「はぁ」
幾度目かのため息が、夕暮れを淀ませた。人の二酸化炭素が世界を汚すのならば、間違いなく自分は地球環境に悪影響を与えていると加奈は思う。目の前から刺してくるオレンジ色の光は目に涙を溜めさせる。ちくちくと痛む瞳の防衛本能。けしてじわじわと真綿を締め上げるように学校で言われたことが原因ではない。
そう思い込むことで加奈は逃げていたのかもしれない。
「はぁ」
秋の夕暮れ。鳴くカラス。空を飛び回り、自由を満喫する彼らを眺めながら、加奈は学校から伸びる下り坂を歩いていく。手には学校指定の鞄。セーラー服のスカートは膝より少し下。髪は真っ黒で耳元で切りそろえられていて、同級生のようにピアスの穴は開いておらず、口紅も化粧もない。そこにいるのは絵に描いたような校則の具現。学生の見本となるべき高校三年生だ。少なくとも外面だけは。
「はぁ」
十までは数えたはずだと加奈は対象を定めず心の中で訴える。それ以上は面倒なのだ。だから考えることを止めたのだ。けして進路のことで説教されたことを考えないようにするためではない。
そう思い込むことで加奈は逃げていたのかもしれない。
「はぁ」
坂の終わり。平坦なアスファルト。ぶつかるすれすれを通っていく学生達。二人乗りの自転車は漕ぐ彼氏と乗る彼女。腰に回した手は二人の影を一つにまとめ、途切れる先まで伸びていく。彼らの更に横を頑張りながら進む自動車。排気ガスと黒い影を伸ばして、加奈の影を轢いていく。
「はぁ」
家までの道のりがやけに遠い。テンションの差はどうあれ、普段ならばもう家の輪郭が目に入ってきているはずだった。先日死んだ祖母の名残が消えない一軒家。四人となった家族の温もりが持つ安心感がにじみ出る一軒家。嫌いなわけではない。ただ、ショックなだけなのだ。足がいつも以上にゆっくりなのも、祖母が死んだ悲しみが消えていないから。帰ると嫌でも鼻につく仏壇への線香の匂いが嫌だから足が止まるのだ。けして自分の未来が全く分からなくて、進路希望調査の紙が真っ白だったために怒られたことを忘れるためではない。
そう思うことで加奈は逃げて――。
「はぁ……そうよ。逃げてるわよ!」
加奈が数え切れなかった三十五回目のため息。定期的に吐き出されていた負の感情を含んだ二酸化炭素は初めて滞った。吐き棄てるように紡がれた言葉は嫌悪感に満ちていた。
家まであとは曲がり角を一つ。家に帰れば少なくとも母親がいる。出来れば落ち込んだ姿など見せたくは無かった。
その時、加奈の足が止まった。徐々に消えていく夕日が影を薄く引き延ばす。
入り口で足を止めたのは、ため息に疲れたわけでも自分をごまかすためでもなかった。
「線、引かれてる」
加奈の目に飛び込んできたのはアスファルトに引かれた白い線。車道と歩道を分けるための白線だった。今朝、学校に行く時にはなかったものだが、大きなトラックが止められていたのを覚えている。おそらく、白線を引くためにいたのだろうと加奈は今更ながら気づく。
前々から求められていた白線だった。
加奈の家から学校に行くまでに、三つの道を通る。加奈の家の前の道路と、そこから出る国道。そして学校までの坂道。加奈家へと帰るためには、人が通るには不親切な道路を通るしかなかった。どのくらい不親切かと言えば、車が一台通れば通行人は身体を縦にして進まなければサイドミラーに腕をぶつけてしまうほどの狭さ。加えて、カーブが急のために制限速度で走ってきたオートバイと車があっけなく正面衝突して死亡したことを筆頭に事故が多発していた。通路を使う家には加奈より幼い子がいないため、町内会が幾度となく市に対策を依頼していたが無視されていた。
その抗議がようやく実り、実現したのが目の前の現実だ。
「何も変わってないじゃない。危なさは」
どうせならば車道を広くするか、ガードレールをつければいいのに。
そう思いつつ、引かれたばかりで汚れがほとんどない線の上に足を載せる。細い道を踏み外さないように両手を広げて足は線の上に立つ。そのままゆっくりと歩き出して、家を目指す。
「何で皆書けるんだろ。行きたい大学とか、調べたからってなんで決められるんだろ」
高校までは楽だった。中学まではエスカレーターのごとく進み、高校は学力が合ったところに進んだ。そこに自分で考える余地などほとんど無く、ただ成績が下がらないかを気にすればよかった。勉強だけやってきたおかげで学力は十分だ。先生も東大や京大などかなり難しい部類の大学を選ばなければ、今のままで十分いけると励ました。
でも大学受験は学力だけでは絞りきれないほど選択肢が存在した。同じ学力が必要なのに、いくつも大学があり、様々な顔を見せる。その中から一つを選ぶなどという行為は加奈にとって未知の領域だった。しかも進む大学で人生がほぼ決まってしまう。誰もが「高校のときのように頭で決めたら」と笑うが、加奈はどうしても笑えなかった。良く考えて決めなければと情報を集めれば集めるほど身動きが取れなくなった。
そうして気づいてしまった。自分に『考える力』がないことに。
「私はどこに行けばいいんだろ?」
レールの上を歩いてきた。それは鉄道のそれと同じく硬く、それよりも広かった。加奈は安心して足をつけることができたし、揺るがず進めた。でも、そのレールももうない。彼女の先に見えるのは、いくつもの道。蜘蛛の巣のように張り巡らされ、どこに行くのかも良く分からない多数の道。
先の見えない未来が恐怖を与えた。一と一を足せば二になる。ある場所を読めば作者の気持ちが分かる。答えが用意されている問題を解くことに慣れすぎたのかもしれない。
今現在、足を乗せている白線はどこまでも続いているように加奈は思った。人生がこの白い道のように一直線ならば、何も迷うことは無い。自分の好きなことだけに集中できるだろう。この白線を辿れば家に着くことが出来る。角を曲がって玄関を開けて中に入るだけ。
「はぁ」
ため息混じりに瞳を閉じて、線の流れのままに角を曲がった。その時だった。
「ひっ!」
大きなトラックが加奈の前を遮った。加奈は悲鳴と共に後ろに下がろうとしたが、一時的な驚きに足が竦んでしまい、大きな動きが出来なかった。幸いトラックは加奈の横をさするようにしてすれ違ったため、怪我はない。
何も持っていない左手がかすかに震える。持って行かれるとすれば、その左腕だったのだから。
「はぁ……あ?」
三十六度目のため息と感嘆。ちょうどトラックをよける行動を取った時だろう。右足が大きく白線から外れていた。でも、足は動かなくなりはしない。なくなりもしない。そのまま一歩を前に踏み出せる。
加奈は残った左足も白線から外した。そして自分の帰りを待つ家族の元へと歩き出す。
白線の外側。黒く汚れたアスファルトの上を。
(そう、か。別に白線の上を歩かなければいけないってルールは……ない、んだよね)
たったそれだけのこと。実際には際どくもなく、この道路を使っている者ならば日常茶飯事の光景だった。それでも、加奈の頭を覆っていた薄暗い雲が徐々に晴れていく。
考え付けばあまりにも単純だった。分かっていたはずなのに、当たり前のはずなのに忘れていたこと。
ただ一つの道などないのだ。あったとしても、道ではない場所を進むことも出来る。どこを向いても、道がある。
白線の内側にも外側にも。
「本当。馬鹿みたい」
気負いすぎていた自分に気づき、加奈は苦笑した。ここ数日――志望大学を聞かれた時から――見えなかった笑み。あまりにも茫漠として、形のない未来に押しつぶされようとしていた自分が落としていた物だった。
「道はどこにでもあるのにね」
白く細い道と、それを包む大きなアスファルトの道。狭まっていた視界の外には更に広い道があるのだ。
今まで自分を苛んでいた悩みが消え去っている。
軽くなった足は加奈の家の前へと彼女を運んでいた。
(今なら、笑って入れるかな)
不安は消えたわけではない。でも、少しだけ視野は広げられると理解した。ならば、まだ大丈夫のはずだ。自分には時間があるのだから。
「ただいまー」
少しだけ線香の匂いがする玄関に、加奈は元気良く入っていった。まずは祖母の仏壇に手を合わせることを考えながら。生きていることに喜びを感じながら。
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