夜明けまで

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 星空に手を伸ばせば、簡単に届きそうで。冬から春へ向かう風は身体を引き裂きそうで。それでも内からの熱は消えず、星の光に呼応してまた力となる。
 誰もいないマウンド。そこに立つ一人の男。ジャンバーを脱いでユニフォームを露出させると更に冷気が彼の身を切った。
「寒いな、やっぱり」
 息の白さは一冬のそれとは異なり和らいでいたが、それでも一時間ほど準備運動でほぐしてきた肉体を多少なりとも固くする。坊主頭の名残を残す、短めの髪。眉毛の下にある切れ長の瞳はほんの半年前まで数々のバッターを射抜き、制してきた。その右腕が振り切られるたび、人々は歓声を上げ、対峙した相手の嘆息が漏れた。
 自分の思うように討ち取る。背中を預けるは信頼する仲間たち。自らの球を投げ込むのは最高の友。
 野球のグラウンドは彼にとっての一つの世界。マウンドは聖域だった。過去を振り返っている間に、ペダルをこぐ音と共に思考へと割り込む。聖域であるその世界へと入ることが出来る唯一の存在、半身ともいうべき者がグラウンドへと続く道を自転車で進んでくる。
 三年間見てきた顔に巨体。野球から離れていても、贅肉が多くなったわけではない。すでに大学野球、その先を視野に入れて欠かさずバットを振ってきた男の二の腕がジャンバーに包まれていても分かった。
「お待たせ、悟」
「圭吾」
 上条悟は御日村圭吾の言葉に応えながら、ポケットに入れておいた硬球を取り出した。両手でざらつく表面をなぞり、右手でしっかり持つと空を見上げる。あと三十分もすれば太陽が昇り、星たちは光の中に姿を消す。
 夜と朝が混在するこの時間を悟は心地よく思い、たまに家の窓からその光景を見ていた。この時間を選んだのも、この幻想的な空間でけじめをつけたかったからだ。
「身体は温まってるから、さっそくやるかー」
「おう!」
 距離があるため声を多少大きくする。何も言わずにキャッチャーミットをつけて、圭吾はホームベースの後ろに座った。元々大きな身体が、あるべき場所に落ち着くだけで更に存在感と共に大きく映る。忘れかけていた緊張が悟を包み込んでいく。
(この感じだ)
 半年前に置いてきた物。高校三年間の野球が終わった日からの忘れ物。自分の身体に、右手に。そして心に。
 過去の自分が宿る。
「行くぞ!」
「よっし、こーい!」
 一度ミットに右手を叩きつけて構える圭吾。場所はストライクゾーンの中心。
 悟はゆっくりと足を上げ、ミット目掛けて思い切り腕を、振った。
 かすかに肩を走る痛みに悟は顔をしかめる。それでも球はキャッチャーミットの中に収まった。
 かつての速球の半分にも満たない程度の速度で。山なりに進みながらも。
「コントロールは全然変わってないな!」
 心の底から湧き出たような笑顔で球を返す圭吾に、悟は無言の笑みを送る。圭吾とは逆に、身体の奥底から湧き出る闇を抑えていることで出る、曖昧なもの。
 本当のことはいつも残酷だった。
 最後の夏に向けて一人で投げていた悟の肩は一瞬で壊れ、チームと共に終わった。
 野球の中で生きることさえ叶わぬほど、悟の肩はガラクタに成り下がった。百五十キロは出ていただろう速球は影もなく、自分の誇りを失った者の行き着く先は自虐、堕落。逃避。
 共に汗を流した仲間も、最高の友さえも拒絶して悟は勉強だけに打ち込み、地元から離れた大学へと進学することが決まった。
 そして悟は大事なものを落としていたことに気づいた。
「二球目、いくぞ」
「おう! 次はここだ!」
 構えられたのはバッターの懐をえぐるような位置。審判によるかもしれないがぎりぎりストライクが入る。
 振りかぶり、左足を踏み出す。綺麗に振りきられた腕から球が飛ぶ。今度は多少滑らかに、速度も一球目より上だった。構えられた位置から少しもずれることはなくミットに収まる。
「やっぱり、お前の球受けるの気持ちいいわ」
「こんな速さでか?」
 形容するならば、小学生がキャッチボールをするかのような速さ。そんな球など、自分が投げるものだと悟は信じたくはなかった。音を立てて崩れた日から腕は別の誰かの物で、本当の腕は敗北したマウンドに忘れているのではないかとひっそりと訪れた。
 だが、悟がいつも見るのはどこかのチームが練習する姿。自分の代わりにそこに立つ、ピッチャー。投げる球はもう、誰もが悟よりも速い。悟は誰よりも、遅い。
 いい音を響かせてミットへと吸い込まれる、球。
 現実が、悟の身体を痛めつけていく。他者が感じることがない、幻の痛覚はしかし、今の悟を蝕むことはない。いつも感じていた鈍痛がこの場にはなかった。
「三球目はここ」
 低め一杯。そこに向けても今までと変わらないコントロールで、悟は球を投げた。同じく軽い音を立てて吸い込まれる。
「うん。どんな速さだろうと、お前の球だよ」
「圭吾」
「ん?」
 返された球を受け取って、悟は動きを止めた。名前を呼ばれたことで聞き返した圭吾だったが、続きを紡がない悟を見て立ち上がった。
「悟」
 逆に名前を呼んで言葉を続ける圭吾に、悟は顔を上げた。自然と下がっていた瞳に浮かんでいたのは、涙。
 半年前に忘れていた涙。
「お前が肩を壊したときさ、俺たち。何も出来なかった。ずっと謝りたかったんだ。ごめん」
 深く頭を下げる圭吾にかける言葉を探す悟だったが、浮かんでは消えていく。掴もうとすれば霧散してしまう。時間だけが過ぎていく。
 圭吾は頭を上げると悟の狼狽を見て取り、微笑んでからまた座ってミットを構えた。
「投げてこい。これで、しばらく受けられないんだろうし」
「次に会えるのは、夏休み、かな」
 悟は涙を拭くとゆっくりと両手を上げ、振りかぶると硬球を放つ。今できる最高の力で。たとえ威力は全くなくとも、自分の思いを込めて投げる。
 言葉では上手く伝えられない。だから、白球を投げ込む。受け止める。 二人が歩んできた過去と同じように。
 一度、二度、三度と音が連なると心なしか球がミットに収まる音が強くなった。それでも満足せずに二人は続けていく。
「夜明けまでやらせてくれ。明けたら俺は、行くから」
 消えゆく星空の下、白球が二人の間を行きかう。言葉と共に。言葉にならない思いと共に。
「俺もだ。またいつか、こうしてお前の球を受けさせてくれよ」
 群青色の空は東から茜色により侵食されていく。夜の終わり。昨日の終わり。
 そして、今日の始まり。
 追い立てられるように消えていく空を感じながら、悟はミットへと投げ続ける。
 星空に手を伸ばせば、簡単に届きそうで。
 冬から春へ向かう風は身体を引き裂きそうで。
 それでも内からの熱は消えず、雀たちによる夜明けの調べに呼応して力となった。
 一人立つマウンド。二人で作る世界。身を切る寒さも、別れの痛みも、新たな世界への不安も。何もかも関係ない。
 ただ、時の一点で、悟と圭吾は一球により繋がっていた。
「ごめんな……いままで」
 かすかに漏れた言葉が圭吾へと伝わったかどうか、悟には分からない。
 だからこそ、投げる。
 辛い現実と向き合い、進むことこそが友に見せるべきものなのだと悟は思った。


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