朝倉鳴海が車を避けきれずに倒れて後頭部を打って死んだのは、今日のような雨の日だったらしい。知らされたのは事故のあった十日後で、もう葬式も終わって骨壺に入っていた。仕事が忙しくて仏壇に手を合わせることが出来たのは一年後――つまり、今日。仏壇には、卒業して離れてから十年経った鳴海の顔写真。彼氏と一緒の時に撮ったものなのかとても綺麗な笑顔だった。淡い恋心を抱いていた学生時代に遂に見れなかった顔。自分の中だけの呼び捨てを本人に告げることが出来ないまま、場所も心の距離も離れて、年に数回やり取りしていた電話やメールも届かなくなった。
鳴海はもう、思い出の中にしかいない。そこで回想は終わった。俺は降りしきる雨からくる冷たさに身体を震わせた。
「なら、思い出に浸らないか?」
一周忌の席で言った同級生の間宮敏樹は今、必死に穴を掘っていた。隣で傘をさして雨を防いでいるのは同級の深山佐奈。左手薬指にある、敏樹からもらった指輪は雨に濡れていて、凍えていた。
時刻は夜の九時を過ぎ。夜の高校には外灯がぽつぽつと明かりが灯っているけれど、懐中電灯の明かりだけでも遠くから見られたら怪しまれるだろう。その時は素直に怒られ、帰ろうとは思っていた。でも、その前にどうしても思い出に浸りたかった。
鳴海には何度も告白しようと思っていたけれど、とうとう言えなかった。学年でも有数の美女と噂されて、何度も男子に告白された。その中には俺よりもずっとかっこよくて、女子の人気を集めた男もいたのに、鳴海は優しく微笑んで断っていた。結局、彼女と付き合ったという男子は高校時代にはいなかった。あの笑みには、どういう理由があったのか聞きたかったけれど、友達グループという関係を崩したくなかったから、聞けなかった。皆が手に出来ない花を近くで見ることが出来るだけで、優越感もあった。かっこいい男がうな垂れているのを見ていると、少し楽しかった。
「交代、頼む」
「了解」
額の汗を拭ってスコップを手渡してくる敏樹に、俺は答えて柄を力強く掴む。そうしなければ痙攣して握れない。給料をもらう立場になってから運動なんてしてない身体は正直だ。友を思う気持ちは肉体を凌駕なんてしない。目的の物を埋めた場所を忘れたからと手当たり次第にそれっぽい所を掘っても見つからない。
「これで見つからないなら諦めるか」
「敏樹が言いだしたのに」
「いや、思い出に浸る俺達青春、と思――ま、まあ、朝倉のタイムカプセルの中身を墓前に添えたかったしな」
タイムカプセル。十年前が詰まった箱。箱だからタイムボックスか。口には出さなかったが、諦めたくない。敏樹は青春を少しでも感じよう思っているんだろうけど、俺は違う。心から、十年前の彼女に会いたい。
『小島君。私はね、魔法を詰めてみたんだ。開ける時、皆にかかるように』
あの時、鳴海はそう言って微笑んだ。彼女が言葉を紡ぐたび、彼女が微笑むたび、彼女が風の中を歩くたびに高鳴った鼓動。そこから生まれる緊張を解すために、俺は彼女の言葉を笑い飛ばした。魔法なんて冗談を誰が信じるのか。
でも、鳴海は最後まで微笑を絶やすことは無かった。自分の想いに絶対の自信がある。敏樹たちに埋められていく箱の中に、大人へと旅立つ前の自分が込めた魔法が入っている。そう信じてた。
彼女が死んだ今になって、自信の理由を確かめたかった。すでに俺は、鳴海の魔法にかかっているんだ。掘り起こそうとしている今が、魔法の効果だ。笑い飛ばしたことの真実を知りたいという衝動は、下がる気温に反比例して熱を帯びていく。雨に濡れた地面は掘りやすくなったものの、蓄積した疲労で効率は悪い。あと一掘りで敏樹に代わろうと思ったその時。
「いてっ」
両腕に走った痛みにスコップを取り落とした。肘まで電気が走ったみたいに振るえて、少しの間動けなかった。敏樹と佐奈が傍に来て、俺の視線の先を見た。安堵と、うんざりという気持ちを隠さずもせずに。
「他の穴、塞がないとな」
敏樹はため息混じりの声に無言で頷く。
地面から露出した箱の一部は、記憶に残るタイムボックスと同じ色をしていた。
「この中に魔法が入ってるのか」
「魔法?」
佐奈がこの場にそぐわない単語に声を上げた。元々ファンタジーな話を好きだったから気になるのかもしれない。疲労のせいで口が軽くなった自分が嫌だ。魔法のことは鳴海と二人の間だけで隠したかった。腕の痺れが取れたとこで、半分埋まっていた箱を力任せに掘り出した。
「まずは穴を埋めてからだ」
何か言いたかったのか、スコップを佐奈に渡すと露骨に嫌な顔をした。きっと女性に力仕事をさせるな、なんてことだろう。それでも俺たちが汗をかいて自分だけただ見ていたという状態に気まずさを抑えられなかったみたいだ。顔をぶすっと歪ませてスコップで土を穴に戻していく。その間に敏樹と二人でタイムボックスの土をはらった。
「なあ。お前、何入れた?」
「ん、えーと何だったかな」
敏樹は歯切れが悪い口調で返してくる。目的はどうあれ箱を掘り出すことに成功したんだ。もう少し喜んでもいいんじゃないだろうか。でも敏樹は不思議そうに箱を眺めている。釈然としない。記憶と現実が微妙に合わない。そんな顔。
「どうしたんだ?」
「いや。覚えてないんだよ。何を入れたのか」
敏樹は顔を青ざめさせていた。寒さに疲労。そして記憶の混乱。元気付けずにはいられなかった。
「はは。まあ、十年前だもんな。忘れるさ。穴埋め終わったら雨宿りしながら中を見よう。そうすれば思い出すって」
「……まあ、そうだな」
ボックスを持ち上げ、俺に手渡してくる敏樹。そのまま佐奈のほうへと歩いていく。スコップを佐奈からもぎ取るようにして土を穴へと戻していく。俺がバトンタッチする前に、敏樹は全ての穴を埋めていた。ちょうど雨も止み、すぐ歩いたところにある公園で中身を空けることにする。この時間にそれぞれの実家へと三人が顔を出すのは気が引けた。歩いている間、誰も口を開かない。疲れとは別の重さがあるように思えたけれど……なぜかは聞けない。どう聞いたらいいかも分からない。
結局、公園まで一言も無いまま歩き続けた。備え付けられているベンチに箱を置いた。
「じゃあ、開けるぞ」
俺が箱を持っていたからか主導権を握る。めばりをしていたガムテームを剥がすのにも苦労したが、開けてみると中は汚れていなかった。ビニール袋に包まれた茶色い包装紙。その中に、俺たちが入れた思い出と、鳴海の魔法がある。
ビニールは年月に負けて、取り出したところで破れた。中のものは丁寧に取り出して、包装紙を解いていく。
姿を見せたのは、一冊の本。
「あれ? 私たちの、は?」
佐奈の言葉に答えることが出来ない。改めてはこの中を見ても、他に入っているものはなかった。なんだこれは? 俺たちの物だけ箱の中から消えたのか?
「やっぱり」
「なにがやっぱり、なんだ?」
敏樹の言葉に耳を傾ける。今の俺や佐奈にはそれしか出来なかった。敏樹は少し気味悪そうに本を手に取り、背表紙を見る。覗き込んだ俺の目に飛び込んできたのは『朝倉鳴海』の文字。これは確かに十年前に埋められたものだと思う。そうじゃなければ、鳴海の持ち物が地面に埋まった箱から出てくるわけがない。
「何を埋めたか記憶にないんだ。多分、これは朝倉だけが埋めたんじゃないかな」
「何を馬鹿な。俺だって埋めたぞ」
「何を?」
「何をって……」
即答できない自分がいる。鳴海の魔法を見るために俺はタイムボックスを掘り起こした。自分が埋めたものを確認しようという気持ちはほとんどなかった。夢中で掘っている間も、掘り終えた後も。自分が埋めた何かがあるということが全く入ってこなかった。佐奈も不安そうな顔をして話し始める。
「私も、そういえば何埋めたんだろ。確かに鳴海にタイムカプセルの話はされてオーケーもしたと思ったんだけど」
「俺もだ。でも、実際に俺たちのものは入ってない。鳴海が単独で埋めたなら別だが……」
敏樹はゆっくりと本を開く。装丁が何も付いておらず、鳴海の名前が後ろに入っているところを見ると日記と言ったところか。何が書いてるのかと想像しようとしたところで、日記が敏樹の手から零れ落ちた。
「おっと!」
疲れているのに反応する身体に感謝した。鳴海の日記を受け止めて一息ついてから声を荒げた。
「おい! なにして」
「わりぃ。俺、怖い」
精神から来る顔の青さ。佐奈が隣に近寄って腕を取った。それでも敏樹の震えは止まらない。まるで幽霊にでも会ったみたいだ。
「お、おい。どうしたんだよ」
「うん。多分、俺も佐奈も、雅人も。タイムボックスに物なんて入れてないんだ。でもその気になってた。朝倉とたまに話すたびにタイムボックスの話されて」
「そう、言えば。鳴海と話してていつも聞いてたよね……早く十年経たないかとか。早く掘り出したいとか。私は四角い包み入れてたとか、タイムボックスはこんな色だとか」
二人の話が、すんなりと理解できなかった。でも、つまり。鳴海は、俺たちと一緒にタイムボックスに物を入れたと錯覚させたってことか?
人間の記憶なんて曖昧だ。数年も経っていればおぼろげになって、誰かが確かな記憶を受け付ける、何てことも出来るかもしれない。
でも。タイムボックスを埋めたのは卒業式を終えて数日経った日のはずだ。いくら昔の記憶でもそんな近辺の記憶が混乱するだろうか。多分、しない。埋めた物が何かを忘れたとしても、埋めたこと自体忘れるとは思えない。絶好のイベントだ。そうだ。皆で掘った穴にある程度埋めて、敏樹が仕上げてたじゃないか。それを佐奈や鳴海や俺が見てたじゃないか。あれは事実、じゃないのか?
口にすると敏樹はため息をついて言う。
「その話、鳴海がしたんだろ?」
「ああ、まだメールとか頻繁にしてた頃に……」
敏樹の言いたいことはわかった。だから言葉も途切れた。つまり、昔話をする内に作り出された、俺の想像だってことだ。皆でボックスを埋めた光景は。
「もしかしたら、これが朝倉の魔法かもしれない」
「そうね」
二人の言葉に俺は頭の内側を殴られたような気がした。魔法だって? お前たちまで、知ってるのか? じゃあ、さっき佐奈が何かを言いたそうだったのは、俺への文句じゃなくて魔法のことだったのか?
「タイムボックスを埋めてから数日後に、私言われたの。魔法を込めた箱を埋めたって。十年後に掘り返してって」
「それがいつの間にか俺たちも埋めたってことにすり替わったってことか。魔法って言葉が印象強いから、他の部分が差し替えられても気づかなかった、ってことか……さっき、雅人も言ってたよな。お前も魔法のこと、聞いたんだろ?」
そうだよ。タイムボックスを埋めた数日後に、わざわざ学校に呼び出されて、言われたよ。二人だけの秘密だって、言われたよ。でも二人だけじゃなかった。敏樹や佐奈にも同じことを言っていたんだ。仲がよかった俺たち皆に言っていた。普通にタイムボックスを埋めたなら俺たちに言うのも問題はない。でも、どうして記憶をすり替える必要があるんだ? 十年なんて気の長い年月をかけて。
敏樹は俺の手の中にある本を見て一歩下がった。さっき、これの中身を見て取り落としそうになったんだ。何が書かれているんだろう。分からないけれど、少し敏樹の気持ちも分かった。鳴海がどうして俺たちの記憶操作なんてことをやったのか理解できなかった。十年。十年だ。高校時代のことなんてセピア色になるくらいの前だ。
でも切れなかったのは、魔法がかかっていたから。
そこまでして鳴海は何をしたかったんだろう。もう聞くことは出来ない。なら、真意を確かめるには。
「この本……日記? 何、書いてあった?」
敏樹は身体の振るえを止めた。しかし、何も語ることはない。瞳は「自分で見てくれ」という想いが満ちていた。そして敏樹自身はもう見たくない、という気配を身体から滲ませている。
表紙を持とうとする右手が震える。雨は上がっているが、気温が低いまま。
何をしてる。開けろ。開ければ恐怖の正体が分かる。自分の指なのに精一杯力を込めてようやくめくると、現れたのは、一行の文章だった。
『これを見ている頃には、私は死んでいるでしょう。交通事故で』
「遺書?」
しかも、交通事故。鳴海が死んだ理由だ。これは預言書ってことになるのか? 鳴海は、自分の死因を予測していたことになる。
「そんな馬鹿な」
自分の言葉じゃないみたいだ。全然説得力がない。前にいる二人にじゃなくて、俺自身に。敏樹の顔を見ると、もう倒れそうなくらい青い。佐奈が支えているけれど、一人じゃ一緒に倒れてしまうだろう。それでも、俺はページをめくった。見る怖さよりも、見ないことで気にすることへの怖さが勝った。
『そして、これを見たあなたたちはもうすぐ、死ぬ』
もうすぐ、死ぬ? 次をめくると、もう何もなかった。立てて見ても百ページはありそうな日記なのに、最初の二ページ以外は白紙。ところどころ赤茶色した液体が飛び散っていて、血のようにも見えた。どう反応すればいいんだろう。つまり、俺たちはもうすぐ死ぬのか? 何を、バカな。
「これ、何の冗談だ?」
「わからねぇよ」
敏樹は佐奈から離れてベンチに座った。雨で湿っていたんだろうけど、気にしていられる状況じゃないみたいだ。俺も次に言う言葉が見つからない。
最初の遺書のような文章。
次に、予言。俺たちへの、死の予告。
「何なのよ、これ」
佐奈が堰を切ったように話し出す。今まで無口だった分、俺たちが怖がっていた分を一気に引き受けたように。
「何なの? 私たちが十年前に何かいれたはずのタイムボックスは、実は鳴海だけしか入れてなくて。でも私たちは自分たちも何か入れたと思い込んでて。中に入ってる日記にはなんか遺書みたいな文があって、次には私たちが死ぬ? 何なの? ワケわかんない! なんで寒い日にこんな変な思いしなきゃいけないのよ! 敏樹が悪いんでしょ!」
「俺かよ」
「あなたよ! あなたが掘り起こそうって言わなければ!」
佐奈が敏樹へと掴みかかり、ヒステリーじみた叫び声を上げていた。体力を消耗していても、敏樹は精一杯抵抗してるように見えたけれど、身体を揺さぶられている。
「おい、止め――」
二人の間に身体を入れて止めようとした時、敏樹の身体がベンチと共に後ろに倒れた。佐奈の力にベンチが押され、浮いてしまった。
「あ!」
声を上げるのと、二人が一緒に倒れるのは、同時。鈍い音が聞こえたのは、一瞬遅れた後。
「敏樹!?」
鈍い音。耳障りな。後ろに回って、敏樹が目を見開いて空を見上げているのが分かった。口は小さく開いていて、頭の後ろからはじわりと何かが染み出て。
「いやぁあああ!?」
佐奈に抱き起こされた敏樹の後頭部からは、赤い液体がにじみ出ていた。地面には頭部大の石が埋まっている。真新しい血がついている。
「敏樹! いや! 私、人殺しなんて!?」
半狂乱になっている佐奈を見ていると、逆に落ち着いた。すぐ救急車を携帯で呼び、佐奈を敏樹から引き離す。
「まだ死なない。そうやって動かしたら死ぬぞ」
「でも、うう、ああう、ああ」
さっきまでの不安が一気に吐き出されたようだ。佐奈は汚れるのにも構わず地面に座って敏樹だけを見ていた。でも焦点はあっているようには見えない。視界には映っているのかもしれないけれど。
日記をもう一度見る。鳴海の日記。死の予告。
魔法。
「まさか、鳴海」
これがお前の魔法なのか。十年かけて作り上げた、魔法なのか。俺たちがタイムボックスを埋めたと思い込むように仕向けたのも、こんな変な日記を入れたことも。まさか、死んだことも? まさか、それはないだろう、けど。
足りないのは理由だ。動機がない。こんなことを俺たちがされる理由なんてあるはずがない。でも、鳴海にはあった? 魔法だなんて言葉で俺たちを縛り付けて、こうして寒さに凍えさせられて、しまいには敏樹まで死にそうになってる。こうされる理由が、鳴海の中にはあった?
「鳴海。お前、何したかったんだよ」
十年前に埋められたタイムボックス。十年かけて強められた魔法。
『小島君。私はね、魔法を詰めてみたんだ。開ける時、皆にかかるように』
高校生の終わりに、俺は鳴海の言葉に聞き惚れた。二人だけの秘密というシチュエーションにも心臓が痛くなるまで高鳴った。でも、鳴海の微笑みの裏には何か気味の悪い意思があったんだろうか。
救急車のサイレンが近づいてくる。敏樹も、佐奈も、俺も動けない。
何かがここで終わる。何も分からずに。理由がなく現実だけあって。どうしようもない無力さに打ちのめされた。
「なんなんだよ!」
力任せに日記を地面に叩きつけても、何か分かるわけじゃない。跳ねた日記は中を開いて上を向く。
『そして、これを見たあなたたちはもうすぐ、死ぬ』
十年前の文字だけが、そこにある。確かに敏樹は死にそうだ。鳴海の魔法か? 俺たちに呪いでもかけたのか? でも俺も佐奈も死ぬなんて考えられない。確かに生きてる。このままじっとしていれば救急車が来るまで死ぬことはないだろう。凄く中途半端な呪いだ。それとも単にふざけただけで、俺たちをあたふたさせるためだけのもので、敏樹は運が悪かっただけか? でも鳴海は自分の予言通りに死んでる。交通事故で。ただのいたずらにしては合っていて……あああ! 分からない!
確かに魔法は俺たちにかかってる。
どうしても分からない、過去からの魔法。
考えがまとまらず、頭が痛い。悔しくて、悲しくて。涙が出てきた。
濡れた視界に映ったのは、鳴海の歪んだ笑顔だった。
Copyright(c) 2007 sekiya akatsuki all rights reserved.