安らかなる場所へ

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 そこは私たちのいる世界とは違う場所。
 魔法と呼ばれる夢の力が存在している場所。
 私たちと同じ外見をした魔法使いと背丈が半分ほどしかない小人さんが住人でした。
 これはその世界の中、一つの小さな場所での話です。


「おーい、お茶はまだか!」
 その青年はソファに深く腰を落とし、手に持ったお茶を高く掲げながら叫んでいました。床にはソファの持ち主であるお爺さんがうつぶせに倒され、頭からは血が流れています。幸い、息がありますが急いで治療しなければ遠いところへと旅立ってしまうでしょう。
 でも、お爺さんの背中には青年の足。自分の祖父を足蹴にしている青年の気持ちを誰がわかるでしょうか?
 時折、お金をせびりにきては虐待を繰り返す青年にお爺さんも困り果てていましたが、魔法が使えるので逆らうことは出来なかったのです。
「お茶はまだかと聞いている!」
 しかし、最近は青年の様子も変わってきました。特に今回、青年の視界にはお爺さんは入っていないようでした。まるで彼がいないものと言わんばかりにどんどんと足を踏み鳴らし、そのたびにお爺さんは「うう……」と口から喘ぎ声を洩らします。
 青年の視線が向かう先には小人が三人おりました。身体の不自由なお爺さんに雇われている小人たち。三人とも丸坊主でくりっとした瞳を持つ可愛らしい子たちでしたが、愛くるしい光がいつも宿っている瞳が今日は怖れにかげっていました。
「てか、聞こえてるか? 動けコラ」
 青年は手にしたコップを上下に激しく振ります。中にある液体が飛び散って床に零れ落ちていきます。どうやら彼は、コップの中にお茶が入っていると認識できないようです。お爺さんを踏んでいるのもどうやら認識してないからのようです。
(やっぱり、魔法の影響かな、ラン)
(だろうなー、なんだっけ、ルン)
(怖いよぅ。た、確か『ふういんされたきんだんのまほう』だよぅ、リン)
 小人たちは暴れる青年の様子を見て囁きあいます。その間にも青年は「あ? なんでお茶ないんだ? てか、俺はなんだ?」と何を怒鳴っていたか忘れています。
(力が強いから記憶が溶けていくんだって、聞いたことあったよ、ラン)
(なら、ほうっておけば忘れるんじゃー。な、ルン)
(その前におじいさんがしんじゃうよぅ、リン)
 小人の一人が指をお爺さんに向けた。お爺さんは口から少量ですが吐いて、苦しそうに唸りました。もう一刻の猶予もありません。青年をどうにかする方法を考えなければ。
 その時、小人の一人――ルンが「そうだ!」と声を上げました。あまりの大声に青年も驚いて三人を見ます。振っていたコップを止めて、青年は立ち上がりました。
「お茶まだか? てか、ご飯まだか? ご飯ってなんだ? えーと……俺は誰?」
 青年が戸惑っている間に、ルンが指を差して青年へと言葉をぶつけました。
「この××野郎!」
 その瞬間、確かに時が止まりました。青年が撒き散らしたお茶と怒気によって暖まっていた空気が冷えて、小人さんたちの汗が水へと変わります。膨れ上がる殺気に、三人は数歩後ろに下がります。
「んだと? 俺は短足じゃねぇええええ!」
 そんなことは全く言ってないのですが、青年は一気に怒りの力を解放しました。空間を占める物が空気から別のものへと変わっていきます。身体が重くなり、小人たちは顔をしかめました。
「うう、ルン、お前まさか――」
「なんてこと――」
 小人二人はルンの狙いに気づき、同時にその危険性も理解しました。何とか危険を回避しようとしましたが、青年が魔法を完成させるほうが早かったのです。
「無限の彼方へ永遠に落ちてゆけ!」
 狂乱する小人たち――ランとリンを尻目にルンは目の前に現れた絶望を見ていました。
 青年の広げた両手の上に黒い円盤が現れ、徐々に周囲の空間を吸っていきます。
 まずおじいさんの身体が浮いて黒い穴へと吸い込まれていきました。
 次に小人たち三人がまとまってそこに落ちていきました。
 景色も、音でさえも。




 ――それは時間にすれば一瞬の出来事。青年が瞬きをした後では、家は一瞬で無くなり、平野に一人彼は立っていました。
「あれ……誰? 俺? お前? 俺は……俺? オレオレ? あ、お茶、お茶? お茶って誰? 誰がお茶? 俺がお茶? お茶はまだか……お茶はまだか!」
 最初から家が無かったかのような平野の中心で、青年は誰に呼びかけているのかも分からずに叫びます。
 返ってくる声がないことさえも気づかずに。
「お茶は誰だ!」


 その叫びが届くはずの小人たちも、踏まれるお爺さんももういません。


 小人たちもおじいさんも、青年の罵声や暴力から永遠に逃れることが出来たのでした。 


 彼らが落ちた世界に何があるのかは誰にも分かりませんが、ね。


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