『スリーフェイス』 私の目に映る彼は、いつも優しかった。私が望んでいるものを全て買ってくれたし、二人きりでいるときはいつも愛を与えてくれた。 「愛子」 吐息とともに洩れる言葉が、私の耳を刺激する。何百度も繰り返されてきた行為。彼の、私の性感帯を刺激する技量は神がかってきていた。もうぬめりがショーツを汚している。 私も彼の名を呼び、首筋に下を這わす。まるで女性のように快感に身体を震わせる彼の様子は私の心をくすぐった。 彼の唇と重なる時はすぐ脳まで痺れがやってきて、私は快楽の大波に飲まれていく。戯れる互いの舌。同じようにベッドにもぐりこんで身体を合わせる。 何も心配せずにただ愛されていれば良かった。 「愛子が一番だ」 その言葉が全身を温かく満たしてくれる。 他の彼女がいることを私は知っている。彼の携帯電話に何人も女の子の名前が入っていることを知っている。 私と同じように優しく接しているかもしれない。 でも、彼の瞳は嘘をついていない。優しく、愛しく私の全てを見てくれていると確信できる。 こうして抱かれていれば、それが分かる。 私を一番に、他の人が二番以下。一番に愛されているのなら、それで十分だ。 全身を愛され、突き上げられる衝動。頭の中を真っ白にして、私はただ悶え続けた。 私は、受け入れるだけでよかった。 私の目に映る彼は、いつも恐ろしかった。私の姿を見て手を出さない日はなかったし、二人きりでいる時はいつも拳が飛んできた。 「ちくしょう! あの馬鹿上司め! 俺の! 俺のどこが悪いんだあのゴミが!」 顔に痣が出来たならばいろいろと問題が起こると思っているのだろう。自分を蔑む全てへの怒りを、私に吐き出す彼。それくらいの分別はあるらしい。 何度も撃たれたお腹からじわじわと昇ってくる痛みに、私は彼が消えてから嘔吐する。 唯一殴らないのはセックスの時。 それでも荒々しく半ば強姦するような行為は、痛みを伴うけれどもそれ以上の快楽で私を押し流す。一時凌ぎでしかないと分かっていても、幸福になれる。 別れればいいと、セックスの後はいつも思う。警察に駆け込んで訴えれば、暴力の苦しみも腹部の青字を気にすることもなくなる。 でも―― 「もっと……して……」 私の請いに彼は無言で腰を突き上げる。 他の彼女がいることを私は知っている。 その人達にもこうして暴力をふるっているのだろうか? それとも、こんな部分は見せていないのだろうか。 もし見せていないのなら、彼の醜い部分を私は見ている。 私だけが、見ている。そう思うと、更なる快楽が私を襲った。 痛みの中に混じる一かけらの喜び、突き上げられる喜び、特別な部分を見ている喜び。 これを知ってしまった私は、彼からどうしても離れることはできなかった。 私は、求められるだけでよかった。 私の目に映る夫は、血の海に倒れ伏していた。 身体の奥から熱いものがこみ上げてくる。心臓が激しく鼓動して、汗が噴出してくる。 握る包丁を落とさないようにするのは骨が折れた。手が震えて力が出ない。 落としたら床に傷がついてしまう。ただでさえ、血が染み付いて取れなくなるかもしれないのに。 他の女がいたことに気づいて、どうやら私は我を忘れたらしかった。 いつものように私を抱いて、ぽろっとでた私じゃない名前。そのまま問い詰めていくうちに、小声が悲鳴へと変わった。 「なんで浮気なんてしたのよ……」 どれだけの女がいるんだろう? 一人だけなのか二人なのか。三人以上いるのか。 人数なんて関係ない。私を裏切った行為を許すわけには行かなかった。罪を償うには、こうするしかなかった。 彼を最も愛していたのは、私なんだ。 そしてそれを証明するためには―― 「携帯電話」 夫の傍にしゃがみ、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。足が血溜まりに浸って気持ち悪い。 「あった」 折りたたまれていた画面を出して、調べる。つらつらと並ぶ別の女性の名前。 これが。 こ、 い、 つ、 ら、 が。 左手の包丁が落ちる音を聞きながら、私は脳の中に生まれる一本の針を思い浮かべていた。それに串刺しになる、顔のない女性の裸体と共に。 私は、怒りに従うだけでよかった。 |