水曜日の週末

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 玄関にあるスイッチをオンにして視界を明るくすると、一目で見渡せる俺の世界が出迎えてくれた。朝、出る時に行って来ますと呟いた言葉がそのままおかえりなさいと返ってきたような気になる。思わず「ただいま」と呟いた自分に苦笑する。
 もう時間は夜の十時。神経質になるまで厚さがないとは思えないけれど、自然と足音を消すように居間に陣取るテーブルに収まっている椅子へと腰をおろし、ビニール袋からビールを取り出す。缶を改めてみると二箇所ほどへこんでいた。どこにもぶつけた記憶はないから、コンビニで取り出したときからへこんでいたんだろう。プルタブの微かな抵抗を退けると噴出した泡が指を濡らした。自分が思った以上に中身をかき乱していたらしい。こぼれる前に口に含むとアルコールが脳へと徐々にしみ込んでいく。
「ぷはぁ」
 もう一つの袋から温められたチキンカツ弁当を取り出してビニールと蓋を取ると、中から湯気と共に具のおいしそうな匂いが立ち昇った。それだけで嬉しくなる自分も安い男だと思いつつ、ビールをもう一口飲んでからカツに口をつける。広がる旨味に満足しながら、苦い液体で喉を潤す。その対比が刺激的で思わず「美味いよなぁ」なんて独り言を呟いてしまう。
 そんな水曜日の夜。
「何やってんだか」
 週のど真ん中。完全週休二日制だけれども、今日まで仕事をしてきたし、明日も仕事があるというのに気分はまるで週末のよう。
 でも朝になってだるさに目が覚めない、ということはなくて。普通に起きる自分を知っている。社会人になってから四ヶ月程度だけれども幾度も繰り返してきたことだ。学生時代に飲まなかった酒は頻度が増えて、月に数度だったのが週に数度に変わってる。勢いに任せて一気飲みしようとした時、チャイムが鳴った。狭いマンションの一室に響く音は鼓膜だけじゃなくて身体まで震わせるように思えた。
「どうぞー」
 誰が来るのか。それも分かってる。一人暮らしを始めてからの行事だ。水曜日の週末。
「おう。帰ってたか」
「いないなら勝手に入るだろうに」
 俺の合図など聞きもせずに入ってきたに違いない真(まこと)は、やっぱり人の話を聞かずにいきなり煙草に火をつけた。あいつのために買った掌サイズの灰皿はテーブルの上。自分の家であるかのようにすんなりと見つけて灰を落とす。帰りの電車は込んでいたんだろう。数日間分の皺はアイロンをかけたほうがいいくらいに大きくなっていた。
「仕事の後の一服っていいよなぁ」
 いつものように独り言。俺は気にせずビールの残りを飲み干した。相槌を求めているとは思っていなかったから。
「なぁ」
 俺を追い越してベランダに続く窓を開け放ったところで、真は俺のほうを振り向いた。煙草の苦味に顔を歪ませて、真は先を続ける。
「俺らって空しくね?」
「空しいんじゃね、多分」
 即答すると傷ついたのか、外を向いてまた煙草を吸う。苦いなら吸わなきゃいいのに。 先端に灯る赤は徐々に挟んだ指へと近づいていたけれど、真は指先も俺も見ないまま。 ふと、こいつが煙草を吸い始めたのはいつだろうと考える。
 地元から都会に就職の関係で引っ越してきて、隣同士になった真。会社も地元も違うけれど、ただ地方から来たという理由だけで次の日に酒を飲み交わしてから四ヶ月が過ぎていた。確か、初めての飲み会で灰皿はなかった。
 初めて俺の部屋に灰皿が置かれたのは、多分二ヶ月前だ。そういえば、あの時も同じように真は言ったっけ。
『俺らって空しくね?』
 あの時はどう答えたろう? やっぱり同じように言ったように思う。大学を卒業して、地元からも離れて。新しい土地で新たなる一歩。妙なしがらみから解き放たれて、広い空の下で俺は自由に動いてる。
 自由。それが夢想だと知ったのはいつだったろうか。
 案外そういうもんなんだろうって達観している自分は最初からいた。大学生にもなれば。就職活動でもしていれば。情報収集をしていれば。学生って枷を外しても大して今と変わらない自分がいるだろうと予想できた。通う場所が大学から会社になるだけ。親のすねをかじることがなくなるという点では、一人の人間として生きていくのだろうとは思ったけれど。その分の自由なんて、実はさほど大きいことじゃない。口座に振り込んでくれる相手が親から会社になっただけ。
 そういえば、いつから俺はビールを水曜日に飲むようになったんだろうか。
「なんつーかさ、大人ってこういうもんか?」
 手に持った灰皿に先端を押し付けて、煙草はその火を消した。外の空気は春先にふさわしく冷たい。すぐに風邪を引くほどじゃないけれど、黙っていれば身体の芯まで凍るだろう。でも閉じてくれとは言えなかった。真は煙草の匂いと一緒に何かを捨てようとしているように見えたから。
「成人式過ぎたからって大人じゃないよな、少なくとも」
 少なくとも、煙草を吸ったり酒を飲んだりしてても大人じゃないよな。その言葉は泡に溶けていく。残った言葉だけが真に届く。それしか返せない。でもこの言葉が、真が自分の中のわだかまりを捨てることへの後押しになればいい。
 いや、俺も自分の中の何かを捨てるために背中を押そう。
 意識を向けていなかった手の中に収まるビール缶を捨てるために、立ち上がって真の傍へと歩いていく。煙草の吸殻を持つ真。空き缶を持つ俺。
 煙草を吸えば、ビールを飲めば大人というわけじゃない。週末のように時間を使っても、週の真ん中という事実は変わらない。
 一つ一つ事実を認めて、次の場所へと歩いていかなければいけないんだ。
「まだまだ大学生と社会人の間とかでいいんじゃね。嫌でも大人になる時が――」
「くるか?」
 煙草を取り出そうとして、真は指の動きを止めた。中はまだ数本入っているみたいだったが、全部潰して室内のゴミ箱に向けて放り投げる。見事に外れて床に落ち、軽い音を立てた。
「大人になるまで死にたくないしな。禁煙するわ」
「いつまで続くかねぇ」
 笑いながらも、俺もビールは飲み会以外は止めようと思った。同じくどれだけ禁酒が続くか分からないけれど。まずは周期を直すことから始めようか。
 週末はやはり金曜からだ。
「とりあえず口が寂しいからアイスでも買ってくるわ」
 すでにそわそわしながら真は部屋を出て行った。本当、いつまで禁煙が続くだろう。そう思うと微笑ましくなる。
 俺も喉の渇きを潤すために久しく開いていなかったお茶の葉を見る。賞味期限は先週。
「……俺もお茶っ葉買ってこよう」
 すでに挫折しそうな気分だけど、がんばってみようか。
 いつまで続くか分からない。でも、一つずつ現実を認めて進んでいこう。


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