『糖死』





『あっまーい! 甘いよ〜。糖尿病になりそうなくらい甘いよ!』



 ――テレビで二人の男がコントをしております。一人が腰も砕けるような台詞を言い、

一人が突っ込んでおります。その叫び声は良く通り、まるで透き通ったはちみつのよう。

 巻き起こる笑いをバックミュージックにして、中島葵と橋島幸平君は向かい合っており

ました。座卓にそれぞれ問題集を広げて。

 三月三日、ひな祭り。

 しかし、もう十六になった葵は関係ないと言わんばかりに、雛人形はもちろんぬいぐる

みさえも部屋には置いておりません。あるのはベッドと本棚と机。超殺風景な部屋で、二

人は勉強をしておりました。次の週にある期末テストのためです。今日は平日ですが、高

校入試のために学校はお休みなのです。

「ここってさぁ、どうやるの?」

「これはね――ってやれば――」

「あは。だから幸平好きだよ」

 ただ単に足し算するのに教えを請う葵も葵ですし、それを『しょうがない』という気持

ちを顔に出さないで教える幸平君も幸平君です。そして些細なことで好きと言う想いを告

げる葵に、言葉を聞いて赤くなる幸平君……。

 何か……背中にじんましんが出ているよう感じるのは気のせいでしょうか?

「葵さ……なんで、テレビつけてるの?」

 向かいに女の子座りをして数学の問題を解き続けている葵に、幸平君は尋ねました。同

じく数学の問題に視線を向けながら。停滞なく公式に当てはめ、解いていく様子は秀才と

いう言葉を語らずとも示しております。女の子のように柔らかい髪の毛は触ると気持ちが

良さそう。優しく視線を向ける目はあまたの異性を落としてきたことでしょう。それが葵

の物となったのは偶然なのか必然なのか。

「なんか音があったほうがねぇ……でーきたっと!」

 葵はテレビの音量に負けないくらい叫び、両手を広げて後ろに倒れました。シャープペ

ンは宙を舞い、机の上に跳ねます。倒れると共に両足も広げたことで、穿いている紺のミ

ニスカートがめくれました。明かされそうになる女の子の秘密に幸平君は少しどぎまぎし

ながらも、境界線である座卓を超えません。

 さすが幸平君。三ヶ月付き合ってまだキスをしていないだけあります。

「はしたないよ、葵……黙ってれば可愛いのに」

「へーん。内面の可愛さを理解しない人には私はなびかないのだ!」

 幸平君も十分美形……というより可愛いですが、葵もまた可愛いと呼ばれるほどではあ

ありました。最近は染めることが普通になっているでしょうに、一度も人為的に痛めつけ

られたことがない髪の毛は黒光りするほど綺麗です。長くすれば映えると思っていたので

すが、当人が洗う際に面倒だからとショートカットにしているのです。その結果、程よい

肉付きの頬とくりっとした瞳が際立ったということらしいです。世の中、何が上手くいく

か分かりません。

 どぎまぎから回復した幸平君も問題を解き終え、問題集を閉じました。二人が勉強を始

めて二時間。そろそろ夕刻であります。夕日が窓から差し込んできて、幸平君の横顔が茜

色に染まりました。その顔を見て葵は顔を赤らめたようです。しばらく凝視してから頭を

振りました。

「どうしたの?」

 葵の心境に気づいていない幸平君は、座卓を壁に立てかけて葵に近づきました。葵はは

っとして起き上がり、乱れたスカートを直します。

 その行為に幸平君も何かを思ったのか、動きを止めました。

 ういういしい……。きっと二人の中では葛藤が起こっていることでしょう。

 夕焼けに染まる部屋。

 二人きりの部屋。

 後ろでは続けてお笑いが――

「テレビ、消すね」

 やはりお笑いは邪魔なようです。残念っ。

 音が消えると、場を包むのは静寂。幸平君はわざとらしく咳をして、葵もまた視線を合

わせないためにか右手の爪を左手の指でなぞっています。硬直状態のまま五分経過。二人

とも突破口を開こうと互いの気配を読み、戦略を練っております。脳の気分はスーパーコ

ンピューターです。

 恋愛は闘い。相手の先の先、更に先を読みきり、勝利する。

 昔の人はよく言ったものですね、『告白はスタート』だと。二人の恋愛バトルの、これ

は始まりなのでしょう。

「あ、葵」

「は! はぃいいっ!」

 あらあら葵ったら。拳を突き出す時に発しそうな気合の咆哮だなんてみっともない。で

も幸平君も自分の心臓の音に聴力を奪われているのか、葵の奇声にはコメントを挟まずに

近づいていきました。狭い部屋のこと、二人の距離はすぐにゼロになります。

「あの、さ。そろそろ……三ヶ月だよな、俺達」

「う、うううう! ううううううんっ!」

 緊張して体内に溜まったエネルギーが両手に回ったのか、無意味に両手をばたつかせる

葵。そんな葵を、幸平君は抱きしめました。がっしりと。そりゃあ、がっしりと。幸平君

の肩口に口付けする形になり、葵は力を抜きました。

「……」

「そろそろ、駄目?」

 抱きしめている幸平君の口はちょうど葵の耳の傍にありました。耳口をくすぐる熱い吐

息。抑えきれず流れ出す欲望に反応して、葵の身体が震えました。耳から脳に。そして全

身に伝わる衝動は、葵の沸点を一気に越えたようです。

 腰が砕け、身体はずるずると滑り落ち、葵の額と幸平君の太腿が挨拶を交わしました。

もう少し頭が上だと危険でしたね。幸平君も慌ててしゃがみこみ、葵の肩を掴んで呼びか

けます。

「葵……葵?」







 ――ゲーム、オーバーですね。







「うにゃらあああああああ!」

「うわわわっ!?」

 突如、先ほどとは比べ物にならないほどの奇声を上げて自分を振り払った葵を、幸平君

は唖然として眺めておりました。やはりこういったことは初めてだったのでしょう。幸平

君の理性は賞賛に値します。健全な男子高校生ならば、すでに唇を奪うだけではなくいや

んうふんばかんあはんな世界へと突入してるでしょうから、普通は。

「うにゃぁああん! にゃんにゃん!」

 顔を赤らめて、しかし焦点があってない眼は中空を見据えています。身体をくねらせて

床を転がり、口では「うにゃうにゃ」と呟き続けている様子は、幽霊にでも取り付かれた

ように見えます。幸平君があ然を通り越して部屋から去らないか心配です。

 でも、それは奇遇に終わったようです。

 散々転がっていた葵は落ち着きを取り戻したのか、膝を抱えて寝転びました。

 眼を閉じ、非常にリラックスしております。

 これはやはり『あの兆候』か。

「葵?」

「……にゃーん」

 眼をぱちっと開いた葵は正に猫なで声を上げて、座った状態の幸平君の膝へと飛び込み

ました。何度か頬をすり合わせてうにゃうにゃ言った後、すーすーと寝息を立て始めたの

です。奇行を目の当たりにしたことや、自分の膝を占領して気持ちよさそうにしている葵

を見て、幸平君は動けなくなったようです。

「……俺も男なんだけれどな」

 わけが分からないなりに、今日はこれ以上距離は詰められないことを理解したのか、そ

の声には悲哀が混じっておりました。私は思わず心の中で謝りました。ごめんなさい幸平

君。娘が一定以上のストレスを超えたら何故か猫真似に走り、あのように寝てしまうのだ

ともう少し早く教えてあげればよかったと後悔してしまいます。

 もう二十七回も、二人をこうして見守っていたというのに。

「しょうがないな……」

 幸平君は諦めを滲ませながら、眠る葵の頭を撫でます。「ふみゅぅ」と言葉を漏らしつ

つ、葵は閉じている眼を柔らかな形へと変えました。よほど気持ちがいいのでしょう。

 茜色に染まる部屋。

 二人きりの部屋。

 邪魔者はいないのに、ただ頭を撫で、撫でられる。

「……甘い」

 口の中に広がる甘味。

 存在しないはちみつの味。

 私は天井の穴を塞ぎました。あとは若い二人に任せることにしましょう。

 現実に立ち戻ると寒さに身体が震えました。そう、今は三月。まだまだ屋根裏に潜むに

は寒い時期なのです。

「凍死が先か……糖死が先か」

 不意に思いついた言葉に笑いをかみ殺しながら、ゆっくりと隣の部屋の真上へと進み、

音を立てないように降りました。

 そして私はいつものように、幸平君に気づかれないよう抜き足差し足で階下へと降りて

いくのでした。





 ……別の意味で赤飯にならず、残念。



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