『たしる』





 ここ最近の目覚めはいつも最悪だった。

 朝、ベッドから体を起こすたびに自分がどれだけ変わっていくのかを知らなければなら

ないから。覚えてないけれど、夢にもあいつが出てきたからなのか頭が重い。ベッドから

起き上がると体がふらついた。頭部の重さにつられて体がフラリフラリ。寒気がすると思

ったら、シャツが汗でびっしょり濡れていた。こんなに濡れているのに不快感を感じるの

がここまで遅くなってるのは、それほどぼんやりしていたということか。

 気が狂ったほうがいいと思う。

 自殺すれば楽になるのかもしれない。

 でも、やっぱり死ぬ気は起きなくて……俺は今日も学校に行く。

 嫌がおうにも絶望を見せられる場所へ。

 クローゼットを開けて制服の下と濡れたシャツの代わりを出す。その時、クローゼット

の見開きに付いていた鏡が目に入った。

 鏡の中の自分と目が合って、動きを止めてしまう。手を動かして自分の顔をさすると、

鏡の中の自分も同じ動作をした。紛れもなく、俺の顔だ。

「ここまで……」

 口元を右手で覆って呟く。心なしか声が少し変わった気がする。くぐもっているからと

言うわけでもなく、声帯から変化したような、そんな声。

 しばらくそのままでいると、母さんが呼ぶ声がする。時計を見るともう七時十五分。少

し急がないと学校に遅刻してしまう。

 学校を休んでも良かった。仮病を使い、病院に行く振りをしてどこかをぶらぶら歩いて

も。あるいは普通に理由を……いや、それは駄目だろう。何故なら、信じられるわけがな

いからだ。親は自分に起こっている変化に気づいてはいないのだから。そればかりか、一

緒に通っている友達でさえ、学校で起こっている異常な光景に気づきもしないのだから。

 返事がない俺に痺れを切らしたのか、母親が声を荒げてくる。

「今、行くよ」

 うんざりしつつも言葉を返して、クローゼットを閉めようとし……もう一度鏡を見る。

 自分の今の顔を凝視する。



 ――口元まで、全く別人となった自分の顔を。



「行ってきます」

 自分に言い聞かせるようにして、俺はクローゼットを力任せに閉じた。



* * * * *
 田代昭二(しょうじ)という男はみんなから嫌われていた。太めの体と顔。洗ってるん だろうけど何か油っぽい髪。眼鏡の奥には細い目。鞄には何かのアニメのキャラクターの キーホルダーが付いている。俺から見れば立派な『オタク』だ。  特に何か害があることをしていたわけじゃない。  ただ、妙に馴れ馴れしかったり、貸したCDのケースにひびを入れて返してきたり、必 要以上にうるさく盛り上がったりと、どこかクラスのみんなとずれていただけだ。注意さ れると必ず謝るが、その謝り方さえどこか俺達の神経を逆撫でした。  俺達を怒らせる『ずれ』を本人が分かっていないらしくて、高校一年になって最初の年 越し後……一月の頃にはクラスの嫌われ者になっていた。  そして、当然のようにいじめが起こる。  俺達の学校は進学校だからか、暴力とか靴を隠したりするような目に見えるいじめはな くて、影で悪口を言ったり当人が通るたびに「油臭い」とか「邪魔」とか言っていた。そ のたびに泣きそうになる田代を見るのが楽しくて、俺を含め数人は田代をいじめることに 躍起になっていった。俺達以外のクラスの奴等も見ているだけだったけれど、心の中では 笑っていたはずだ。  そして二月に入ってすぐに、新たないじめを俺は考えついた。 「『さーあ! 頑張っていこうぜぇ!』」  昼休み、俺は高らかに声を上げた。口調や、声質をわざと変えて。  そして俺の周りにいた数人も同じ言葉を次々に口走る。更に今度は別の言葉を動作付き で演じると、クラス中に笑いの渦が起こった。俺はみんなが笑う様子に満足して、ただ一 つ空気が違う場所を見つける。  席に座って弁当を食べている田代だ。  俺に背中を向けてもくもくと弁当の中身を減らしている。何が起こっているのかを頭か ら締め出すように必死になって箸を動かしている。  それを見て、俺も弁当箱を取り上げた。 「『うわー! うまそうだなぁ!』」  今度は少し場所を移動して、田代にも十分聞こえるように声を出す。そして弁当箱の中 身を田代を見ながら食べ始めた。  俺の動作と田代の動作。  真似をする俺を見て、田代以外が腹を抱えて笑っている。何人かは嫌そうな顔をしてク ラスから出て行った。いいんだよ、嫌な奴は出て行けば。俺の『出し物』に笑える奴だけ 笑えばいい。  クラスの過半数以上を味方につけた俺には、怖いものなんて何もなかった。 「次はどう『たしろう』かな?」  俺の言った言葉に対して、また何人かが笑う。そして、ゲームが始まった。  田代の真似をするゲーム。  田代をするから『たしる』  二月から今まで、それは休み時間の間に実施されて、俺以外のほとんどの生徒が田代を 観察し、真似をし続けた。そうなるとどんな動作を田代がしても面白く思えた。落とした 消しゴムを拾うことも、廊下を歩く様も、眠さに抗うために頬を軽く両手で叩くことも。  もう田代は俺達のおもちゃだった。もういじめている感覚はなくなって、ただのゲーム を楽しんでいた。  二週間経って、田代が風邪をこじらせて休んだ時に流れた寂しさも、あいつも愛されて いたんだろうなという俺の一言で紛らわせてやった。何がおかしいのかクラスのみんなは また腹を抱えて笑っていた。  おかしさの理由なんて分かってた。  俺が、全くそうは思ってなかったんだから。
* * * * *
 教室の後ろのドアに手をかけたまま、俺は動けなくなっていた。  ドアを開くと、また下を向いて過ごす苦痛を味あわなければいけない。  何も視界に入れたくない。何も聞きたくない。出来れば、泣き叫んで窓から外に飛び降 りてしまいたい。でも、結局俺は何も出来ない。  変な奴と思われたくないから。  俺以外の奴には何も変化がないんだから。  俺が今の状況について何かを言っても、頭が狂ったとしか思われないだろう。  向き合うことも、逃げ出すことも出来ない半端者だ。 「おい、そんなところで何やってる?」  聞こえてきた声は担任の先生のものだった。俺はドアの前でも下を向いていたから、驚 いて声を出しそうになる。何とか耐えると、先生が言葉を続けてくる。 「ほら、ホームルーム始めるから入りなさい」  その言葉と一緒に教室の前のドアを開ける音も聞こえる。  俺も覚悟を決めて、自分の前の扉を開けた。 「おう、おはよう」  いつも一緒に話していた健二が挨拶をしてくる。俺はろくに顔を見ないで自分の席まで 急いだ。教室の一番後ろの席、教室の中心線上にある、俺の席。  おそらく皆の姿が一番良く見えてしまうところだ。  座ってすぐに俯こうとする。その瞬間、何人かの顔が見えてしまった。  ――俺を見ている、何人もの田代の顔。  心臓の鼓動が早まる。  流れる汗を止められない。  緊張に身体をこわらばらせていると、前からプリントが流れてきた。俺の前に座る桑田 は後ろをろくに見ずにプリントを持った腕だけ後ろに伸ばすから、俺が受け取らないとい けない。  いつものように少しだけ顔を上げて、プリントを取ろうとした。田代のようになってし まった腕で。  でも、何故か桑田は俺を振り向いてプリントを直接手渡す。  俺は衝撃に息を止めた。 「田代、三月くらいまで風邪直りそうにないってよ。たしれなくて残念だぜ」  どこからどう見ても田代の顔をした奴が、そう言った。俺は咄嗟に周囲を見回す。いき なりそんなことをする俺に桑田が驚いている気配が伝わってきたけれど、そんなことを気 にしてられない。  顔が見える範囲の奴等は、田代の顔をしていた。  俺の体型が田代と同じように変わり始めたのは少し前からだ。  俺だけじゃなく、クラスのみんなも徐々に田代そっくりに変わっていった。  でも俺だけがそう見えるらしくて、俺は自分が変になってしまったかもしれないと学校 に来ることに恐怖を感じるようになっていった。原因かもしれない田代は風邪で来てない し、変人と思われるのが怖いから誰にも相談できない。  そんな中で、顔まで全て田代になっているのを見るのは、今まで以上の絶望を俺に与え た。今朝、俺自身の顔が田代に侵食されていることを知って不安になっていたけれど、ま さかここまで進行してるなんて。  このままじゃ――俺も田代になってしまう! 「う――わぁあああ!」  怖かった。  何も考えずに、この場から逃げ出したかった。  俺は力の限り叫んで鞄も持たずに、突然叫び出した俺を不思議そうに見ているクラスメ イトの間を抜けた。  飛び込んでくる田代の顔、顔、顔、顔、顔、かお、かお、かお、かお、かお、カオ、カ オ、カオ、カオ、カオ…… 「やめてくれぇええっ!」  そう言う自分の声が、たしっていた時の声質にそっくりだった。  田代が風邪を引く前日に叫んだ時、俺はいつもと同じように真似をした。その時の声と 全く同じだ。  何も意識してないのに、叫び声が同じ。もう俺の気のせいじゃない!  俺は田代の真似をしている間に、田代になってしまったんだ。  俺と一緒に真似していた奴等。傍観していた奴等も同じように。  根拠なんて分からない! でも実際に、みんなが田代に見えるんだ。俺以外がそんなこ とに気づかないのは、きっと田代がそう仕向けているんだ!  あいつは人間じゃない。こんなことが出来るのは人間じゃないからだ!  殺さないといけない。俺が! 唯一気づいている俺があいつを殺す! 殺せば、俺はこ んな事からは開放されるに違いないっ! 俺が………………………………………………… ………………………………………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………………………………… …………………………………の瞬間、商店街まで走ってきていた。多少気分が落ち着いて きたけれど、まだ殺意は消えない。雪が降ってきて、学生服が徐々に重くなる。走るのは きつくて、とうとう足が止まった。 「田代……たしろ……たしろ……」  身体を曲げて息を整える。白い息が顔にかかっていく。  ふと隣を見ると。  そこに。  奴が。  いた。 「……たしろぉおおっ!」  休んでいた身体に思い切り力を込めて、俺は田代に殴りかかった。同じように田代も俺 に殴りかかってくる。  拳が合わさり――何かが砕けたような音がする。  体中に走る激痛に意識が瞬間的に飛ぶ。最後に視界に入ったのは倒れるマネキン人形と 飛び散る赤い液体、鋭くとがったガラスの破片だった。  視界が暗闇に染まってからも、致命的な何かが俺の中から消えて行くような気がした。 「たしろ」  口から何か洩れ出ていて上手く言葉にならない。  聞こえるのは、田代の声ばかりだった。 『さーあ! 頑張っていこうぜぇ!』 『うわー! うまそうだなぁ!』 『やめてくれぇええっ!』 『そんなに俺の真似がしたいなら! 俺になればいいんだ!』  ……そう言えば、俺は誰だ?


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