『伝えたい想い』





「止めてぇ!」

 女声が悲痛な響きを持って空間を駆け抜ける。だが、対峙する二人の男は悲鳴を認識し

てはいても、突き出す拳を止めることはなかった。拳はお互いの鳩尾へと吸い込まれ、そ

こに瞬時に出現した互いの左手に包み込まれる。

 両者は同じように拳を受け止め、すぐさま距離を取った。

 夕焼けが広がる学校の屋上。夕凪に差し掛かったのか身を揺らすのは自らが動くことで

巻き起こる熱風だ。

「邪魔するなよ……翠」

「ふん。止めてもらったほうが、いいんじゃないか?」

 悲鳴を上げた女性――翠はセーラー服の胸元を両手で握った。そうすることで、目の前

の二人が展開する殴り合いによる精神的な痛みに耐えることが出来るとでも言うように。

 だが、そこで縮こまるほど翠は恐れてはいないらしい。丸みがある大きめな目を精一杯

細めて鋭さを出し、怒りを表現しようとする。

 普通に言葉で告げればいい物を、わざわざ下駄箱に便箋と言う古風な手を用いて翠は屋

上へと呼び出された。そしてドアを開けた瞬間に広がったのが、幼馴染の二人の闘い。急

にそんな場面を見せられて、翠の中には驚きを通り越して怒りが込み上げてきたのだった。

「守(まもる)も慶介(けいすけ)を刺激しないで! こんな無意味なことしないで!」

「意味はあるさ」

 守と呼ばれた青年は、学生服の上を脱ぎ捨てた。下はタンクトップ一枚。これから夏に

変わっていく季節にも関わらず冬服のままでいなくてはならない高校生にはスタンダード

な服装だろう。

 しかし、タンクトップの下はスタンダードな高校生と比べると、筋肉の付き具合が違う。

 明らかについている、というほど盛り上がってはいないが、その肉体は適度に引き締め

られていて、微かに腹筋は割れている。一年二年の筋肉トレーニングではつかないだろう、

帰宅部にしては精度の高い筋肉だ。無駄な贅肉がほとんどないのか顔も逆三角形となり、

目も猛禽類のような鋭い光を放っている。

 異性からも同性からも少し離れられている原因だった。

「中一から高校一年の今まで、毎日鍛えてきた肉体が生み出す力に、お前は勝てるか? 

慶介よぉ」

「不利は承知の上だよ」

 慶介もまた、学生服を脱ぎさる。こちらは白いTシャツであったが、一般高校男子の平

均的な体躯だ。特に人目をひきつける肉体ではない。顔も睫毛が綺麗に生えそろっている

だけで美形というほどではない。どこかで見たのか拳をもう片方の手ではさみこみ、関節

を鳴らすものの、音は人差し指しか鳴らない。

 少なくとも表面を競い合うなら十人中十人は守を勝者とするだろう。

「だが、お前の攻撃は見えてる。攻撃を避けて先に当てる。効かないなら、効くまで当て

る。お前も殴り合いは得意じゃないだろう?」

 半身を守に向け、徐々に足を前後に開いていく。腰を落とし、いつでも右足からダッシ

ュをかける体勢を作る。右拳は腰。左手は顔を守るために軽く握って顔の前に掲げる。

 体格はさほど良いほうではない慶介の武器は反射神経だった。ここ最近の子供では珍し

く、幼い時から家庭用ゲーム機から離れて外で日が暮れるまで遊び続けた結果、身につい

た武器。長年の修練によって身につけたそれは中学時代に数度行われたカツ上げを粉砕し、

中学校での安全を確保せしめた武器だった。

 攻撃力では守。

 守備力では慶介。

 いわば最強の矛と盾。相反する二つの力が激突する時、何が起こるのか。

 未知の領域を見られるかもしれないという期待感に、二人の脳内が徐々に浸食されてい

く。守も慶介と同じ体勢を取り、隙を見ていつでも飛び出せる体勢を作った。

 張り詰めていく空気。二人に挟まれた空気がその熱を放出していくような気が、翠には

していた。そこで自分が雄雄しい闘気に飲まれていたことを悟り、再び説得を開始しよう

と口を開く。だが――

「だから! 何のために争うのよ!」

 皮肉にも翠の言葉が引き金となり、二人は互いに向けて突進した。さながら、撃ち出さ

れた弾丸のごとく。

「おぁああああ!」

「ぬぅうううん!」

 元々、それほど離れていたわけではない。数歩進めばぶつかってしまう距離を全速力を

持って突き進んだのだ。間が一瞬で詰まるのも道理だろう。そして、互いに身体を加速さ

せた右足を前に踏み込み、生み出された力が胴体へと駆け上る。

 その一撃を当てたのは、慶介だった。

「――ぐっ!」

 拳が向かった先。守は顔。慶介は腹部。命中率を考えれば結果は明らかだが、その過程

が驚異的だった。

 守の拳は慶介の頬を掠めて前方へと流れていた。拳が顔へと突き刺さる直前まで引き付

け、そのまま数センチ横へと首だけをずらしてかわしたのだった。

「本当にぎりぎりにかわしたな……慶介」

 うめきながら後方へと下がる守。それを黙って見ている慶介。

 一瞬の合間に勝負が付いたと翠は胸をなでおろした。腹を押さえ足をふらつかせている

守にこれ以上戦いを続けられるとは思っていなかったから。しかし、守は腹から手を離し、

「はっ!」と自身に気合を入れた。そしてダメージを感じさせないダッシュをしかけ、隙

を突かれた形になった慶介は肩からの体当たりをまともに受け、そのまま二人は倒れこむ。

「こうなれば反射神経など関係ない!」

 両足でしっかりと慶介の腰を押さえつけ、守は吠える。

 守の言う通り、そこからは圧倒的な闘いだった。

 それは闘いとすら言えない、圧倒的な暴力の宴だ。マウントポジションを取り、動きを

制限された慶介の顔。胴体へと容赦ない拳の雨が降る。無論、下半身で慶介の身体を抑え

こんでいるために拳の威力はいつもの半分ほど。しかし、立て続けに打ち込まれる拳によ

るダメージは確実に慶介の身体へ蓄積されていく。慶介に出来ることは致命的な一撃を受

けないように顔面を両手をかざして防御する他にはなかった。

「ははははは! どうだ! 俺の……勝ちだ!」

「――いい加減に」

 暴力を開始して三分。勝利の鼓動に塞がれていた守の耳に唐突に入り込んできた声。

 それは闘いの熱に浮かされてた守の脳を一瞬で冷まし、咄嗟に慶介の身体の上から飛び

のくように命令を下させる。こめかみを掠める鞄を感じながら、守は慶介と、その傍で鞄

を振り切った状態の翠を視界に入れた。鞄が掠ったところを摩る。

「翠。男同士の闘いに入ってくるな」

「何が闘いよ! ただの暴力じゃない! どんな理由が――」

「それ以上、言うなよ。翠」

 守も、翠も言葉を失った。視線は徐々に身体を起こしていく慶介へと注がれている。

 目に映る光景を否定しようとするも、圧倒的な現実が否定を押しつぶす。

「うぅ……ぉおおおお!」

 身体を動かすごとに激痛が走るのだろう。それを歯を食いしばり、うめき、拳を握りし

めつつ身体を起こしていく。やがて完全に立ち上がり、両足をしっかりと屋上のアスファ

ルトに叩き付けて慶介は守に向かい合った。

「反射神経だけかと思ったが。案外撃たれ強いじゃないか」

「……腹筋、鍛えたんだぜ? これでもさ」

 一言一言紡ぐたびに、慶介の顔が歪む。骨などに異常はないにしろ、身体の限界は間近

に迫っているのだ。守もそれを理解しているのか余裕を見せることを止め、鋭い眼光を慶

介の視線と交錯させる。

 自分の優位を確信していても、そこに介入する隙はない。慶介はそんな守を認めて、苦

笑した。

(本当……お前は強いな)

 沈みこむ身体。見える、自らの足。

 守の死角で拳を握り締め、慶介は目標を視界に収めぬまま足を踏み出した。怪我を負っ

ているとは思えぬほどの速度を見せつつ前傾姿勢で向かってくる慶介を、守は笑みを浮か

べたまま迎え撃つ。

 守の脳内には終幕へのビジョンが見えていた。

(俺の死角にあたる所で握りこんでいる拳を慶介は叩きつけるつもりだろう。それに対し

て俺が横に避けるだろうと、慶介は思っているはずだ――)

 一瞬の間に脳内を翔ける思考。

 慶介の突進は前方を見ないもの。ならば横に避けて打撃を加えればそこで終わりだと守

が思う。

 それが慶介の作戦だと守は読んだ。横に避けたところで慶介は守の足の動きから方向転

換を悟り、避けたと思い油断しきった守の腹へと拳を叩き込む作戦。

 それが守の読み。その作戦を叩き潰す行動を守は即座に取った。

「終わりだ!」

 言葉と同時に後ろへと飛ぶ守。そして飛びのいた先の地面を思い切り踏み込み、自ら慶

介へと突進していた。

 一直線上へ並ぶならば、体格がいい自分の勝利。

 今度こそ手に掴む勝利の確信。その感触を感じようとした守だったが……それは眼前に

迫った慶介の靴の裏を見た瞬間に手からすり抜けていた。

「――はっ!」

 守の耳へ慶介の声が届くのと、顔面へと衝撃が来るのはほぼ同時だった。

(やられたよ……)

 守の意識が闇へと消えたこともまた、同時であっただろう。



* * * * *
「……慶介」  慶介は気遣わしげな言葉と視線を向けてくる翠へと視線を移した。先ほどまで瞳に映っ ていた守は足の先で気絶している。守自身の突進と慶介の突進の威力を併せ持った回し蹴 りは意識の根を完全に断ち切った。しばらくは起きることも無いだろうと、慶介はついに 身体の力を抜いてその場に大の字になる。 「俺は……勝った!」  最後の力を叫ぶことに利用した慶介はもうぴくりとも動かなかった。そんな慶介の顔に 影が差す。翠が上から覗き込んでいた。 「結局さぁ。これって何の闘いだったの?」  翠の問いかけに慶介は顔を笑みの形に変え――実際は何も変わってはいなかったが―― 事の真相を、伝えた。 「どちらが翠に想いを伝えるか、だよ」  翠は慶介の言葉を吟味し、首を傾げ、視線を宙に回し、再び慶介へと戻す。その合間に 顔の筋肉を変えるくらいの力は回復したらしい。慶介の顔は笑みに変わっていた。いや、 張り付いていたと言っても過言ではない。 「想いって……何?」  静かに、翠は問い掛ける。  言葉に含まれるのは疑問と期待。どんな言葉を伝えられるのか分からないが、分かって いる。矛盾する思い。 「俺は勝利した……それは俺たちが持つ想いによるものだったけれど。こいつに勝つこと は俺の夢でもあったんだ」  慶介の目は真っ直ぐに翠を見ていたが、遥か遠くに見える何かを追っているように翠に は思えた。おそらくは慶介が送ってきた過去なのだろうが。ぼーっと遠くを見る慶介に、 翠は話の先を即す。 「で、想いって、何?」  一瞬。  ほんの一瞬だが、慶介の顔に線が走ったように翠は思った。それだけではなく空間にま で一本、ささやかだが確実に走る、ヒビ。 「何? 想いって」 「想い……そんな軽々しく言えるようなものじゃないさ……ムードって物があるだろう?」 「私は、今聞きたいな。駄目? 慶介。それくらい話せればいいじゃないの」  徐々に慶介の額に浮き上がってくる汗。それは苦痛を我慢する際に流れる脂汗の類だっ たが、その苦痛の種類が肉体に負ったダメージではなく精神を締め上げられることで流れ るものだというくらいは、翠も理解できていた。 「ねえ。実はちょっと期待してたんだけれど、もしかして違うのかな? ねぇ。私が考え ていたことが合ってるか確認したいから、是非聞きたいんだけれど」  翠は慶介の背中に手を入れて、身体を起こした。互いの顔がすぐ傍に近づく。別の場面 ならば慶介も心臓を高鳴らしただろうが、量を増していく脂汗に注意をそらされていた。 注意と共に視線も翠から外し、倒れたままの守を見る。 「ま、まもる……」 「守は後でちゃんと手当てするから。さあ、言って?」  翠の言葉には、もう後退する道を残すような甘さはなかった。慶介に出来るのは前に進 むことだけ。このまま何もしなければ待機している足場まで崩されてしまうだろう。目を 閉じ、覚悟を決めるように息をゆっくりと吸い、時間をかけて吐き出した。 「覚悟は出来た?」 「――ああ」  開かれた慶介の瞳に映る強い光に、翠は脳を揺さぶられた。血圧が上がり、頬が熱くな る。自分の視界にある慶介の顔の輪郭がぼやけ、光の粒子が煌めくようだ。無論、彼女の 妄想だが。 「翠。実は……俺さ、お前の……」  勘違いしていたのかもしれないと、翠は思う。  慶介は本当に起き上がる体力がないまま想いを伝えることを恥ずかしいと思っていただ けなのかもしれないと。口からは自分への、友情を超えた愛情が伝えられるのではと思う。 「腹の肉が。どうしても気になったんだ」 「――は」  ら? という言葉は音にならなかった。  口は『ら』の形のまま固まる。口から全身へと麻痺は広がり、翠は凍りついたかのよう に動かない。 「ほら。夏服になってお前、下にブラジャーしかつけてない? 腕を上げるとへそが見え るんだけれど……最近脇腹に肉がついてきたろ? さすがにまずいんじゃないかと思って。 でも普通に言うと嫌われそうだから、どちらが言うかを勝負してたんだ。もちろん負けた ほうが言う手はずだったんだ……お、怒らないで、な?」  覚悟を決めた慶介の饒舌ぶりは素晴らしく、事の経緯をぱぱっと話してしまった。自分 の言葉を聞いて硬直したままの翠から、視線はそらせない。しかし視線が動いたのは、慶 介の頭が動いたからだった。ゆっくりと視線は移動し、翠の顔を見上げる位置で落ち着く。  膝枕をされている状態で、二人は一つのオブジェとなった。 「へぇーそうなんだ。少しずつ気にはなってたんだけれど」  無理やり笑みを作ろうとする翠。その横に浮かぶ翠の右拳。振り下ろされる拳を見なが ら慶介は思っていた。 (女の子に何かを言うのは命がけだな――)  闇に落ちる意識に広がったのは、そんな想いだった。


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