スモーキング・ワールド

掌編ページへ



 叩きつけられた雨粒が煙となり、空へと帰っていく。
 激しさが生む霧に沈む会場の入り口で取り出したタバコに火をつけると、道路から湧き出している煙に比べれば微々たる物ではあったが本当の煙がゆらゆらと昇る。
 会場内ではこれから始まる別れに備えて、人々が思い出話を進めていた。
 入ってすぐのところにある長椅子に備え付けられている灰皿が吸殻で埋まり、その上に更に残骸をさらしている。外から覗けば、その一角の霞み具合が見て取れた。
 雨粒が更に砕け、霧となって昇る様はスーツの裾を濡らすかいがあったと思えた。単に、タバコの煙が充満した中にいるのが耐え切れなかっただけだが、寒さが身体を撫でるだけではなかったことに空へと送り出す人の思いを感じる。
 もちろん俺の妄想だろう。死んだ後で意思が物理的に残るとは思えない。あるとすればよく言う「俺達の心の中に」というやつだ。思いに質量はない。暖かさはあるだろうが。
 灰色の空から落ちてくる水の弾丸は容赦なくアスファルトをえぐる。実際に砕けているのは雨粒だと分かってはいても、そう思わずにはいられない。
 三日前の今頃もこんな雨が世界を打ち、煙に包んでいた。
 父の命までも、包み込んでいた。
「はぁ」
 少し多めに吸い込んだタバコの煙をゆっくりと吐き出す。白く苦いニコチンは水に溶けこんですぐ消える。その残像を目で追っていくと、その先に黒い半ズボンから伸びた足が見えた。
(誰だ? こんな雨の中)
 そこで初めて、自分の視線が俯き加減になっていたことを知る。最初はまっすぐ前を向いていたはずなのに。タバコが肺を満たすたび。世界を覆う煙が濃くなるたび。顔は下を向いていったのだろう。
 視線に飛び込んできたのは、まだ小学校二年といったところの少年だった。目は嫌悪感を隠そうともせず、俺の後ろに立つ建物を凝視していた。
 俺を凝視、していた。
 何度も何度も咳き込んでいて、汚らわしいものから逃げようとしている。雨にも濡れていないその身体を後ずさりさせて。
「なんでこんなもの見えるんだろうな」
 呟いても幻影は消えない。けして消えることはない。俺が生きている限り、こいつは消えない。
「なんでそんな目で俺を見る?」
「なんでそんな目で僕を見るの?」
 幻影が口を開く。声のトーンは違っても、口調、イントネーションは同じだ。
 煙に包まれた世界で出会った昔の俺は、眩しくて目を細めてしか見えなかった。
「俺が聞いてるんだぜ? 先に答えたら教えるよ」
「……いつから、煙草を吸っているの?」
 指に挟んだ煙草を下に落として踏みつける。意識してやった動作じゃない。あくまで反射的なものだった。
「いつからかな。確か、大学入ったあたりかな」
「あんなに煙が嫌いだったのに」
 非難を隠さない。子供は思っていることを飾らず出してくるものなんだろう。過去の自分も例に漏れず、自分の嫌なことをする俺に怒りと困惑をそのままぶつけてきた。
「おそうしき、は嫌いだよ。おせんこうの煙がとても臭い。喉痛いし。お父さんの煙草も嫌い」
 その煙草を吸っていた父は肺がんで死んだんだ。今、お前の見ている建物の中に眠ってるんだ。それを言っていいんだろうか? この幼い自分に。
「おじいちゃんがいなくなった時も、こんな匂いだったし、雨だったよ。皆、煙草を吸ってて僕は全然中に入れなかった。おそうしきなんて退屈だし臭いし嫌だよ。お父さんと動物園に行ったほうがいい」
「でもお父さんの煙草は嫌なんだろう?」
「うん。臭いもの。でもお父さんは怒ったら止めてくれたよ」
 そうして俺のいない場所で吸っていたんだ。そこから帰ってきて煙草の匂いが身体にこびりついていたなら、烈火のごとく俺の怒りをふっかけられる。謝りつつも、結局止めずに同じやり取りを続けていく。
 いつしか煙草に怒ることが楽しくなっていた。父と同じようなやりとりを続けること自体が目的になっていた。変わらないことを求めていた。
「ねぇ。今日は誰がいなくなったの?」
「父さんだよ」
 言いたくないことも、答えるしかない。いや、言わなくても『俺』は分かっていただろう。これは確かに幻影だけど、別の存在じゃない。俺が見せている『俺』なのだから。隠すことなんてない。真実は一つしかない。
「煙草、止めてよ」
 一連の動作はもう身体が覚えている。思考の合間に煙草を取り出し、ライターに火をつけて、風に当たらないように隠しつつ煙を昇らせる。子供の俺から指摘されなければいつ動作を開始したのかさえ分からない。
「どうして平気なの?」
「まあ、いろいろ大人になったのさ。お前から十年以上経ったんだ」
「じゃあ」
 子供の俺は前を向いたまま足を後ろに下げる。一歩ずつ、俺から遠ざかる。
「もう、僕と君は違うの?」
「そんなわけないだろ。俺とお前は同じ俺だよ」
「違うよ。僕はお父さんが死んだら悲しいよ」
 俺が悲しくないとでもいうのか? このガキは。煙草を一度大きく吸って、吐く。タイミングを外して一気に沸騰した脳を冷やそうとする。
 でも、本当に霞がかかったように幼い俺はその姿を消していく。
 まるで、この世界全体が俺の吐き出した煙によって消えていくように。
 それとも、俺が消えかかっているんだろうか。この世界から。
「ねえ。悲しくないの? なんで皆と一緒に思い出を話さないの? 一緒に語り合えば、昔を懐かしむことで思い出を蘇らせて、一緒に泣けるじゃない」
 遠ざかっていた小さい俺が、いつの間にか目の前に立っていた。俺の身体は自分でさえ見えない。
 白くヤニ臭い世界に俺は溶け込んでいく。それでも、相容れぬ存在であるはずの『俺』がいる。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも死んじゃったんだね。寂しい。悲しいよ」
「泣くなよ」
 そう、口に出来たのかさえ分からなかった。俺の耳に入ってくるのは蹲る小さい影のすすり泣く声。
 掠れ、届くか届かないかの小さな音は俺の身体を膨張させる。
 漏れ出るのは強い一つの思い。目を背けていた、煙にまいていた思い。
 それでも、俺は。
「泣くなよ」
 抱きしめる。小さい背中を。寂しさに震えるその身体を。
 そのまま子供の俺を抱き上げて、後ろを振り返る。
 親戚や父の知人らが白い煙に包まれて故人を惜しんでいた。煙草の煙。線香の煙。
 死人を受け入れた人々がまとう煙。
「俺は、あの人達と話せる思い出なんてないよ」
 きゅっと抱く力を強めると、心なしか軽くなる。何か抜け落ちた物が戻ってくるかのような感覚を得る。身体が重くなって、奥から熱いものがこみ上げてくる。
「俺が持っている思い出は、俺だけのものだよ。家族でさえも共有できない。だから、俺は一人で泣くんだ」
 歪む視界で俺は笑顔を見た。
 あれだけ嫌がっていた過去の自分は、満面の笑みを浮かべながら俺の中に戻っていく。
 痛みとそれに伴う辛さ。何がそうさせているのかという切なさが。
 俺が成長していったことも、戯れに吸ってからいつしか普通に煙草を嗜むようになったことも。
 他にもたくさんの思い出は、建物の中にはない。
 あの語り合い、涙している人々の中にもない。
 俺だけが持っているからこそ、誰とも共有できないし、悲しむこともない。
「いろいろ、変わったんだね」
「ああ」
「でも、変わってないんだね」
「ああ」
 声変わりのないテナーが耳の奥へと消える。思い切り抱きしめることで完全に俺の中に取り込まれた少年時代は、囁きを残して消えていった。
「だからやっぱり、泣いていいんだと思うよ」
「……ああ」
 自分の身体を抱きかかえ、俺は涙があふれるままに感情を任せる。
 中身の残ってる煙草の箱は道路に落ち、横殴りの雨が渇きを奪う。
 俺の身体から煙草の匂いは消えない。
 でも、子供の頃の思い出も、三日前まで過ごした父の姿もずっとずっと残っていく。

 身体にしみ込む、煙草の香りのように。


掌編ページへ


Copyright(c) 2006 sekiya akatuki all rights reserved.