま行の初めに挟んであった。

 それは高校三年の初めで、図書委員としての最初の活動である図書室の番人をしていた

時に訪れた。

 部屋が閉まる時間まで返却や貸し出しの手続きをするのは非常に面倒な事ではあったが、

先生の印象を良くするために仕事をしていた俺は、書籍の点検の際に自分当ての手紙を本

棚の中に見つけた。差出人は不明。裏に可愛い、女の子らしい文字で『大石雅也君へ』と

書かれたその手紙を、俺は特に何の感情も感じる事なく中身を開いた。

 高三の頃は何故かモテた時期で、何枚かラブレターも貰っていたから、その内の一枚と

思っていた。今でも最初の一文を思い出そうとすると、すぐに浮かんでくる。



『これは二人だけの秘密の手紙です』



 手紙の主は、もし他の人に見られたらどうするつもりだったのか。内容はラブレターの

類ではなくて、こうした文通の相手が欲しかったということ。そしてそれは他の人には秘

密で続けていきたいということ。高校三年生の、一年間限定だということ。

 承諾したならば、同じま行の区切りの場所に次の日、図書室が開いたと同時に手紙を置

いて欲しいということだった。

 普通に考えれば無視してもいいだろう。でも、俺は何の躊躇もなくその日の学校帰りに

便箋を買い、手紙を書いた。

 内容は忘れてしまったが、当り障りのない日々の事を綴ったはず。

 互いに自分の姿を確認しようとしないという約束で、その奇妙な文通は始まった。

 毎月十一日に届けられ、十二日に相手へと届く手紙。

 相手は俺の事を知っているんだから不公平だなと感じた事もあったが、相手がどんな人

なのかを知る事に、俺は恐れを抱いた。

 誰にも知られずに相手の顔も知らずに続けられる関係。

 そんな普通じゃない関係に俺は刺激を感じていたんだ……。





 記憶の洪水が治まるとともに、俺は本を机に置いた。肩を回して息を吐く。時計を見る

といつの間にか午後四時。意識せず読んでいた小説も読み終えてしまった。文字を追って

いただけだから読み終えた、というわけでもないが。立ち上がって背筋を伸ばし、ふと思

いついて小説を片手に歩く。図書館に備えられているパソコンの内、空いている一つに陣

取ってエクスプローラーにアドレスを打ち込む。もう何回も、何百回も打たれたアルファ

ベットの羅列の先に、俺が大学に入ってから開いたホームページはあった。

 特にサークル活動もしておらず、大学の授業の中でホームページを作る授業があった事

で何となく作り始めたページだ。特に目立ったコンテンツもなく、ほぼ日記ページと化し

ている。後は気に入っているホームページへのリンクと、高校時代の友達や大学の友人達

が書き込むことで活気付いている掲示板が二つあるだけ。それでもほとんど会えない友達

とネット上で会話出来るのはなかなか楽しかったし、大学の友人とは大体毎日会っている

というのに、ホームページ上ではまた違った印象を持つ事があって驚かされたりした。

 ホームページというのもなかなか面白いと思い始めた矢先、パソコンに一通のメールが

届いたことで、高校時代の記憶が鮮明に甦ってきたんだ。



『これは二人だけの秘密の手紙です』



 開いてすぐに飛び込んできた言葉。

 大学生活の忙しさの中で何処かへ出かけていた出来事が、再び俺の中に帰って来た。

 ご丁寧に同じ言葉を告げて。

 相手のメールアドレスはネットをする時に申し込むプロバイダで得られる物じゃなくて、

個人で得られるアドレス。名前も本名じゃなくて『ミント』というハンドルネーム。普通

ならば悪戯だと思い、すぐに消してしまうだろう。

 それをさせないための、最初の言葉だったに違いない。

 そこまで思い出して、俺はパソコンの下部にある時計を見た。

 時刻は四時半。もうそろそろ指定の場所に行かなければいけない。

 掲示板を覗いても特に誰も書き込んではおらず、俺はパソコンから離れた。

 今日、遂に会える。

 時間が迫ると共にその事が現実味を帯びてきて、俺は心臓の鼓動が高まるのを意識した。



* * * * *
 先月の、十月のメールにようやく俺は決意を固めて言葉を並べた。 『直に、会えないかな?』  そのメールに対しての返信は一月後の今日だったわけだが、承諾されても断られても、 俺はいいと思っていた。会えなくてもこの奇妙な関係が続く事に微かな嬉しさを感じてい られるのだし、もし会えたなら、言葉を伝えたいと考えていた。  俺は嬉しかったんだ。  誰にも知られず、誰とも分からない相手との文通。  あまり起伏のない日常を過ごしていた高校時代に、微かだが確実に刺激を与えてくれた 彼女に、俺は自分の口で礼を言いたかった。  今までもどこか満足しないで、流れに任せて生きてきて、常に心の中に隙間があった。  幸福でもどこか埋まらない隙間を、彼女は埋めてくれた。  十一日の君。  文通をしていることで、何か文学的な呼び名をと俺が勝手に決めた名前。  無論、相手にはこの呼び名を言わなかったけど、心の中ではいつも言っていたんだ。  学校帰りの高校生達の間を抜けて、俺は指定されたデパートの前に行く。周囲を見回し ても自分を探しているような女性は見えない。  早く言いたかった。  胸の奥で用意された言葉はいつでも産声を上げられる。後は言葉を贈るべき相手を見つ けるだけ。  と、そこで後ろから声をかけられた。  続いて来る言葉を聞く前に振り向くと、そこにはデパートの前でさっきから何かを言っ ていた中年の女性だった。  顔も体も丸く、しかし特に病気に悩まされているというようには見えないほど明るい笑 顔をした女性だ。  ……まさかこの人が? 「――どうですか?」  俺の心配を他所に女性は何かを進めてくる。しかし、何を進めているか分からない。  そこで少し視線をずらすと、そこには神社で合格祈願とかが書かれるような絵馬が、木 の絵が書かれている板に沢山吊るされていた。  その横にはこの状況を表している看板が赤い文字を宣伝している。 『大切な人に伝えたい言葉を書いてみませんか?』  絵馬を見てみると、恋人に対しての愛の言葉や、まだ片思いの女の子の思い、来年の受 験に合格したいとか家族への感謝の気持ちなど、いろいろな言葉が実っていた。  人の想いがこもった実をつけている木の一番上に、それはあった。 『一番意識をしないけれど、一番大切な物は何だ?』  少し背伸びをして絵馬を傍で見る。言葉の横には『ミント』の文字。間違いなく、俺が 会おうとしていた相手だろう。  一番意識をしないけれど、一番大切な物は何だ?  その言葉が語りかけてくる物と、その絵馬を見て、俺は何かが分かった気がした。
* * * * *
「おかえり〜。今日は酢豚だよ〜」  部屋に戻ると、合鍵で中に入っていた美佐がエプロンをしたまま姿を表した。ちょうど 夕食が出来たらしい。  今時珍しいくらい黒くて長い髪はシャンプーのCMに出ている人のような綺麗な髪だ。  目が細い俺とは対照的に大きめの目を輝かせて、美佐は俺が靴を脱いで中に入ると同時 に右腕に自分の両腕を絡めてきた。 「今日、研究室にいなかったでしょ! 電卓貸して欲しくて行ったんだよ〜」 「わりぃ。どうも乗り気じゃなくて図書館にいたんだ」 「ぷー」  口で怒りを表現するだけで実際は全く怒っていない美佐。こうした事は俺が彼女を知る 前からの癖らしい。同じ高校だった割にはちゃんと知ったのは大学生からで、付き合った のは去年からだった。  テーブルにすでに並べられた茶碗にてきぱきとご飯や味噌汁、酢豚を入れていく美佐を 見て、俺は口を開いた。 「一番意識をしないけれど、一番大切な物は何だ?」 「……それって、なぞなぞ?」  俺と自分の分を茶碗全てに注ぎ終わって、美佐は俺を見て首をかしげた。俺は笑みを浮 かべながらテーブルに付いて、箸を取る。美佐も慌てて座って同じく箸を取る。 『いただきます』  同時に言って、箸を酢豚につける。口の中に入った肉は下に蕩(とろ)けた。 「おいしい……」 「わーい。ありがと!」  美佐の嬉しそうな顔を見ると俺まで微笑ましくなる。しばらく食事に専念していたが、 不意に美佐は口を開いた。 「さっきのなぞなぞの答えさ」 「うん」  俺は手を止めて美佐を見る。軽い感じで答えくる物と思っていたから、その顔がいつに なく真剣な事に、動揺する。 「『普通の日』って事じゃない?」 「……そうかもな」  普通の日。  何の変哲もない日。  それはいつもは意識していなくて、退屈を叫ぶ事でかき消されてしまうけど、全ての起 点になる日なんだ。  流されるだけじゃなくて、自分で何かを見つければいくらでも日々を楽しむ事が出来て、 そのためには助走する大地が必要で。  それこそが、『普通の日』なんだろう。  あの謎かけの答えが不意に理解できて、自分の部屋に帰って。そこで美佐が出迎えてく れた時、今まで以上に幸福感を得られた。きっとこんな繰り返される日常こそが、一番大 事なんだと分かった瞬間だった。  食事を終え、俺は美佐が食べ終わるのを待つ。見られている事に恥ずかしさを感じなが らも食べる美佐に、俺は言った。 「わざとだったろ。あの香水」 「……雅也が来るまでに消えるかと思ったけどね」  絵馬に顔を近づけた時に鼻に入った匂い。それは俺と、美佐が好きなミント系の香りが する香水の匂いだった。そして美佐は立ち上がると、キッチンの横に置いてあった自分の バッグから袋に包まれた物を差し出してくる。 「誕生日、おめでとう」  同時に俺も買ってきた誕生日プレゼントを取り出した。同じ袋に包まれた、おそらく同 じ物を。  十一月十一日。お互いの誕生日。  やっと出会えた十一日の君に、俺は伝えたかった言葉を伝えた。 『いてくれて、ありがとう』


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