『勉強しましょう』





「ぐんもーにんぐ、ヒデキ」

 聞こえてくるやけに甘ったるい声。まるで生クリームを口の中に押し込められたような、

ついでに鼻の奥まで生クリームになったような感じ。それでも俺の体内時計は起床時間を

告げては来ていない。いつもは数秒前後のずれしかみせない体内時計は自慢の一品だ。だ

けど、雑音が俺の中の絶妙なバランスで保たれている均衡を崩していた。

「ぶんもーにんぶ、ミスターHIDEKI」

 名前だけやけに英語風の発音になった。流石は電子辞書。伊達に電子辞書は名乗ってな

いらしい。でも変わりに『おはよう』の発音が違ったような気がする。

「ぶんぼーぐ、Mr.HIDEKI」

 今度はミスターまでナチュラルだ。その代わり最初は原形留めてない。グッドモーニン

グ、だろ? グッドモーニング! でも、このまま黙っていればいつか正確な英語が聞け

るんじゃなかろうか。俺の体内時計が起床を告げるのとどちらが早いか、勝負なのか。

「ぐんもーにんぐ、ヒデキ」

「戻るのか!」

 勝者は声の主だった。

 思わずツッコミを叫びながら布団をはぐる。横にはベッドのふちに両腕と顎を乗せた女

性がいた。俺が上半身を起こしたから自然と上目遣いになっていて、少し長めの前髪が瞳

にかかっている。緑色の髪と深い青の瞳。配色としてはどうなんだろうかと思うけれど、

これはこれで電子辞書の魅力を引き出していた。

「ぐんもーにんぐ、ヒデキ」

「グッド、モーニング」

 俺は外人の発音に自分の出来る範囲で似せた言葉を電子辞書に向けた。電子辞書は首を

傾げて頬に指を突き刺して思考するような姿勢を見せる。その動作が人間と間違うほど可

愛くて朝から頬が火照るのだけれど、電子辞書がそんな感情を見破れるわけはない。

「グッド。モーニング。だろ? 英語での朝の挨拶は。なんでぶんぼーぐなんだよ」

「申し訳ありません。登録登録……『おはよう』は……『ぶんぼーぐ』」

「グッドモーニング!」

 もう一度叫んで、喉がかれる。起き抜けは水分が足りなくてかれやすいのに、こんな大

声だしたからだ……くそ! でも電子辞書は俺の顔を見て首を傾げて、今度は両手で頬を

包んでいた。それがやけに決まっていて可愛く見えて、それに負ける自分がいる。

「ごめゆー」

「…………」

 不思議そうに俺を見上げていた顔は、急に柔らかな笑みの形に変わった。まるで赤ん坊

が破顔する時のような邪気の全くない笑顔。冷えていく怒りと増えていく脱力感。

 朝から疲れたけれど、挨拶の発音はよくなった気がした。



* * * * *
 学校へと登校する最中、通学路を見渡すと色が緑色に染まっている。その答えはつまり 電子辞書を連れた男達が溢れているからで、俺も染め職人の一人だ。 「りんご……『あっぽー』……みかん……『おーれんじ』……」」  俺の隣を歩く電子辞書は、髪の毛と瞳の色を変えたりすれば普通の女の子と変わらない。 服装は一昔前にあったような真っ黒なセーラー服。スカートは膝の少し下まで伸びていて、 上も今と比べると少し重たさが強調されている。白いソックスに革靴がまた古風。もちろ ん全てメカなのだけれど、ここまで人間に似せることが出来るなんて。人間はどこまでも 高く飛べる可能性があるんだなと、思う。  女性型自立電子辞書がこうして現役の男子学生の間に普及したのは、やはりニーズがあ ったからだろう。特に売れ行きが好調なのは中学生男子というところからも、思春期の男 の子にとって、美少女のロボットというのは刺激的なものであるかもしれない。ニュース で大人達は逆に悪い影響を与えるなどなどコメントしていたが、開発者側もそれは考えた のか、胸を触ろうとしたりスカートをめくろうとするとスタンガンが飛び出す仕組みだ。 スカートは本体と一つになっているからめくれないんだけれど。来月には男性型自立電子 辞書も発売される。すでにクラスの女子は全員予約済みだそうだ。 「野球……『ばせぼーる』……サッカー……『らいたー』……バレーボール……『ばりー ぼんず』」 「ライターは『作家』だよ。サッカーは『さっかー』で、バレーボールは『ばりぼーる』」  ぶつぶつと情報を反芻する電子辞書。間違いを正してやると、あの、顔を傾けて頬に一 指し指が埋まる体勢を取る。そのまま普通に歩き続ける様は怖いが、数秒の後に元に戻る。  赤ん坊の破顔と「ごめち」という言葉。そして反芻。 「サッカー……『さっかー』……バレーボール……『ばりばりさいきょうなんばーわん』」 「ばりぼーる!」  俺の突然の大声に、周囲を歩いていた同じ学校の生徒達がこちらを振り向いた。顔には 『なんだこの変な奴』と大文字で書かれているのが分かって、俺は身体を小さくして歩み を再開する。僕の傍を歩いていた人もさりげなく距離を取って歩いていった。  僕の瞳には、俺を見て笑いながら生徒の隣を歩いている電子辞書が映っていた。指をさ していたり、隣を歩く別の電子辞書と顔を半分こちらに向けて口元を抑えつつ話していた り。あまりにもあからさまな反応だけれど、呆れるよりも息苦しさが強い。そんな思いを 紛らわすために、僕は自分の電子辞書に思考を這わせた。  自立型電子辞書は従来の電子辞書の常識を打ち破り、外部から情報を蓄積させることに よって辞書としての役割を徐々に教え込んでいくというものだった。『何のための電子辞 書だ!』と多くの人の反対の中で発売された電子辞書は反対派の思惑を軽く飛び越えてい った。すぐに人に聞いて自ら調べることをしなくなってきた若者――特に男子学生――に 対して凄まじい影響を彼女達は与えたんだ。  辞書は何も教え込まない状態からは、本当に役立たずだ。俺も中学に入って二月になろ うとしてるけれど、四月から購入したこの電子辞書にたっぷり習った英単語を教え込んで もこの状況だし。  でも、そんな辞書に英単語を教え込むために購入者は必死になって勉強をした。  何度も何度も教えないと正確な単語を覚えない電子辞書へと、毎日毎日同じ単語を語り かける。  結果、ちゃんと辞書が単語を覚えた時には達成感が生まれる。  その過程を繰り返すうちに、教え込んでいた人自身が英単語をちゃんと覚えていた……。  それが開発者の意図であり、思春期の男子学生達は見事応えた。  言語を習得するには繰り返しが必須。  勉強には覚えたことによる達成感が必須。  二つの命題を同時に満たすことが出来たこの電子辞書は、反対派の意見を押し切り爆発 的に日本中に広まったのだった。 (やっぱり、愛なのかなぁ)  もちろんそれは恋愛感情じゃない。中には本当にそんなことを考える人もいて、その人 が反対派の言葉の上に載せられるんだろうけど。少なくとも僕が電子辞書に抱いているの は恋愛と言うよりも、小さな時に良く遊んだ人形とかに対する物だった。今はもう物置の 奥に眠ってる擦り切れた人形。それだけ毎日掴んで遊んでいたのは、やっぱりその人形が 大好きだったからで。その時の記憶を呼び起こすと、今、胸の中にある感情に重なる部分 が多い。 「こんにちは……『ぐっどあふたぬーん』……こんばんは……『おばんです』」 「こんばんはは『ぐっどいーぶにんぐ』」  顎に手を当ててぶつぶつと単語を呟く電子辞書。これからどんどん、辞書として立派に 育っていってほしい。あの、たまに見せる笑顔もどんどん見ていきたい――。 「……よっ! おはよう、秀樹!」  背中から声と共に張り手が飛ぶ。背中を思い切り叩かれたことで、俺の妄想は全て吹き 飛んでいた。咳き込みながら足を進めていくと共に、電子辞書のイメージも流れ出ていく。 「お前な……朝から強打するんじゃねぇよ」 「悪い悪い」  全く悪びれもなく、裕史は笑みの形に口を開いた。目は全く笑ってないし、喜怒哀楽の 『喜』だけ抽出したような表情。おかっぱ頭で目が鋭く、鼻は高い。ちょっと日本人離れ してるんじゃないかと思うけれど、裕史の両親は日本人だ。あんまり裕史に似てないけど。  さっきまで脳内で構築されていた電子辞書の姿からは対極と言ってもいいほど、この男 は愛らしさがなかった。  そんな顔をしてるからか友達が少ない裕史の、少ない友人の一人が俺なんだけれど。 「ぼんやりぶつぶつ言いながら歩いてるからよ。いつもの妄想が始まったなと思ってずっ と後ろついてたんだ」 「……そうか」  俺は裕史に目もくれず歩き出す。もう少しで学校に着くから、方々の通学路が一つにな る。それで生徒の密度も増えるんだけれど、さっきまで見えていたたくさんの電子辞書は もう見えなくなっていた。僕の妄想が生んだ電子辞書。僕の隣にも、もう彼女はいなかっ た。変わりにいるのは悪魔顔の悪友。俺が妄想につかってぶつぶつ言ってても、変な顔を 絶対にしない、悪友。 「で、今度はどんな話なんだ? 俺はその妄想力なら作家を目指せると思うんだが」 「いや……作家にはなりたくないよ。出来ればサッカー選手が良いけれど……今日はちと 違うものを目指したくなった」  そこから学校に着くまでに裕史に電子辞書の話をした。裕史は笑い顔を崩しはしなかっ たが、瞳は真剣さを保ってる。ちょうど玄関の前に差し掛かったところで、話が終わる。  中に入り、靴を脱ぎながら会話は続いていく。 「ふむ。なるほど……確かに過程と結果は大事だからな。昔の人もよく言ったものだ。満 足度が仕事の能率を決めると」 「お前もまた中学生らしからぬ学問をかじってそうだな」  裕史は趣味で中高生が習わないような学問を勉強してるから、俺には良く分からない事 をたくさん知っている。そんなところが好きだから、一緒にいられるのかもしれない。こ の男といれば、どんどん知らないことを知ることが出来て、いろんな世界を見られるかも しれないから。 「で、なりたいものとはやはり技術者か?」 「うん。そんな電子辞書作れたらいいなと思って」  そんな電子辞書があったら、俺はきっと楽しんで勉強できると思うんだ。今も楽しんで はいるけれど。楽しくないと言ってこの時期なのにやる気がゼロになった同級生もいるか ら……そんな辞書があれば、もっと勉強が楽しくなると思うんだ。  そこまで言うのは恥ずかしいから、心で呟くだけにしたけど。 「なら、まずは数学を勉強だな」 「やっぱりそうなるよな」  中履きに変えて廊下を歩く。一時間目は苦手な数学。憂鬱になるけれど、今日くらいは 思い切りやってみようかな。 「勉強しなきゃな」 「ああ。今のうちに勉強しておけ。いろいろ役立つから」  親みたいなこと言う奴だ。でも確かに一理ある。今のうちに勉強しておいて、後で選択 の幅を広げる。当たり前のことだけど、忘れがちなことだろう。 「よっし! がんばるか!」  両手を上にあげて気合を入れて叫んでみる。今度は周囲の学生もいないから、恥ずかし さとかはなかった。裕史も声を押し殺して笑ってるだけ。裕史は隣のクラスに消え、俺も 教室の扉の前に立つ。今日は一日、いい日になりそうな気がしていた。 「おっはようー!」  勢い良く開けた俺を待っていたのは三十九人の生徒と一人の先生の視線だった。 「やる気があるのはいいが、遅刻はするな」 「……ごめんなさい」  くじけず、勉強がんばります。


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