『最後の勝利者』





 その場所だけは、外の喧騒から逃れていた。

 小規模な城の中にある、大広間。

 本来これほどの大きさがあるならば、来賓を集めて城の主と共に酒を飲み交わし、交流

を深める場所として使われているはずの部屋。

 だが部屋に横たわるのはテーブルではなく、様々な花だ。

 ガラス張りの天上から日光を効率よく取り込める作りになっており、太陽が東から西へ

と過ぎ去る時間、花達は見えない毛布に包まれる。定期的に与えられる水を寝床に、屋内

とは思えないほど生き生きとした花達が育っていた。

 だからこそ、彼等に意識があるならばいぶかしんだであろう。

 いつもの時間に与えられるはずの水が、この日に限って来ないことに。

 彼女達に人間の感覚があるならば花弁を歪めたであろう。

 自分達のいる場所を仕切る扉の向こうから、微かに、しかし確実に香ってくる黒煙の醜

い気配に。

 しかし花には感情などない。外界を正確に認識する力もない。

 よって今、この場で起こっていることは花達が取り囲んでいる二人だけの物語だった。

「どうして……私を裏切ったの?」

 エルはその疑問を投げかけた相手を見ず、近くにあった花を一本毟り取った。しゃがみ、

腰を上げる過程で鎖骨の上を流れる金髪は、頭上から降り注ぐ陽光を浴びて輝いている。

 追い詰められた者とは思えないほど落ち着いたエルを見ていたライザーの頭に疑問が過

ぎった。

(何故……俺は……?)

 翡翠色の瞳を曇らせ、ライザーは剣を握る右手に力を込めた。

 彼の動揺がそのまま形となって現出する。一瞬だけ剣先が揺れ、また元の位置へ戻る。

 エルの生殺与奪を握っているのはライザーに間違いない。

 横暴の限りを尽くし、街を窮地に追い込んだ無能なる統治者エル。

 耳障りな非難を内に宿る異能の力――魔法により蹂躙し、思うがままに生きてきたエル。

 そして、その彼女を表舞台から消し去るために住民に協力した剣士ライザー。

 いま展開されているのは二人が描く、おそらく最後の構図だった。

 暴君と、その恋人。

 裏切られたものと、裏切り者。

 裏切りを決めた時には、ライザーも住民と同じ気持ちだったはずだ。だからこそ彼は密

かに作戦を考え、実行に移した。城を守る彼女の私兵を先に片付け、住民を迎え入れた。

 機会を得た彼等は内に溜め込まれていた憎悪を爆発させた。

 その結果、もうすぐこの城も陥落というところまできている。

 ここまできて、ライザーは自分の中に生まれる迷いの意味が理解できなかった。

 自分と同じ翡翠色の瞳を少し眺めの前髪が隠し、隙間からまっすぐに自分を見ているエ

ル。服装は今日の朝に見た純白のドレス。その姿を改めて観察し、今朝に感じた思いがこ

み上げてくる。

(まるで、花嫁だ)

 花嫁。

 相手は自分だろうかとライザーは考える。その考えを打ち消そうにも、気を紛らわせれ

ばエルが逃げ出さんとも限らない。しかし突きつけている剣にも怯える様子もなく、ただ

エルは彼を見ていた。何も語らないまま、何も……感情を見せないままに。

「答えてはくれないのね」

 エルの顔に浮かぶ微笑。

 それは夜を共に過ごす時、ライザーへと向けていた笑顔。

 二人の城を焼きつくさんとする憎悪と自らが手にしている剣が無ければ、いつものよう

な甘やかな時間が始まるのではないかと錯覚してしまうほどの、柔和な笑み。

「答えなければ、いけないか?」

 声は掠れ、しかしそれを隠すことさえも出来ない。いつしかライザーは背筋を流れる大

量の汗に気づいていた。そんな彼を見るエルの瞳にあざけりの色が混じったことも。

「理由は分かるから、いいわ」

 エルは一歩、自分の喉に突きつけられている切っ先に近づいていた。咄嗟にライザーは

剣を引こうとしたが、あろうことかエルは刀身を両手ではさみ、動きを止めた。

「駄目じゃない。こうして突きつけておかなくちゃ……」

 自ら引きとめた切っ先と喉元を触れさせるエル。接触点から、赤い筋が喉を伝っていく。

ライザーが剣を再び引くと、今度はすんなりと開放された。勢いによって後ろに流れる体

を強引に押し留め、ライザーは剣を降ろした。

「分かっているなら、どうして変えようとしなかった! 破滅もお前には見えていたはず

だろう!?」

「あなたにもまた見えていた。そうじゃない?」

 エルの言葉に凍りつくライザー。

 脳裏に過ぎったのは今日までのエルの言動だった。

 夢見る少女のように瞳を潤ませ、窓枠に肘をつきながら住民をどう苦しめようかを歌う

ように呟いていたエル。

 搾り取った税を用いて仕立てた衣服をまとい、作らせた上質の料理を食し続けたエル。

 それを隣で、また向かい合いながらライザーは常に見てきた。

 彼女と恋人関係となった何年も前から。

 何度も、何度も口に出かかった否定の言葉を閉じ込め続けた。

 それは一体、何故だったのか――

「何もしなかったあなたが許されるわけないじゃない。私だけに罪を着せて満足?」

 ライザーの心が悲鳴を上げた。目を背けていた心の傷。強引に塞いでいたその傷口から

血が噴き出す。実在しない流血は彼の身体を覆い尽くし、視界を赤く染めた。息が苦しく、

一言口にするだけでも失神してしまいそうになりつつも、ようやく彼は言葉を紡ぐ。

「少なくとも……お前がいなくなれば、新しい明日が、始まる。住民の……そして、俺の」

 もう、ライザーは自分を止められなかった。一刻も早くエルを殺し、この場から逃げ出

したい。

 今、彼を動かすのはエルの瞳に見えた侮蔑。ライザーの、エルに対する羞恥。

 この状況から逃げ出したいという強い想いだった。

「死んでくれ! エル――」

「最後に、いい?」

 ライザーが動きを止める。それは最高のタイミングだった。

 剣を振り下ろす、その動作を止められるぎりぎりのラインで飛び込んできた声に硬直す

る。エルが彼の傍に近づき、瞳を覗き込んだ。エルの瞳の中に映る自分を見て、半日も経

たない内に十は歳を取ったように、彼は思った。頬がこけ、目は窪み、艶やかなだった黒

髪は張りを無くしていた。

「私のこと、まだ好き?」

 視界が揺らめく。それが、引き金。

 ライザーは声を詰まらせながらも「ああ」と呟き、剣を振り下ろす。ぼやけた視界の中

でもはっきりと赤が舞い、エルはライザーへと倒れこんだ。自らが斬り裂いた彼女の体を

抱きとめ、共に床へと崩れ落ちる。

「……エル……」

 返る言葉はない。抱きしめた体は小刻みに震え、徐々にその度合いを少なくしていく。

 瞳から涙が零れ落ち、少しだけ回復した視界には、青白く変わっていく頬に一筋の赤を

通したエルの――笑顔があった。

「――――」

 エルの口が何かを呟き、ライザーに届かないまま虚空に消える。

 あまりにもあっさりとした、裏切られた者の末路。

「エル……」

 何かを呟こうとして、言葉を止める。

 何かを言うことも、抱きしめることも、彼女のために泣くことさえも出来る立場では無

いと気づく。こみ上げる息を押し殺していたライザーは、背後から近づいてくる多くの足

音に耳を済ませた。外から流れ込む現実で、内から来る後悔を押し留めたかったから。

 硬質的な足音に混じり、花が踏み分けられる音が聞こえてくる。エルが、ライザーが育

てた花達が蹂躙されていく。

 理不尽だと思う自分が醜い存在に思えてきて、ライザーはエルを更に抱き寄せた。何も

視界に入れず、何も聞かず、命が流れていく彼女の名残を最後まで感じていたかった。



 ――胸に衝撃が走ったのは、足音が途切れてすぐだった。



「――っはっ」

 体を起こそうとしたが動かない自分をいぶかしむ前に、喉の奥からこみ上げてきた血塊

が事実を知らせた。エルの体を、自分の体を汚した血を見て、ようやく自分の胸から剣が

生えていることを理解していた。

「お前も同罪だ。一緒に死んで本望だろうさ」

 その言葉がライザーに聞こえたかは、彼を貫いた男も、ライザー自身にも分からなかっ

た。抱きかかえたエルごと串刺しにされ、彼は花園に沈んだ。ちょうど、エルを抱きかか

えるように。

「よーし! この城を焼き尽くせ! 俺達の金を使って立てた物なんて胸糞悪いぞ!」

 ライザーを貫いた男が、共に部屋へと入った住民の代表六人に向けて叫ぶ。

 次の、瞬間だった。

「な、なんだあれは!?」

 部屋に足を踏み入れていた住民の一人がエルとライザーの屍を指差す。二人から離れよ

うとした男が悲鳴に導かれて視線を向け、動きを止めた。

「血が――っ?」

 行き絶えた二人。混ざり合った二人の血が急激な速さで部屋中へと広がっていく。

 その軌跡は知識が乏しい住民にも即座に理解させるほど、奇怪な模様を描いていた。

「魔法だ――」

「に、にげ――」

 紡がれるはずだった言葉は閃光に飲み込まれた。

 エルが残した最後の魔法。

 裏切りの裏切りを許せなかった証。

 瞬間的に膨れ上がった断罪の衝撃は、咲き誇っていた花達、醜き侵入者達を消し飛ばし、

彼等が築いた生命の証を全て無に帰した。



* * * * *
 破滅の後。  暴君とその恋人、住民の一部を消滅させた光が消えた後。  その場にあった全てが、跡形もなく消えたはずだった。  だが、城が存在していた場所の一区画。ちょうど、花園が広がっていた部屋の区画に、 何も変わらずに花壇が残っていた。  大きさにして、エルとライザー二人の体ほど。  消滅を免れた花達はその前と変わらず地上にふりそそぐ陽光を浴び、空を見上げていた。  そして、彼――彼女達は咲き続けていた。  枯れ散る、最後の瞬間まで。


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