その着信メロディが流れたのは実に一年ぶりだっただろう。今でも最後の会話の内容を

覚えている。そこから一年の歳月が過ぎてもなお、彼女だけの着信音を残しておいた事を

俺はこの時初めて気付いた。あの時に彼女のデータは消去したと思っていたのだから。

 折りたたみの携帯電話を開くのを一瞬躊躇する。これは俺の中のパンドラの箱を開く事

になりはしないだろうか? あの時とは確かに自分は違う。あの時は、自分の弱さのため

に彼女との関係を捨てた。今の俺ならばもう彼女と新たな形で向き合えるのではないか?

「……誰から?」

 部屋に入ってきた佳依の言葉に俺は相手を言うのを躊躇う。というかそもそも、どうし

てメールが来たのを知っているのか?

「だってちょうどドアを開けた時に鳴ってたんだもん。それでいつまで経っても見ようと

しないし……」

 佳依は肩まである髪を後ろに縛ってから食材が詰まったビニール袋をテーブルの上に置

いて一つずつ中身を出していく。時刻は午後四時半。もうすぐ夕食の用意をする時間だ。

 牛乳パックやたまねぎ。人参、ジャガイモ等中身全てが出され、袋を小さく畳んだ時点

になって俺はやっと口を開く事ができた。

「昔の……友達」

「それって、いつか言ってた元カノさん?」

 佳依はあまり気にする事もなく冷蔵庫に食材を入れていく。俺はその間に意を決してメ

ールを開いた。

 そこに書かれていたのは――

「就職、決まったか……」

「会ってきたら?」

 平然と言う佳依に俺は動揺してしまう。やはり昔の女からのメールに怒っているのかと

不安になったが逆に彼女は微笑んでいた。

「わたしは気にしないよ。一臣の事信じてるし。それに、そこまで悩むんなら会ってはっ

きりさせたら?」

「……ありがとう」

 俺は返信ボタンを押して文字を打つ。久しぶりの再会への誘いの手紙だった。





『あの日無くしたココロの欠片』





 彼女と付き合っていたのは何の事は無い、高校一年の、しかも二ヶ月程だ。

 今考えれば児戯に等しいような恋愛。

 最近一度、友人にも言われたことがある。

『最初に付き合った奴だからこだわっているだけじゃないか?』

 ほんの二ヶ月付き合っただけで恋愛感情など生まれてはいないだろうと友人は俺に言っ

た。確かにそうなのかもしれない。だが、俺は恋愛感情があったと信じている。真実はど

うあれ、自分が納得できればそれでいいだろう。と思った。

 だから、俺は彼女から離れなかった。お互いが望んだこともあって親友として、俺達は

別れてからもいろんな悩みを打ち明けあった。あいつの彼氏との間の悩みなども打ち明け

られたし、俺も友人との悩みや自分の中にある悩みを打ち明け、支えになってもらった。

 結局、一時は自分の全てを委ねかけた存在であるがゆえに俺達は最も互いを信頼したの

だ。

 だが俺は気づいてしまった。

 もう前のように完全に心を許せる存在ではなくなってしまった事に。

 彼女は自分が思っている以上に異性の高感度が高く、高校でも俺と別れてから四人と付

き合い、別れていった。

 彼女は『本当の恋愛』を捜し求めていた。

 それは彼女の特性がゆえに、周りに自分への愛情が溢れているがゆえに見つける事が出

来なかった物だ。まだまだ幼い自らゆえに。

 そして俺は更に子供で、彼女の苦しみに気付けなかった。

 次々と相手が変わる様に怒りさえ感じていた……。





 雪がちらほらと降ってくるのを見ながら俺はコーヒーを飲んでいる。最近出来たこの場

所は地元に帰って来てから見つけた場所で、すぐに気に入る事になった。

 待ち人との待ち合わせ時間の一時間前から来て飲んでいるコーヒーはすでに三杯目。

 おかわり自由で無ければどうなっていただろう?

 一時間という長い時間を一人で過ごしたのは自分の中で覚悟を決める事だった。

 彼女と会う、という行動にすでにここまでのエネルギーを必要とするんだと思うと悲し

さが込み上げてくる。年月がいろいろと変えてしまった事をひしひしと感じてしまう。

「ごめんごめん! 待ってた?」

 息を切らせて駆けてきた彼女の顔を、俺はすぐに見る事は出来ない。コーヒーを飲んで

一度自分を落ち着かせてから、勢いをつけて見上げた。

「待ってないよ。久しぶり」

 極力不自然にならないように気をつけた甲斐があったか、彼女は俺の態度に不審さを見

出す事は無く、向かいに座った。

「会うのって二年ぶりじゃない? メールはたまにやりとりしてたけど……」

「それも一年前からしてないからな。実質、一年ぶりだろ」

 二年ぶりに見た彼女の顔は、微かに俺の中に残っていた彼女の顔と一致する。

 変わった所は髪が少し伸びたくらいか。化粧気の少ない顔。

 俺はウェイトレスを呼び、彼女はアイスティを注文した。店員の目を見ると、どう思っ

ているのか簡単に分かる。カップルの待ち合わせに見えているのだろう。でもそれは違う

のだ。思い切り大声で叫びたい衝動を押さえつつ、俺は彼女に向き合う。

「最近、どうなの? 元気でやってる?」

「ああ。順調に大学四年になるし……彼女出来た」

「え!?」

 驚きを隠さない態度に俺は自然と笑みを浮かべた。こんな所は昔と同じ。良い所は変わ

らない。

「え? え? どんな人? いつ出来たの?」

「今から三ヶ月前かな。ようやく、見つけたんだ」

 携帯の裏に貼った佳依とのプリクラを見せながら、俺は続けた。

「本当の恋愛を」

 俺の言葉に彼女は少し暗い顔をした。俺はその事に気づきながら先を続ける。昔の俺な

らばおそらく、言えなかった言葉。

「本当に心を許せるんだ……。多分、山崎……お前以上に。ずっと彼女と一緒にいたい、

と思える。結婚したいと思ってる」

 山崎が次に見せた顔は驚き。

 しかし動揺という驚きではなく、感嘆の驚き。

「村上……変わったね」

「そうか?」

 自分でも、そう思った。だから俺は山崎に会いたかったんだ。成長した俺を見てほしか

ったから。だからこそもう一度閉じた箱を開いたのだ。

「なんか大人になったよ……。やっぱり彼女さんができて変わったんだね」

「約束、だっただろ」

 俺の言葉に山崎は一瞬考え、そして合点がいったように頷く。何度も、何度も。

「一年前の電話でさ。言っただろう? 『好きになった事を後悔させない男になる』って

さ。だから、俺は……」

 その気配に山崎は気付いたんだろう。俺が何か重大な事を言おうとしている事を。

 俺は自然に本題へと移行した。俺が本当に言いたかった事に移行した。

「お前と接点を断った」

 俺の言葉に山崎は何を言われたのか分からなかったように見える。しかし次に浮かんだ

のは戸惑いの表情。どう言っていいか分からない、戸惑い。

 辛うじて言えた言葉は……。

「どういう、事?」

 という言葉だけ。俺は……もう既に風化した感情だったが、あえて口にした。

 こうして会う目的の一つだったのだから。

「俺さ、お前も分かっていただろうけど、お前に依存してた。お前にフラれたのも、けし

て俺を嫌っての事じゃなかったから、お前の心の中に広く位置していられればそれでいい

と思っていた。だから……俺は幸せになれってお前に言った。でもお前は……彼氏と次々

と別れていった」

 山崎は痛みに耐えるように顔を歪めつつ、頷いた。それはあまり思い出したくない記憶

なのだろう。

 高校時代、最も近いと思った俺に自分の想っていた事を分かってもらえなかった痛み。

「俺には次々と彼氏と別れるお前が、とても贅沢に、傲慢に見えた。幸せからやってくる

のに手に入れておいて自分から手放すなんて傲慢だって。俺の考えはガキだった。俺には

そんな人なんてお前以外現われないというのにって思って、いつしか俺は、お前に嫉妬し

た。お前を傷つけるだけ傷つけて……それに満足感を感じた」

 自分がこれだけ傷ついているんだと、山崎に理解してほしかった。

 自分が山崎の行動によって受けている痛みを山崎も感じないのは不公平だと思った。

 しかし、当時山崎が答えた言葉に俺は後悔する事になる。



『わたしが何も努力しないでいたって思うの?』



 山崎は山崎なりに必死に『本当の恋愛』を探していた事を、俺は初めて知らされた。

 そして初めて、俺は彼女との距離がいつの間にか、かなり開いている事を自覚した。

 きっかけは大学の違い。余裕のある時間帯の違い。

 俺達は語り合う事が少なくなり、もう親友と言えるような関係ではなかったのだ。

『ねえ、もう一度やり直そうよ。親友として』

 延々三時間ほど俺達は語り合った。それまで自分達が思っていた事を全て。その言葉は

最後に山崎から出た言葉だった。

『ああ。……俺、成長するよ。好きになった事を後悔させない男になるからさ』

『うん。遠く離れてても親友って事には変わりないから』

 その会話が、俺達が交わした最後の言葉だったんだ。

「俺はその電話が終わって気付いた。……俺は、お前に依存していた。だから、俺が成長

するには……山崎がいちゃ駄目なんだって。山崎には俺の弱い部分全てが詰まってる。だ

から俺はそんな弱い自分の象徴である山崎と関わっていては駄目だと思ったんだ。自分勝

手なのは百も承知だ。でも……このままじゃ俺は変われない。そう思って、データを消去

した」

 山崎は何も言わずに俺を見ている。表情は無表情で、目はしっかりと俺を見ていた。

「そうしたつもりだったけど、なんか残ってたみたいでさ。俺も驚いた。だから、この際

はっきりと言いたかったんだ。……多分、お前から離れた事で俺は変われたんだって」

「確かに変わったよ、村上」

 怒りの言葉が発せられると思った山崎の口から出た言葉は、とても穏やかな言葉。

 アイスティを飲み干して、店員におかわりを告げる。その合間は充分に俺の頭を冷やす

時間を与えた。話しすぎて頬が熱いのを見てくれたのかもしれない。

「うん。かっこよくなった。勝手に絶縁された甲斐があったよ」

 微妙に嫌味を含む山崎の言葉。しかし悪意などは全く無く、俺も久しぶりに昔を思い出

してリラックスした。その事から今までずっと気を張り詰めていたのだと自覚する。

 俺は、この時初めて気を抜いて彼女の顔を見る事が出来た。

 その顔はとても綺麗で……俺はようやく悟った。

 二人の間にわだかまりが無くなったのだと。

 昔までとは行かないまでも、俺達は友達に戻れたのだと。

「これからどうするの?」

「……これから彼女と待ち合わせ」

 俺はコーヒーを飲み干すと席を立った。そして山崎の前に置いてあった伝票を取って勘

定をしに向かう。きょとんとした顔をして俺を見ていた山崎に俺は笑いながら言った。

「とりあえず、今までの貸しはここから払わせてもらうさ」





 後ろから山崎の笑い声が聞こえてくる気がした。

 いつか無くした、ぽっかりと穴の開いた部分。

 成長できたと言うのに何処か空虚さがあった場所が埋まる。

 ようやく、ココロの欠片が戻ってきた気がした。

(会って……良かったな)

 晴れ晴れとした気持ちとなって、俺は彼女との待ち合わせ場所に向かった。

 山崎に会うまでとはまた違う色の景色を目に映しながら。

 彼女への、元カノと二人きりで会ってしまったことへの謝罪のプレゼントは何にしよう

と考えながら……







『完』





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