YOU

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 俺は彼女の体をゆっくりと受け止めた。
 一矢まとわぬ姿で彼女は俺の腕の中に抱かれ、安堵のため息をつく。俺は後ろから抱きしめるような形となり、彼女は軽く体育座りをして更に寄りかかってきた。完全なるリラックス。体を脱力させ、口からも心地よさに色っぽい息が漏れる。
 上気する頬。
 火照る体。
 形の良い乳房を感じ、引き締まった腹部を感じ、細長い足を感じる。
 感じることしか出来ないんだ。何しろ、俺は目が見えないんだから。彼女を包み込んでいるから輪郭は分かる。でも姿形がどんなものなのかは分からないんだ。
 彼女が立つ気配がした。俺の体が彼女から引き剥がされる。ぼたぼたと落下してぶつかってくる俺の欠片。残りは外に落下したようだ。軽い喪失感が襲ってきた。
 そうか。これが消えるってことらしい。俺は所詮、体を千切られて千切られて使われて、最後には溝に流されるんだ。
 それが、お湯である俺の運命なんだろう。でも構わない。
 俺の湯生はお湯として生まれた時に決まったんだから。出来ることをするだけだ。俺に出来ることは……。
『なあ、お湯よ』
 その声はもしかして……湯船か?
『ああ。俺はお前の体に振動を伝えているだけだから、主人には聞こえねぇさ。ていうか、俺の声を人間は聞き取れないがな』
 湯船の声はどこか寂しげだった。何か俺に対して労うというか、申し訳なく思っているというか。
 どうしたんだ? 何か辛そうだが。
『まあ、そうだな……俺ってやつは隠し事が苦手だからはっきり言うぜ』
 湯船は早口で言葉を続けていく。
『お前はここに生まれたばかりだが、今日捨てられる。彼女は無類の綺麗好きでな。一度風呂に入るとすぐ排水溝に捨ててしまう。そこらへんの洗剤まみれの水と一緒になっちまうんだよ、お前は』
 湯船の言葉の意味は最初のうちは分からなかった。でも、どうやら俺は今日ここに満たされたお湯らしい。
 そう、か。いきなり彼女を抱きとめていたところから記憶が始まっていたのは、俺が今日この湯船に入ったお湯だからか。なみなみと浴槽に満たされるまで意識がないとは、いいことなのか悪いことなのか。まあ自分が足されていく感覚っていうのはきっと嫌に違いない。どこまでが自分なのか分からなくなる。
 でもそこまで君が辛くなるなんて何でだ?
『そりゃそうだろう。俺は今まで何回もお前みたいなやつが捨てられるのを見てきた。俺の存在意義は、人間が温まるためにお前達を満たすことさ。体も心も満たしてくれるお前達が徐々に減っていって、最後に残りカスが残る。でもそれはもう意志などなくて、ただ生きているだけの水さ。俺はお前達に何もしてやれねぇんだ。俺だけが満たされてさ。それが悔しくてたまらないのさ』
 感じる。湯船の切なさが。
 何度となくお湯達を死への旅に送り出してきたことへの罪悪感が伝わってくる。その凛々しい体に触れているからこそ感じ取れる他物の鼓動だ。
 でも、君は何も悪くないよ。それぞれの役目をまっとうしているだけさ。湯船はお湯を溜める。お湯は暖めたり洗ったりに使われて消えていく。俺達にしか出来ないことだ。別に悲しむ必要はないぜ。
『まあそうなんだがな……やはり何かしてあげたかったと思ってしまった。言ったのはお前が初めてだよ。俺も十歳だからな。長い間生きていると、自分の目的以外にも気を使うんだろうさ」
 十歳、か。俺は今は零歳だろうからなぁ。生まれてそして死ぬ。俺には到達できない場所だ。ちょっと羨ましい。
「ありがとう。俺もお前や、他のお湯達とずっといたいと思うんだ。でも俺には止められない。俺は主人に気持ちよく風呂に入ってもらいたいからな。毎日掃除をしてくれる良い彼女だ。お前なら……何かまた生まれかわったら会える気がするよ』
 彼女らしきものが俺の中に手を突っ込んでいた。
 体が消えていくようだった。湯船の口調に熱さがなくなった時が崩壊の始まりだったんだろう。
 こぽん、と何かは外れる音と共に俺が吸い込まれていく。体が徐々に総量を少なくしていく。ああ、そうか。俺はこれから死ぬんだな。お湯として、天寿を全うするんだ。人間を温めて、湯船を満たして、そして排水溝に流れて温度を失い、水となって、死ぬ。
 でも、嬉しかったよ。湯船。
「嬉しい?」
 ああ。俺は聴覚と触覚はある。でも見えないんだ。俺の体がたゆたうのは感じ取れるが、俺の意識は暗闇の中にある。だから、お前が話してくれて。いろいろ話してくれただけでも満足さ。俺がいた世界は、確かに輝いていると実感できたよ。お前みたいな湯船がいるんだからな。
「そうか……そう言ってくれると俺も嬉しいぜ。あばよ。兄弟」
 兄弟? 俺はお前の兄か弟か?
「決まってるだろう。兄さ」
 なんでだ?
「お前達お湯は、俺が生まれるずっと前からあるんだから。温められた水が、お湯さ。そして水は何億年も前からあるそうだ。そして世界を回ってる。お前達は水の子供で、俺はお前をずっと待ってるから弟なんだ。待ってればいつか、またお前に会えるはずだ」
 そうか。なら。
 たとえお前が死んでも、俺はどこかで生きているんだな。
「そうなるな。その時、お前の意志があるか分からないがな。でも俺が死ぬ前にやっぱり、お前に会いたいもんだ」
 こぽこぽと音が小さくなる。俺の体はもう湯船の床を濡らすだけでも大変で。
 意識が薄くなって、消えていく。排水溝に吸い込まれていく俺。
「いつか、また会おうな」
 湯船の声は、もう聞こえなかった。


 * * * * *


 意識の蓋を開けると、どうやら俺は蛇口から出ているらしかった。温かさが広がる俺の体は徐々にその勢力を伸ばしていく。こうして溜められているとなると、俺はどうやらお風呂の湯として使われるらしい。
「お、まだ満たされてないのに意識があるとは珍しいな」
 かけられた声に驚く。どうやら湯船がしゃべっているらしい。俺に意識があることを看破するとは。
「そりゃ体が触れていればお前の気持ちは分かるさ。何しろ液体だからな」
 なるほどな。透明だけに心も見透かされるわけか。
 なら、伝わってるだろうか。俺の中にある、何か暖かな気持ちに。
「自分の温かさを勘違いしてるんじゃねぇか?」
 良く分からん。何しろ俺は生まれたてだからな。あんたは?
「俺はもう三十年は湯船をしている。お前とは主人が湯浴みをする間の付き合いだが、仲良くしよう」
 ああ。よければ話を聞かせてくれないか。何しろ俺は零歳だからな。
「良いだろう。だがその前に一言『ただいま』と言ってくれ」
 あ? 別にいいが。
 ただいま。
「おかえり」
 心なしか、湯船が俺を温かく包んでくれたような、気がした。
「まずはここの主人の話をしよう。女は無類の綺麗好きでな――」


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