周りには綿菓子のような雲しか見えなかった。
気温は暑くもなく寒くもなく、涼しくもなく暖かくもない。
何も感じない。
僕は自分が置かれている状況を理解してはいなかった。
ただ、奇妙な安心感が僕を包んでいて、もう何も苦しまなくていいのだと、感覚的に悟っていた。
「何なんだろう?」
僕はふと、自分の体を眺めた。
僕は白いローブのようなものを着ていて、少しばかり透き通っているように見えた。
もう少し眺めてみたり触ったりしてみると頭の上に変わった感触がある。
それはどうやら輪のようだった。
どうして頭から少し離れた場所にこんな輪があるのか全く理解できない。
次に僕は自分の立っているところを見た。
そこは階段だった。
下を見てみると始まりが雲の中に隠れていて、上を見ると霞がかっているためにやはり見えなかった。
ようやく自分の置かれている状況が理解できてくる。
「そうか。僕は死んだのか」
口に出してみても恐怖は感じない。
その言葉を出したことで急速に記憶が戻っていくから、わけが分からず死ぬという事は無いからだ。
そして思い出した事と言えば……。
「僕は八十五年も生きたんだよな」
そう言って再び自分の体を眺める。
その体は明らかに若者の体。おそらく、自分が持っていたであろう体だ。
若返っている。
もう六十年以上も前の体に再び巡り会えるなんて嬉しい事だ。
僕はこの状況にも関わらずウキウキしてしまう。
その時、前方に気配が生まれた。
僕は見上げて霞がかかった先を懸命に見る。
先には誰かがいた。
「おーい。そこにいるのは誰だい?」
呼びかけてみると心なしか霞が晴れた気がする。そしてそこにいた人影がはっきりと見えた。
その姿は自分と同じくらいの女性。
……見間違うはずもない女性。
「ばあ、さん」
一年前死んだ伴侶。
自分が過去に愛し、最後まで愛し続けた女性。
自分と同じように若かりし頃の姿で目の前にいる。
「……ばあさん。いや、涼子。わざわざ迎えに来てくれたんだね。うれしいよ」
顔が微笑むのが分かる。
僕の声が聞こえたのか、涼子は笑みを返してくれた。
最後の時まで絶やさなかった笑顔がまた僕の目の前にある。
その事が、とても嬉しい。
「そうか。もう僕の進む道は終着なんだね。その最後に待っていてくれるんだね」
僕は一歩、階段を上る。
「長い、道のりだった。ここまでいろいろな事があった」
一歩、一歩、ゆっくりとゆっくりと階段を上る。
その度に自分が過去に体験した記憶が蘇っていく。
「子供も孫も、たくましく育ったよ。僕たちの持っていた思いを、きっと受け継いでくれるだろう」
過ぎ去っていく記憶の洪水。
手を伸ばして触れようとしても、僕の手をすり抜けて後方へと流れていく。
しかし、もう後ろを振り返ることはないのだ。
目の前の終着点。
人生の終着点までもう歩くしかない。
自分が生まれ、育ち、そして終焉を迎える人生という名の道を進むことが人間の運命だから。
「僕たちの役割は、もう終わったんだ」
最後の一歩を上がる。
傍には涼子が微笑んで、僕に手を差し出している。
僕はその手を握り、前を向く。
そこには大きな扉があった。
天国への扉。
この扉を開ければ天国だ。
その時、ふと後ろを向いてみた。
階段はもうなかった。
戻ることはもうない、長い長い道。
僕は感無量といった気持ちで再び前を向く。
「さあ、行こうか」
涼子は頷き、共に歩き出す。
天国への扉は開かれ、光が溢れる。
僕は幸福に包まれながらその光の中へと入っていった。
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