この風と暗闇が、いつまでも無くならないで欲しいといつも思う。
道路を走ることで起こる振動が、いつまでも私の身体を揺らし続けて欲しいといつも思う。
周囲はもう深夜。あと三十分もすれば日付が変わる。
次の日に続いていく今日のまどろみ。車のライトが切り取ったところだけが、まだ時間がいつもの速さで動いているように思えた。
「今日もお疲れ様」
「はい。後輩も良く食べますよね」
車内に明かりが無いから、先輩の顔は見えない。でも声はすぐ隣から聞こえてきたような気がして心臓が少しだけ早くなる。そして、穏やかな鼓動を取り戻す。
もう何度も体験しているのに慣れない瞬間。
今、この時に感じている甘酸っぱい思いは届いていないのだろうけど。
「すみません。バイトの給料入る前だからお金なくて。先輩にほとんどださせちゃって」
「いいって。ご飯は茜が作ってくれるし。自分に使う金は少なくてすむから」
友達の名前が、私の中の柔らかい部分を凍らせた。
折角いい気分なのに。この閉ざされた世界の中では、私達は恋人同士なんだ。二人だけの世界。なのに、彼女の名前が、世界を犯す。
私の心から噴出す濃厚な赤が、夜の車内を赤黒く染めようとする。
それでも雰囲気を壊さないように、さりげなく濃密な空気を取り戻そうと話題を続ける。
「茜、料理上手いですよね。私も教わってます」
「そうなんだ。今度食べてみたいな」
「ほんとですか? ご馳走しますよ」
戻ってくる。二人の甘く静かな、車の走行音だけが聞こえる車内。自然とお互いに話すことは無くなり、私のマンションへとひたすら走る。
ハンドルを握る腕やギアを変える時の手さばき。たまに洩れる鼻歌。先輩自身がかもし出す、穏やかな空気。
この世界に浸かっていると、心の底まで一つになるような錯覚に陥る。誰もが単独で生きている現実の中、車内では二人だけ。手を繋がなくても。言葉を通わせなくても。私達は通じ合える。
でも。そんな先輩になったのは茜と付き合いだしてからだ。それまでの先輩は優しかったけれど、一緒にいて甘くはならなかった。砂糖菓子のように、口の中で溶けてはくれなかった。
茜は見事に先輩を作り直した。より優しく、柔らかく。より好かれる先輩に。
出来ればその役は私がしたかったけど、仕方がない。このつかの間の恋人気分を味わえれば、それで。
「ついたよ」
徐々に速度が落とされ、止まる車。先輩の言葉に振り返ると、マンションの外灯に照らされて顔全てがはっきりと見える。
心臓が今までで一番高鳴った。
これも何度も続けてきた。
何度も、何度も。何度も。
光と闇が混在するこの瞬間に見える顔は、一日の内で見る先輩のどの顔よりも、綺麗で、惹かれた。
「あ、き、今日は――」
触れたい。あの唇に、重ねたい。温もりに抱かれたい。
身体の奥から滲み出てくる欲液を止めながら、私は車の外に出た。
「今日はありがとうございました」
涼やかな外気に触れると熱が急激に冷めていく。隔絶されていた世界が繋がり、私の中の現実が目を覚ます。
この人とはあくまで『親友の友達』と『親友の恋人』でしかない。
「では、また明日ー」
別れの挨拶。先輩も手だけが私を送っている。その手がそのままギアに置かれてからすぐに、車は私の届かない所へと走り去った。これからおそらく茜が待つ場所に行くのだろう。週に五日は先輩の家に泊まると彼女も言っていた。
彼女と先輩が二人でベッドを揺らす想像をしながら自分の部屋に向かう。テニスで鍛えた肉体はきっと触っていて心地よいんだろうと思うと、車内で滲み出した液が再び私の身体を濡らそうとする。
きっと部屋に帰れば大丈夫だからと自分に言い聞かせつつ、ドアの前まで辿り着く。
ドアノブを下ろすと、そのままドアが開いた。誰かいる。決まっている。
やっぱり、いた。
「ただいまー」
もう深夜だから声を潜めて部屋の奥に告げる。ドア一つで仕切られた向こう側には明かりがついていて、何かのゲームの効果音がかすかに聞こえている。先輩に送ってもらって着いた場所からは反対方向だから、明かりが見えなかったんだ。
「こら。人の部屋の電気使ってゲームしない」
「んあ? お帰り」
顔だけをこっちに向けた衛(まさる)に速攻で抱きつく。今やってるのはロールプレイングゲームだから、優しくする気はない。
「痛っ!」
「ふふーん。彼女を放っておいてゲームなんてしないで?」
「仕方がないだろ? 部活やってないにんげ――」
言葉が終わらない内に唇を奪う。そのまま口内を支配して、私はゲームから衛を引き離す。着ていたシャツを下から脱がせつつ、私も下着のホックを外した。
「やけに積極的だな」
「だって好きなんだもの」
好きなんだもの。あなたも、先輩も。
車内にかもし出される雰囲気も、この部屋に充満する甘味も。
どちらも捨てられないんだから。
今日も、私は空間に溶ける。
衛と脳内浮気の先輩どちらもなくならないで欲しいといつも思う。
二人から与えられる快感が、いつまでも私の心を揺らし続けて欲しいといつも思う。
我がままだろうけど、ね。
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