『月の照らす空の下で』


 外に出て最初に感じたのは、真っ白に辺りを染める月明かりと左膝の疼きだった。上下黒のジャージ。下は二枚重ねて上はランニング用のジャケットを着ているのに、秋半ばの空気は上着を透過して肌を撫でる。その寒さにもすぐ慣れたけれど、最後まで疼きは残った。
 ほぼ一年前に怪我をしたことで断念した陸上の世界を、疼きは思い出させる。あの時のように走ることはできないことを。
 あの時の栄光と、没落を。
 大会記録を生み出した足の輝きは、治療痕の残る膝では取り戻すことはできなかった。それが分かった時に全身を覆ったのは黒く重い感情だった。今、俺の上に広がっている夜空のような色。星も月もなく、ただひたすらに暗い空が心も身体も包んでいた。
 でも――
『ちゃらららんららららんちゃんちゃん♪』
 ジャケットの中に入ってる携帯が着信を告げる。出てみると甲高い声が俺の耳に収まりきらず外気に触れた。
『もしもしー? 今、何してる?』
 少し携帯から耳を離して鼓膜が落ち着くのを待つ。その間も返事がないからか『どうしたの?』『生きてる? 死んでる?』と途切れることなく聞こえてくる慣れ親しんだ声。自然と口元がほころびた。
「もしもし。聞こえてるよ。少し落ち着け」
『なんだー。もっと早く返事してよ』
「そっちが言わせてくれなかったんだ」
 そこまで話してようやくお互いに笑った。ここ一週間毎日かかってきていた電話。もう思い切り走ることが出来ないという現実にようやく向き合えるようになった日から同じ時間に話すようになった相手。
『なんか凄い静かだね。部屋じゃないの?』
「また走ろうと、思ってさ」
 白い息と一緒に紡いだ言葉は、相手の思考を一瞬止めたらしい。すんなりと理解できないのも無理はなかった。ほんの少し前は『走る』という単語を聞くだけで怒り狂っていたんだから。
 でも、そんな過去があるからこそ彼女に一番初めに聞いて欲しかった。
 俺の決意を。この言葉を、きっと待っていてくれたはずだから。
『そ、っか……また、走るんだね』
「ああ。黄金の足はもうないけど、ただの足でも走れるし」
 昔称された大仰な名前も、前は苦痛だった。表彰台に乗ると何度も言われた。俺は足であり、足が俺の全てだった。俺という人間の価値が黄金の足という名前に集約されていた。その価値が消え去ったからこそ、俺は壊れてしまったんだろう。
「よろこんでくれないの?」
 相手が否定するのを分かっていて言う。意地悪を見越してか、電話先で軽く笑みが洩れる気配がある。
『まさか! 誰よりも私が走り出すのを待ってたんだから。雅樹が走り出すの』
 鼻の奥がツンとする。夜気のせいだけじゃない。電話の先にいる、俺とずっと一緒にいてくれた幼馴染の言葉がたまらなく嬉しくて、想いが形になって身体の外に出ようとしているんだ。
「ありが、とうな。香奈」
 言葉にすると、自分の抱えている感謝の気持ちとかいろいろな物を少ししか伝えられない。もっと、伝えられれば良いのに。
『私は昔から雅樹が好きだったよ。走ってても走ってなくても雅樹の価値は変わらないもん』
「そうだよな……俺もようやく気づけた」
 返事をしつつ、ゆっくりと屈伸を始める。寒い中で動いてなかった身体は、最初は痛みがあったけれどすぐ消える。両足をそろえての屈伸から片方ずつ伸ばし、三往復してからアキレス腱を伸ばす。
「本当、走ることが好きだったのにさ。いつの間にか記録のためとか誉められることのために走ってた。だから……こうなったのかもしれないよな」
『違うよ』
 最後に左足のアキレス腱を伸ばしていた動きを止めた。予想していなかった言葉だった。
『ただ単に、運が悪かっただけだよ。何でも自分の考えのせいとか、被害妄想過ぎ』
 脳内で反芻する。堪えきれずに大きく、そして長く笑ってしまった。思ってもみないほどに。
『雅樹?』
「いや、ごめん。本当被害妄想だよなぁ」
 笑いの合間に何とか言って、収まったところで一呼吸置く。一度深く息を吸い、静かに吐いた。
「じゃあ、いくわ」
『……うん。ファイト!』
「おう」
 名残惜しさを我慢して電源を切る。さっきまでの騒がしさが消えて急に不安になった。忘れていた左膝の疼きが甦る。
「ま、気長に慣れればいいさ」
 最初の一歩はすんなりと踏み出せた。いきなり走るのは無理だろうから、今日はウォーキング。それでも汗を流すくらいの距離は歩こうと考えていた。
 もう、黄金の足はない。
 あるのはただの足。価値がなくなった代わりに、新しい価値を生んだ足だ。
 少しずつ、走ることの価値を積み上げていこう。



 月が煌々と照らす空の下、俺はゆっくりと歩いていった。





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