魂込めて

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 時計の針が十二の文字を撫でた時点で、執筆をしていた手を休めてしまった。鏡で見れば俺の顔は青ざめていただろう。心の奥から込み上げてきて俺の喉を詰まらせるこの感情はなんだ。決まっているだろう! 焦りだ。とうとう締め切りの日となってしまった。あと六時間後には催促の電話が鳴る。いつも話している声はまろやかエンジェルと呼ばれるほどまったりかつ舌触りが甘く、匂いはミント系の濃すぎない声だというのに、どうして電話越しに「原稿はどうですかしゃーこらぁああ!」と叫ぶのはプロレスラーになるんだろうか。主にしゃくれてるような。
「どうしよう。どうしよう。どうしようったらどうしよう」
 とりあえず机から離れて身体を動かす。両手をクロスさせて掌を合わせる。足も同じように右足と左足のつま先が反対側から今晩は。あとは腰を左右に小さく動かして、徐々に大きなうねりを作っていく。一つ一つの動作を積み上げていく作業は好きだ。むしろ原稿を書くという行為よりもこうして踊りだすほうが好きだ。腰を上下左右前後に動かしていると心が落ち着く。特に深夜零時を過ぎて電気をつけている部屋。肌色のカーテン越しに影絵として映るウネウネの肉体。キッカイな植物のようににょきにょきにゅきにゅきと揺らめきながらときめいているこの身体を見て深夜の散歩としゃれ込んでいるカップルやバカップルや不倫カップルや猫カップルはどう思うのかなと、想像するだけでジンジンと胸が締め付けられる。やはり執筆活動よりも俺は肉体活動のほうが似合うようだ。
「そうさ。人に見られることが俺の望みなのだ!」
 だからこそ書くのさ。俺の魂を文字に込め、人々に突きつける。ただの文字の羅列が力となり、脳内に膨大な妄想を生み出すことの喜びを知ったから俺は書いている。いつの間にか編集とか付いたり出版社から出したりと順風満帆な作家レールの上を片足で進んできたんだ。良く見れば少しでも踏み外すと真っ逆さまな作家ロードを。厳しいからこそやりがいがあり、やりがいがあるからこそ踏み外せば戻れない。並大抵の覚悟で挑めるものじゃない。
「だからこそ、俺はやるのだ! ありがとう俺!」
 自分に最大の感謝をしてまた机に向かう。書きかけの原稿はあと百ページ残ってる。
「待ってろよ和幸。お前の自慢の物を彼女にぶち込んでやるからな! そして彼女は歓喜の声を上げてお前にメロメロだぜ」
 脳内でカップルが互いの全力を打ち込んでいる。言葉に、拳に力を込めて。相手の殻を打ち破り、心を解き放つために。対等の存在だからこそ、妥協せず、決意も覚悟も胸に抱いて相手を受け止める。
 全ては愛のため。
 全世界全宇宙全男子全女子の間を繋ぐ無敵の言葉を、今、その手に!
「書ける! 書けるぞ!」
 何かが弾けたのかはたまた大切な何かが失われたのか、時計の針がいつもの二倍のスピードで動いていく。合わせて俺の指の速度もいつもの二倍。掌がきしむ音が聞こえてきても気にしない。このまま最後まで突き進む。俺ならば出来る!
「これで、ラストだぁああああああああああああ!」
 TとAのキーが弾き飛ぶと同時に俺の手は悲鳴を上げた。両手から駆け上ってくる激痛を耐える手段を俺は知らず、後ろに思い切り倒れて頭が鈍い音を立ててああ意識があひん――


 ◆ ◇ ◆


「先生も、もう少し余裕もって執筆してください」
 編集者の卵な真紀さんはほっぺたがこそげ落ちそうなマーブルボイスでのたまった。電話しても出なかったので来てみたら、ブリッジで頭を床に叩きつけたままの俺を見つけたらしい。とりあえずデジカメで撮ってから起こしてくれたようだった。その後一度カメラ屋にいって現像してもらって、今は壁に数えるのがめんどい数くらい貼ってある。良く分からん行動だ。
「一気にやろうとするからブリッジして床に頭打ちつけて気絶なんてするんですよ」
「うんごめんなさい。気をつけます」
 そんな会話をしながら、真紀さんは俺の書いた小説を読み終えていた。うちに来てから二時間しか経っていない。そのうち一時間半は写真の現像だったり俺の看病だったりだから、三十分で読み終えたことになる。速読って凄いね。
「本当、どうして先生みたいな人がこんな濃い恋愛小説書けるんですかね。特に和幸が愛の歌を彼女に送って、彼女も自作の愛の詩を朗々と謳いあげて返すシーンとか神がかってますよね」
「そこは特に燃えたからな。あと人は見た目と関係ないってことだね、ととと」
 解けかけた青色のふんどしを締めなおして立ち上がる。時計の針は八の文字をいとおしむかのようにゆっくりと過ぎていく。
 名残惜しいのは俺か。手塩にかけた娘はこれから世間の荒波にさらされ、しゃぶられ、ねぶられ、触られていく。言われない嘲笑も受けるだろうしアイドルに祭り上げられたりもするだろう。
 でもそれに負けないような娘に、育てたつもりだ。魂を受け継ぐものとして。
「クオリティ高いのは作品だけで十分なのに、その引き締まった身体は余計かと」
「いいじゃないか。日本を毎年感動の渦に引き込んでいる恋愛小説家は体脂肪率五パーセントで十五年連続ボディビル大会制覇の四十九歳だ、とか言われたら驚くだろう。いつも部屋ではふんどし一丁だとか。ギャップは必要だ」
「掴まらなければ何してもいいですけど、ほどほどに」
「ほんのり顔を赤らめながら、真紀さんは俺の原稿をバッグに入れた。きっといろいろ男の肉体を想像してるに違いない。ふふ。うぶい。そんな顔を見るのも楽しみなんだよな」
「心の声を口に出さないでください!」
 怒鳴って、真紀さんは部屋から出て行った。でも閉める時は丁寧に。ドアに罪はないと分かっている良く出来た娘だ。
「さって、久々に腕立て五百回からやるか」
 この鈍色の身体がうなるぜ!
 ペンネーム・あまみまんてん。
 本名・大河内五郎。
 身長二百センチ、体重百二十キロの肉体が今日も部屋をきしませ、人々の心を震わせている。

 それが、俺さ!


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