『柔らかな時間』


 まどろみから目覚めると、軽い倦怠感が身体を包んでいた。身体も脳も疲れを癒しきれていない。だが、いつもの習慣は変わることなく繰り返され、自然と前日の記憶を呼び起こしていた。何故、自分がこんなにも疲れているのか。
 上半身を起こし、意味も無く右手を目線まで上げて振る。意味はないが、効果はあったようだ。ぼんやりとしていた視界がはっきりとする。朝の光が微かに入り込む部屋を一瞥し、瞼を閉じる。腹式呼吸を意識して、ゆっくりと息を吸う。息と共に部屋に淀んでいる前日の残像を取り込むように。
 そこで見えたのは、一人の女の姿だった。栗色の、滑らかで甘い香りが織り込まれた髪を持ち、顔はビスクドールのように白く、整っていた。
 見慣れない女を行きつけのバーで見つけるというのは、頻度は少ないがゼロではない。あそこには仕事に疲れた男が、そんな男に疲れた女が集まってくる。心に隙間を、身体には見えない穴を穿った人々はいくらでも、どこにでもいた。バーにいるのはほんの一部でしかない。途絶えることのない、一部でしか。
 俺の心と身体もまた、日々の中で風が通り抜けていた。その通り道を、何人もの女が埋めていた。同じ穴を、隙間を持つ女達。穿たれた穴の形に納まり、そして気づけば消えている。それは一瞬の実像。そして、永遠の虚像なのだろう。
 その女もまた暗い影を背負った者達の一人だった。しかし、これまで出会った誰とも違う気配――彼女を取り巻く蜜の匂いに、俺は興味を持った。
 抱く。今までの女と同じように。柔肌を傷つけぬように、ゆっくりと、時間をかけて感じた。彼女の心を満たすために。俺自身もまた、癒されるために。
(抱いた……?)
 いつもならば、ここまで記憶を呼び起こせば納得するものだった。しかし、今日は胸の奥にしこりが残っている。何が自分をそうさせるのか分からないまま、隣に埋もれている人物が動くのを見つめた。
「ぅん……」
 栗色の髪。顔の上半分だけが見え、長く整ったまつげが揺れ、その下にある大きめの瞳が覗いた。数度瞬いたあとに残りの部分が起き上がる。腕を伸ばして俺を見る体勢となると重力に従って乳房が揺れる。シーツから身体を起こしたことで、彼女が閉じ込めていた糖臭が洩れた。鼻腔をくすぐり、顔から身体へと広がっていく。血液に乗って広がる糖分から、自分までが甘い砂糖菓子にでもなったかのようだ。
「おはよ。きちゃった」
「……おはよう」
 今頃来た、ということ。それが、俺の記憶が混乱する元だったようだ。彼女に言われて甦ってきたのは、昨夜、寝ている間に何かがベッドの中へと入ってきたこと。それに構わずに、再びまどろみの海へと身を沈めたということ。どうやらそれが彼女らしい。
 反射的にカレンダーへと視線を移すと、今日の日付は彼女と初めて出会った日から三日過ぎていた。三日前の記憶と前日の記憶を混濁してしまったようだ。やはり、疲れているに違いない。
 女を抱くと、大抵は笑顔で感謝の意を込めて去っていく。そして、二度と戻ってくることはない。これは二人の間に、この部屋にたゆたっているルールだった。一度埋まった心が再び空いたならば、次は俺ではなく違う者を探す。同じ快楽では、意味がないのだ。相手も、俺も。
 ならば、どうして彼女はまた俺のところに来たのだろう? 考えようとしても、熱でもあるのか思考が形にならない。
「どうやら疲れているらしい……おはよう」
「オハヨウ」
 彼女の視線を戻すと、彼女の顔が真っ二つに割れていた。正確には一本の線が正中線に合わせて引かれている。次に頭部から等間隔に三本すぅっと中心線から真横に線が伸び、耳障りな音を立てて開かれていく。スナック菓子が入っている袋をゆっくり開ける時のような音。しかし、眼前で開かれていく頭部の中にはスナックも、柔らかい肉もない。
 あるのは、ひょろ長く伸びた三本の何か。木の枝と例えるならばいいだろう。そして、先には人間の目がついている。視線は全て俺を串刺しにして、その場に繋ぎとめていた。恐怖を感じないのはどうしてだろうか。目の前の彼女が人外の存在だとは分かっている。それでも、何故か恐れよりも感じる物がある。
「キセイシチャッタ」
 言葉をそのまま取るならば寄生しちゃった、なのだろう。この人外の存在は、どうやらユーモアがあるらしい。わざわざ「セイシ」の部分を小声で言うことで先ほど言った言葉とかけて遊んでいる。あまり面白くはないが、異文化交流としては上出来だ。そんなことを考えていると、三つ目の下から一本の管が現れた。心なしか口を突き出したような形の管先が、俺の耳元にやってくる。
「愛してる。愛してるよ」
 割れていた声がその時だけ彼女の物になった。言葉に含まれる感情、響き、抑揚。全ての要素がシロップとしてたっぷり塗られ、俺の脳髄の上から下までを貫く。
 次の瞬間から香ってきた匂いは、間違いなく砂糖の匂いだ。さらさらという音と共に自我まで崩壊していく。脳みそが、砂糖に変わったようだった。
「アイシテルヨ」
 溶け込む。水に溶ける砂糖。粘り気が生まれる砂糖水。自分がそれを飲み干す姿を想像する。脳が溶けたのに何故考えられるのか。どうして自分の姿を目の前で見つめているのか。
 それはつまり、彼女の視線で見ているということ。脳が吸い取られ、そのまま彼女と同化してしまったということだろう。
「アイシテイルヨ」
 その声は振動ではなく、意識に直接語りかけてきた。
 もう俺に身体は無い。俺の『視覚』が、白くさらりとした質感を持つ物体に変化して崩れていく身体をとらえていた。意識だけの存在となった自分。幾人もの女を射止め、抱いてきた俺が、最後に抱かれたのは、誰なのだろう。恐怖はなく、それ以上に穏やかで幸せな時間を感じさせるこの存在は。
(お前は、誰なんだ?)
 念じる。その表現が正しいのかはもう分からないが。
 答えはない。ただ、やすらぎを感じる。それが答えだと言わんばかりに。
 もう、心の隙間も身体の穴もなかった。
(穏やかな……空間)
 他にも男達がこの空間に浮かんでいるのか? これから先、何人の男達が隙間を、穴を埋めるのか。
 人ではないもの。しかし、案外本当の癒しを与えられるのは同族ではないのかもしれない。動物を愛でる。風景を見渡す。音を感じる。全ては、人間が生み出したのだとしても、人間自体ではない。それと同じことなのかも、しれなかった。
 俺はなくなった手足を想像し、空間一杯に広げた。求めていた物を精一杯腕の中に囲むように……。




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