『通りすぎた雨のあとで』
雨が降る。 俺の目の前を槍のように激しい雨が上から下に突き刺さる。 間断なく続くそれは、俺にまだしばらくこの場に釘づけにさせる事を確信させた。 「参ったよなぁ」 呟いてしまう。 傘を持ってこなかったのは失敗だった。山の上にある大学から歩きで帰ろうというのがまた無謀だった。山の天気は変わりやすい。 濡れる前に運良くこのバス停に入れたのはいいが、次のバスまでまだ一時間以上もある。 今時座る場所もない休憩所というのも珍しいが今の俺にはありがたくなかった。 高い気温に湿度。 二つの合わせ技に俺の体は徐々に汗で湿ってきている。 何もかもが最悪な結果に行き着いていく。 俺に対する嫌がらせなのだろうか? 「最悪……」 またしても呟いてしまった時、新たな客が休憩所にやってきた。 雨の中を、鞄を傘にして走ってくる。 水を勢いよく弾かせながら走ってきて休憩所へと飛びこんだ。 「はぁ……はぁ……」 新たな客は女の子だった。 前は形が整っていたであろうショートカットは完全に頬に張り付いていて、ヘルメットのようになっている。自分のたとえに笑い出しそうになるのを堪えていると女の子は不審な顔をして視線を向けてきた。 咳払いをして姿勢を正す。 改めて少女を見ると、どうやら俺と同い年のようだった。ハンカチで雨の雫を拭う様は最初の印象から比べると随分と大人びて見える。 服装は半そでのTシャツとジーンズというラフな格好だったから、濡れたシャツが肌に貼りついて……。 (いかんいかん。何を考えているんだか……) 「あの……」 「なんだい?」 いきなり少女は話し掛けてきた。それはそれで驚きだったが、それ以上に次の言葉は俺を驚かせた。 「深山先輩、サークル出てこないんですか?」 「……サークル?」 その問いかけの言葉は間違ってはいなかったが、俺の混乱はより大きくなるばかりだ。 様子がダイレクトで伝わったのか、少女は納得した顔で頷いて言葉を続ける。 「わたし、サークルの後輩の足隆佐祐理ですよ?」 「……後輩。ああ!」 そうだ。ようやく思い出した。 何となく見た事のある女の子だと思ったら、サークルの顔合わせで見たのだ。 というかサークルもその時以来二、三度しか行っていないから分からないのも無理はない。 「深山先輩はずっとサボっているから分からなかったんですね」 足隆さんは悪びれもなく言って笑う。 随分と可愛い印象を持たせる娘だ。その時、ふと気づいて彼女から視線を移す。 間断なく続くと思われた雨の音がかなり少なくなっていたのだ。 案の定、雨はあの大降りからかなり収まっていた。これなら後数分したら止むかもしれない。 やはり山の天気は分からない。 さっきまでは親の仇、と言わんばかりに俺を刺し殺そうと降り注いでいたというのに……。 「それでどうして来ないんですか?」 俺の思考に足隆さんが入ってくる。 別にたいした事を考えていたわけではないから普通に返答した。 「本当に、たまに行ってるよ。別に行きたくないわけじゃないから」 それでも、どこかで鬱陶しかったのか口調が荒くなるのが自分でも分かった。 確かに気乗りはしないが。 足隆さんは少し怯んで俺から眼を背ける。俺も罪悪感を感じて視線を外した。足隆もその後は何かを訊ねるわけでもなくじっとしていた。 ただ、俺に向かう視線を感じてはいた。 何かいろいろと言いたい事があるんだろう。 俺は気を紛らわせるために空気を吸い込んだ。 雨特有の匂いが鼻腔から入ってきて肺を埋める。この匂いは子供の頃から何も変わらなくて好きだった。 どうしてこんな匂いがするのか不思議だった。でも何故そうなるのか? と調べはしない。 どこか郷愁を感じさせる雨の匂い。 それを科学的に解明しようなんて浪漫の欠片も無い事などしたくはなかった。 「雨、あがったな」 休憩所の外に出てみると雨はあがっていた。雲間からかすかに光が差し込んできている。 今見ている間にもぽつぽつと、雲の穴は多くなっていく。 やがては完全に雨雲は消えるのだろう。 「行きましょうよ」 どうしてお前と? という問いはどうしてか出なかった。 俺は荷物をしょいなおして歩き出す。彼女もすぐ横に並んで歩き出した。 徐々に渇いていくアスファルトの上を歩いて行く。あれから太陽の光はすぐに射して、高い気温と共に道路の水分を奪っていく。 渇いていく道路は濡れた場所と乾いた場所とでまだら模様を形成していた。 上から来る熱気、そして下から来る蒸発する水分。 足を踏み出すたびに体力が削られていくようだ。 「あ! 先輩、見てください!」 足隆の声と指先が視界に入る。俺はつられて視線を移した。 遠くに虹が出ている。 雨の後なんだから当たり前だろ、と言おうとした。でも言えなかった。 虹は今まで見たどの虹よりも大きくて綺麗なように見えた。 しかも虹の端はどうやら進行方向にあるようだ。 「先輩! 虹の麓には黄金があるって、聞いたことありますか?」 「いや……ないけど」 虹の麓、なんて元々無い。 でも足隆は目を輝かせて俺に語ってくる。 「その黄金は、その人にとって一番大切な物になるっていうんですよ! 虹の麓に行ってみましょうよ!」 「……そうだな」 疑ってはいた。 でも素直に肯定の返事が出た。 足隆は自分も汗をかいているというのにそれを気にする素振りも無く走ろうとする。 俺もいつのまにか走り出していた。 流れる汗なんて関係ない。 俺も、今はあの光の下へと辿り着いてみたかった。 たとえ叶わぬ夢だとしても。 走る速度は遅かった。足隆の速度にあわせてのものだったし、虹を少しでも多く見ていたかったから走るのに集中したくなかった。 「きゃ!」 突然、足隆の悲鳴と共に俺の足に水が跳ねる。 アスファルトに溜まった水溜りを足隆が踏んでしまったのだ。 「何やってんだよ」 「ごめんなさい〜」 どことなく嬉しそうな足隆。 俺も何故か不快な気分にならなかった。 理由は分かっている。 それは誰もが昔に体験した感覚だからだ。 まるで童心に戻ったかのような錯覚に陥っているからだ。 まだ、子供という枠に守られて世界を知らなかった無邪気な頃の感覚。 忘れられない大切な記憶……。 「あれ? 虹が……」 随分と時間が経って流石に息が切れてきた時、足隆が立ち止まって呟いた。 「ん? 本当だ」 足隆の言葉に合わせて虹を探してみると確かに存在しない。大学がかなり遠くにあるのを見て、かなり遠くまで走っただろうと推測する。 ぼー、とそんな事を考えていると足隆が大声を上げた。 「ああ!!」 足隆は上を見上げている。眼をキラキラさせて、宝物を発見した子供のようだ。 俺もつられて見上げると眩しさに眼を細めた。 光の洪水。 ――それは光の洪水だった。 俺達の上にはまだ弱った雨雲が残っていたが、その隙間から太陽の光が注いでいる。 「凄いですね! まるで光のカーテンですよ!」 『光のカーテン』 確かに、そんな感じだった。 陽光が俺達の周りを包んでいる。 体の輪郭が淡い光を放っているようにも見えるのは、惜しげもなく当たっている光のせいだろう。まさに光のカーテンを身に纏っているようだ。 その光景はとても幻想的で、綺麗だった。 「……黄金」 「え?」 「きっと、ここが虹の麓なのかもしれませんね……」 足隆は熱に浮かされたような、ぼーっとした口調で呟いた。 自分を包んでいる光に眼をうっとりさせて見入っている。 俺は足隆の言葉を笑う気にはなれなかった。 虹の麓は存在しない。それは確かな事。 でも人間の心にはきっと、無意識にでも存在しているんだ。 人にとっての真実なんて本当にあるか、じゃなくて人が信じているかどうかで決まる。 なら、ここが虹の麓だと俺達が信じる事ができれば、そうなのだ。 だから俺は笑った。 大声で、空に向かって笑った。 嬉しくて楽しくて、湧き上がる感情を隠す事なく。 しばらくそんな俺を見ていた足隆も、一緒になって笑った。 いろんな物が変わってしまったこの世界、自分の世界。 でも変わらないものがここにある。 それはとても嬉しくて楽しくて、喜びを生む物だった。 視線を移せばすぐそこにある物だったんだ。 自分から見ないようにしていただけで。 「これが……俺にとっての一番大切な物、か」 「何か言いました?」 足隆が聞き取れずに問い掛けてきたが、俺は首を振った。 俺が抱いていたはっきりとしない気分なんて、他人に話す事じゃない。 漠然とした不安なんて。 「雲も、晴れましたね」 足隆は不思議そうな顔をしていたが視線を空に転じて言った。 「そうだな。光のカーテンもおしまいだ」 雲が散り、太陽の光はその道筋を俺達の前から消した。でも足隆は首を横に振る。 「太陽が出ていれば、わたし達はいつでも身につけていますよ」 見えないだけですぐ傍にある。また一つ、変わらない物が見つかった。 「じゃ、帰ろうか」 「はい! 実は帰る方向と全然逆だったんです〜」 「そうなのか。実は、俺もだ」 俺達は笑いながら歩き出した。 焦らなくても大丈夫。 見えないだけで、いつでもそこには虹があり、光が溢れている。 変わらない喜びをわかちあう。 それが続いていけばきっと、俺達ははばたけるのだろう。 どこかで。 きっと。 遠く、終わらない道を歩いて行く。 ずっと、どこまでも……。 『通りすぎた雨のあとで』 終 以前、一万ヒットで気合を入れた「風の翼」が消えてしまってかなり萎えたのですがちょいと頑張ってみました。 この作品は前作と似たようなテーマを使ってます。 『失われてしまった純粋性』ですね。少しでも読者に伝わればいいなぁと思います。 では! |