秋吉香澄に取って目覚めは快適だった。それは春を流れゆく小川に足をつけている間の爽やかさに似ている。多少冷たいが、足元から細胞を一新していくかのようなもの。
どんな夢を見ていたのかを香澄は覚えてはいなかったが、起きる寸前には憧れの幼馴染である日下部正志の唇が自分の唇と重なったような気がしていた。目覚めた彼女の頭はまだ靄に包まれていたが身体は火照り、彼の身体を求める。
背中に下りる黒髪の毛先は神に定められたかのごとく、列を乱さず下へと進んでいた。顔には大きな瞳。つぶらな口。弾力があり、若さゆえのきらめきが混じっている唇が整えられている。高校二年にしては成熟した肉体が、衝動に耐え切れず躍動する。
「正志くぅん……」
上下左右に揺れる身体。合わせて胸に踊る二つの果実。最初はゆったりとした速度だったものが八の字を描くように動き、速度を増していく。そのまま、前へと足を踏み出す。
「ふ、ぉおおおああああ!」
興奮した身体と心を抑えるために、香澄は気合一声と共に正拳突きを放った。向かう先は部屋の中心に立つ木の板。藁が中心に巻いてあり、何度も打ち抜かれた痕が残っている。
「ちぇすとぉお!」
渾身の右足の踏み込み。一瞬後に拳が藁へとたどり着く。
大砲が発射された時の振動と爆音を残して、板は半ばからへし折れた。威力の凄さを物語るかのように、折れた部分から煙が出ていたように香澄には思えたが「まあいいか」と呟いて突き出したままの拳を収めた。
「目覚めの一撃はオーケーね。これで正志君のハートもブレイクショットよ! この想い、届けてみせます!」
壊しても仕方がないという思考は彼女にはない。香澄は自分に酔いしれる。あることから隣の幼馴染を守ろうと決意し、始めた空手がやがて競技から逸脱。最後には道場出入り禁止になるほどの荒業に昇華された香澄流の空手『KARATE』は町内では伝説と化しつつあった。
しかし、町内には轟いても最も伝えたい相手に気持ちは伝わらない。風評ばかりが一人歩きし、表面だけが暴走する。
「本当。失礼しちゃうわ。私ほど繊細な乙女はいないのに」
「繊細な乙女が不良三十名撲殺しますの?」
「撲殺なんてしないわよ! 両手の骨折るくらいなのに!」
ノックもせずにドアを開けたのは、紺の制服に身を包んだ同じ顔の女子高生。双子の妹である佳奈美だった。
香澄と同じく長く艶やかな髪を差別化のためにツインテールとし、その下に一般人よりも大き目の瞳を持った愛らしい女の子だった。十歳くらいまではロリコンを引き寄せる魅力を放ち、両親の悩みの種の一つになるほどだったが、結局は一人の人間への愛が変質者から自らの身を守ることになったのだ。彼女の開発した『JYUDO』は道場出入り禁止にな以下同文。
「ちなみに、私は全員均等に全治二週間で済ませる自信がありますわよ。姉さんのがさつさは直さないと殿方に嫌われます」
「私はね! アンタと違って相手に情けなんてかけないの! 駄目男は駄目男らしく社会の底辺を彷徨ってなさい!」
中学一年時、不良に絡まれて一週間ほど入院する羽目になった正志を見た香澄はそれから暴漢には容赦しなくなった。反対に佳奈美は相手をいかに戦闘不能にするかを追及しているらしく、さほど相手自身には興味がない。
彼女が意識の中に入れるのは愛する者たちだけ。
「でも姉さん。もうすぐ時間なのにパジャマ姿でよろしいんですの?」
「ええ!?」
香澄が時計を見るとすでに八時。いつもならば妹と共に正志との待ち合わせ場所へと走っている時間だった。
「あらいけない! 佳奈美は私を遮る愛の障害物なの!?」
言葉と右腕は完全に繋がっていた。起き抜けの一撃は足の踏み込みから力を伝達していたが、今度は完全なノーモーション。右足と右腕が同時に破壊対象を捉えた、かに見えた。
「相変わらず威力十分ですわね」
右腕を弾き飛ばした左手がしびれるのを隠さず、右手で抑える。その様子を見て満足したのか、香澄は笑いながら制服に着替えるためにパジャマを脱ぎ、ドアを閉めた。
扉越しに聞こえる鼻歌。それは佳奈美の鼻の奥をツンとさせ、涙腺を緩ませる。香澄が上機嫌になるのは正志のことを考えている時。たとえ不機嫌になってもすぐ元に戻ることを佳奈美は中一から今まで見続けてきたのだ。
「いつまで、いない人のために強くなるの?」
部屋の前から去り、階下に降りながら佳奈美は涙を抑えることが出来なかった。頬を伝う水滴を止める為に両掌を目元に当てる。堰き止められて衝動が収まるかと言うとそんなことはなく、嗚咽を聞かれないように洗面所へと小走りで進んだ。たどり着き、レバーを下げて水を精一杯出して悲しみをかき消す。
「いつになったら、私の気持ち、届くのかな?」
姉が来る前にまた仮面をつけなければならない。少し高飛車で、姉に対して対抗心を燃やしている、恋敵である妹を取り戻さなければならない。それは中一から続けてきたこと。顔を何度か冷たい水で洗い、タオルで拭けば仮面をつけることが出来る。
佳奈美にとってそれは儀式だった。姉と同じ世界に生きるための。
中学一年時、不良数名に暴行され一週間ほど入院することになった香澄は、退院してからは入院前よりも明るくなっていた。最初は佳奈美も両親も喜んだが、その明るさは佳奈美たちの住む世界と少しずれた場所に片足を入れたことで手に入れたものだった。
退院した日に佳奈美が香澄から告げられたのは、日下部正志という架空の幼馴染を思っていること。不良に襲われ入院したのは正志で、香澄は彼をお見舞いに来ただけというと。
『だから不良なんて許せない! 正志のために私は空手を習うわ! ばったばったと倒してやる!』
その日のうちに両親へと打診し、次の日からは空手道場を探すことになった香澄。両親も医者も、一時的なものでいつか現実と向き合えるようになると空手に打ち込むことを快く思い、見ていた。しかし佳奈美は嫌だった。双子として一緒にいた時間が、その時から断裂したような想いにかられたからだ。
「早く、戻ってきてよ。おねえちゃん」
同じものから分たれた二人。片方は妄想と現実の狭間を漂い、自分は姉の暴走を止める為に柔道を学んだ。実際、香澄は自ら言うように不良たちに容赦はしない。それこそ、死人がでてもおかしくないほど。だからこそ、佳奈美は強くなり、香澄を強引にでも止めるしかなかった。
しかし、今日の右腕の痺れを思い出して佳奈美は顔をゆがめる。
時折走る心への痛み。元々才能があったのか、人間離れした強さを得ていく姉に追いつけなくなる日がくるのではないか。そして、殺人犯にしてしまわないか。双子という存在だからこそ、佳奈美は自分の力で姉を止めたかった。半身も同然だったから。
「佳奈美」
声に驚いて嗚咽を止める。振り返ると、香澄が制服に着替えて立っていた。洗面台を使うのだろうと佳奈美は無言で避けていこうとする。それを、香澄は止めた。
「私……中一の」
「え?」
香澄の青ざめた顔に流れる汗を見て、佳奈美は望んだ瞬間が訪れたのかと思った。過去を思い出し、半分妄想に浸かっていた身体を、全て現実に戻したのかと。
だが、香澄の震えもすぐに止まり、部屋の中に入った際に見た夢見る乙女の顔へと戻る。
「正志が待ってるからはやくいかないとー。ふっふーん」
全くの別人と化し、鏡に向かって化粧を始める姉を見た佳奈美は廊下へと出た。胸の奥に走る痛み。しかし、それは今までよりも和らいでいた。
(少しずつでも戻って来てる。なら、頑張る価値はある)
正志に奪われた姉の心を取り戻す。進展のない喜劇が実は静かに動いていたのだと知り、佳奈美の心は強さを取り戻す。
自分の心を届かせるために闘う決意を新たにして、佳奈美は靴を履きながら香澄へと言った。
「はら。早くしないと遅れますわよ!」
闘志も、痛みも、一つの心に。
自分の想いを届ける日を目指して、佳奈美はまた歩いていく。
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