繋がる世界を歩いていく

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『誕生日おめでとう! お互いの道をストレスに負けないよう頑張ろう!(笑)』
 そう言って笑う声までが聞こえてきそうなメールを見たら、部屋でごろごろしているなんて耐えられなかった。部屋着のジャージを脱いで、下着を取り替えて、髪の毛についている寝癖を手で押さえつける。何とか人前に出られる程度には収まった。髭面は仕方が無い。午後も四時を回っていて、今から髭を剃ったら明日の朝には剃れるほど伸びてなくて、仕事の途中に濃くなってしまう。髭剃りはタイミングが大事だった。
 仕事という単語に少しだけ頭が重くなる。明日から仕事。日曜日の憂鬱。土曜を迎える時の安らかさとは逆に、月曜に向かう曜日の、特にこの時間帯は一番辛かった。夕食を食べた後ならばまだ潔く明日を迎えようという気にもなるんだが。
「飯でも食べてくるか」
 外に出ようと思っただけで目的地は無かった。近くの古本屋で立ち読みでもして、夕食を買って帰ろうと思っていた。平日とさほど変わらない。買って来た弁当をレンジで温めて、音楽を聴きながら食べるだけだ。でも、初めてその習慣を崩してみようと思った。今までどうして考え付かなかったのか。自分に苦笑しながら、俺は部屋を出た。
 耳にはウォークマンに繋がっているイヤホン。ジーンズのポケットには携帯電話と財布。すぐそこまでやってきている夏の気温に抗うための半そでシャツ一枚。
 部屋から出て鍵を閉める。鍵が穴に入っていく音が、無人の廊下にがちゃりと響いた。社員寮は防音もしっかりしているのか、他の部屋にも誰かがいるはずなのに気配が届かない。休日に部屋に閉じこもらずに出かけているだけなのかもしれないが。音が消えていく瞬間、身震いした。この建物の中に俺一人だけしかいないような錯覚が身体を支配した。一人だけ取り残されて、無人の建物を出ても無人の街を歩くしかない妄想が怖かった。
 考えてしまえば恐ろしく、外に出てしまえば一瞬で笑いの種になる。入り口を出て、古本屋のほうへと歩き出すと、もう人の姿が見えた。何しろ目の前には小さいけれどスーパーがある。集中する人の流れを見れば、今考えていたような空想なんて塵に等しい。
 夕食にはあと二時間は早い。それまで淡々と時間を潰していくことにしよう。ウォークマンの電源を入れて徒歩を楽しもうとしたけれど、音は鳴らなかった。ポケットから取り出した本体には何も表示されていなかった。ボタンを押してもうんともすんとも言わない。どうやら充電しないといけなかったらしい。しょうがないから、イヤホンをしたまま歩いた。前から来る風が耳に当たり、イヤホンの中でうねって乾いた音を響かせる。
「はぁ」
 思わずため息をついた。前方からすぐ横を通り過ぎていった人の視線がちくりとする。
 人に触れて思い出す、メールの文面。当たり前のことなんだろうけど、友達には友達の道があるんだ。その数だけ。
 同じ高校。同じ大学でよく遊んでた友達は、いまや地元の小学校教師だった。教諭だっけ? 俺の道と交わることはまず、ない。きっとクラス会とかで会ったら夜通しカラオケで騒いだり出来るんだろうけど。こうして俺が歩いている間に何をしているんだろう。休日を本当に身体を休めるためにぐうたらとしている時に。他にも高校時代に仲が良かった奴。特に話しもしなかった奴。大学で見かけたことがあるくらいの奴に、会ったことがない人達もそれぞれの時間を過ごしている。
 今すれ違う人達も、俺と同じ時間を過ごしている。距離が離れていても、俺が足を一歩踏み出すたびに何かをしている。犬の散歩に付き合ったり、料理の支度してたり、恋人と手を繋いでいたり、もしかして子供を抱いてたり。同じ歳でもきっと、その人その人で生きてる場所が違う。でも同じ時間を過ごしていて。
 俺が過ごす一秒は、他の人が過ごす一秒。それを自覚すること。それが当たり前なのはきっと、とても重要なことで。
 ちゃんと同じ時間を過ごしていることは、とても尊いもので。
 携帯を取り出して、もう一度メールを見た。
『誕生日おめでとう! お互いの道をストレスに負けないよう頑張ろう!(笑)』
 一週間前に届いたメール。大切な、親友からのメール。高校時代に出会った、最高の友達。互いの道を頑張ろうというメールは、三日後にその意味を半分失った。もう違う場所で、同じ大地を歩くことはない。
 ちゃんと同じ時間を過ごしていることは、とても尊い。
 何度でも思う。
 失って初めて気づく。後悔はいつも後からやってくる。もっと話しておけばよかった。もっと伝えればよかった。もっと聞けばよかった。もっと。もっと。もっと。
 見ている間も歩く足は止めなかった。携帯をポケットに入れて、軽く握った。
 場所も時間も違ってしまった、あいつに何かが届くかもしれない。そんな妄想も、多分悪くない。
 後悔を抱えても、俺の時間は過ぎていく。俺が死ぬまで途切れることはない。
 大切な人がいなくなった世界で、俺は生きていく。少しでも忘れないように思いながら。思い出も後悔も全部、心に刻み付けて。
「忘れないよ」
 風がイヤホンを駆け抜けて、ごうごうと音を耳の中に運んだ。


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